壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

真間の手児奈

2010年06月01日 22時55分48秒 | Weblog
        葛飾の 真間の井を見れば 立ち平(な)らし
          水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ  
              高橋虫麻呂  (『萬葉集』巻九)

 「葛飾の真間」は、今の千葉県市川市。この地名は、東国の中でも印象的な地名である。
 それはそこに、多くの人々によって讃美された永遠の処女というべき、伝説上の佳人、「真間のてこな」がいたからである。「真間のてこな」は、多くの男に求愛され求婚されたが、誰にも許さずに、水に身を投じて死んだという。
 ところが同じ「真間のてこな」も、山部赤人の歌によると、必ずしも男と交渉がなかったというわけでもなさそうである。さらに巻九の雑歌にある「上総末珠名娘子(かみつふさのすえのたまなおとめ)」になると、むしろ多くの男にからだを許した女性のようである。
 これは、古代の伝承上の女性は、皆、神に仕える女性であって、神以外にはからだを許さない。その面から見れば、永遠の処女であり、反面、神の資格の者には誰であれ、からだを許さねばならなかったので、その面が強調されると、誰にもからだを許す女ということになる。

 「真間」は固有名詞だが、普通名詞としては、切り立ったような崖をいう語である。
 「井」は、水汲み場、用水場というぐらいの広いことばで、湧き出る清水や、流れる川や、溜まっている池の一部などが「○○の井」と呼ばれた。そこにはたいてい、水を管理する女性がいた。
 「真間の手児奈」は、真間の井を管理する巫女だったと思われ、その井水を汲みに出た姿が、まず近在の人たちに美しく印象されたのであろう。
 「立ちならし水汲ましけむ」は、始終、水汲みに行って、その地面を平らに踏み馴らした、の意。水を汲むのは処女の仕事であり、水汲み場が、村人には妻問いの機会でもあった。

 「真間の手児奈」というと、奈良県立万葉文化館の基幹コレクションというべき「万葉日本画」154点の中の一点、黒澤正先生の「真間手児奈」を思い起こさずにはおれない。
 今、銀座の「画廊宮坂」で開催中の『黒澤 正・渡辺洋子 二人展』の会場で、『黒澤正 作品集』を先生からいただいたが、その表紙が、まさに「真間手児奈」であった。
 その作品集によると、黒澤先生は『萬葉集』の中から、
        葛飾の 真間の手児奈を まことかも
           われに寄すてふ 真間の手児奈を
 を選び、その万葉のうたの世界をビジュアル化した作品が『真間手児奈』であるという。(「黒澤さんの作品世界」 大矢鞆音)
 「真間手児奈」の制作に当たっては、おそらく高橋虫麻呂の上掲の歌が、先生の胸中にあったと思うが、いかがであろうか。こんど先生にうかがってみたい。


      青鷺のひらりと翔ちし夕景色     季 己