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壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

鑑賞の持分

2008年10月09日 21時31分35秒 | Weblog
        岩鼻やここにもひとり月の客     去 来

 この句については『去来抄』に、芭蕉と去来との有名な問答を伝えている。原文には、次のように見えている。

   汝、この句をいかに思ひて作せるや。去来曰く、名月に山野を吟歩し侍る
  に、岩頭また一人の騒客を見つけたると申す。先師曰く、ここにもひとり月
  の客、と己と名乗り出でたらんこそ、いくばくの風流ならめ。ただ自称の句
  となすべし。

 去来は、「月の客」を第三者のこととして詠み、芭蕉は、作者自身のこととすべきである、と説いているのだ。文学が、事実そのままの単なる描写ではないことを、芭蕉はきびしく指摘したわけである。
 従来の注釈に従い、第三者の句とした場合と、自称の句とした場合の違いを見てみよう。
 ――仲秋の名月に浮かれて山の麓のあたりを歩いていると、岩の突端のあんな所にも一人、わたし同様、月を愛でている客がいるよ。(第三者の句)
 ――仲秋の名月に浮かれて山の麓のあたりを歩いていると、岩の突端に一人の風流人がいた。おうい、そこのお人、ここにもひとり月を愛でている酔狂がおるぞ。(自称の句)

 俳句のように極端に短い表現形式の場合には、必ずしも作者の意図がそのままに読者に伝わるものだとは考えられないし、それだけに読者には鑑賞の自由も許される。作品が作者の手を離れたら、どのように鑑賞されようが、作者はニコニコしているほかないのだ。
 しかし、芭蕉が言っているのは、決して作者の発想に対する誤解ではなくて、創作上の秘密を語るものであるとともに、作品の価値が、いかに鑑賞者の持分に支配されるものであるかを示すものでもあろう。

 去来は、句の創作にあたって、あまりにも正直でありすぎた。さきの芭蕉の発言に対して去来は、「先師の意をもて見れば、少し狂者の感も有るにや」といって感嘆しているが、いかにも去来らしいところがあって、微笑を禁じえない。
 作者の意図を曲げてまでも、「こっちのほうがいいよ」という師の芭蕉。「たしかにそのほうがいい」とそちらに平気で乗り換えてしまう弟子の謙虚さ。
 現代の俳人の多くは、自分の経験や観察に基づき、事実をありのままに詠むのが俳句だ、という近代以後の「写生」の方法にとらわれすぎている。
 「写生」を金科玉条にしない近世俳諧の立場に立てば、経験の場にあった事実と、表現として成立した世界とが同じでないというのは、別に珍しいことでもなんでもない。

 ところで、去来のこの句の従来の解釈で、気になる点が二つある。
 一つは、「岩鼻や」の切字「や」である。「や」であって「に」ではないのだ。
 作者はまず、月光降り注ぐ「岩鼻」に注目しているのである。
 もう一つは、「月の客」という語である。従来は「月見をしている風流人」と解されてきた。だが「客」を「風流人」と解すのは無理だと思う。「主客転倒」という熟語があるように、「客」は、主(あるじ)である「月」に対しての客人(まろうど)であり、文字通り、「月にとっての客人」なのである。
 以上のことに留意して、

   おや、あんな所に、月光をさんさんと浴びている岩鼻があるぞ。
   おお、そうだ、あいつも月を愛でているのだ。
   おーい、お月さんよ、ここにも一人、月の客がおるでー……。

 と、己(おのれ)と名乗り出た句と解したほうが面白い。「岩鼻」も「月の客」、「己」もまた「月の客」なのである。
 主である「月」の、その光の饗応に、「岩鼻」とともに身を委ねるのである。これこそ「風狂」の姿勢であろう。
 芭蕉は、「岩鼻や」の一句を主観句として理解、鑑賞したのである。芭蕉には、すすんで自然と一つになろうとする意気が見える。
 この「自然と一つになる」ということが、なにごとにおいても非常に大切だと思う。
 ちなみに、変人の俳号「季己」は、「ひでき」と読み、「己を季となす」つまり「己と季語(自然)とを一つにしたい」という、切なる願いを込めたものなのである。


      曼珠沙華むれ咲いてより四面楚歌     季 己