しかられて次の間へ出る寒さかな 支 考
『枯尾花』所載の句で、季語は「寒さ」で冬。
芭蕉死去の前日の元禄七年(1694)十月十一日、大坂御堂筋の花屋の貸座敷の病床に詰めていた門弟たちが、それぞれ夜伽の句を詠んでおることは、きのう書いたが、そのうちの一句である。
当時、三十歳の支考は、伊賀から芭蕉に随従しており、師が病床に臥してからもまめまめしく看護に尽くしていた。
が、時には芭蕉の機嫌をそこなって叱られることもあったのであろう。そうした折、師の枕元からすごすごと引き下がって次の間へ出てゆくと、夜の寒さがひとしお身に沁みる、という句である。
その場の実感のこもった素直な句である。
「寒さ」には、初冬の夜の寒さだけでなく、余命いくばくもない師翁に𠮟られたという、自責から来る心理的な寒さも込められていよう。
芭蕉はこの時、丈草の「うずくまる薬の下の寒さかな」の出来栄えを、特に誉めたが、支考のこの句も合格点をつけられ、芭蕉ももっと誉めてもよかったのではないかと思う。丈草の句に似たところがあるから、誉めなかったのであろうか。
他の弟子たちの句についても検討してみよう。
病中のあまりすするや冬ごもり 去 来
引張てふとんぞ寒き笑ひ声 惟 然
おもひ寄夜伽もしたし冬ごもり 正 秀
くじとりて菜飯たかする夜伽かな 木 節
皆子なりみのむし寒く鳴尽す 乙 州
去来の句は、これでは何をすするのかがわからない。初五を「白粥の」とした本もあり、それだと、すするものはわかるが、今度は、看病中のことかどうかがはっきりしない。
その点を別にしても、ただ、事柄を述べただけで、情感がたりない。
惟然の句は、弟子たちが、足りない布団を引っ張り合って寝るさまで、俳諧味を出そうとしたのであろうが、俗なだけで夜伽の雰囲気はなく、芭蕉の言う「俳意」にはほど遠いものである。
正秀の句の「おもひ寄」は、思う存分という意であろう。師の夜伽が、思うように出来ないのを嘆いたものだが、気持があらわに出過ぎて、句が浅くなってしまっている。
木節の句を見ると、炊事はくじ引きで担当を決めていたようだが、これもただの報告で情感がない。そのまま素直に詠むのがよいと言っても、そうした作り方の句では、身辺にたくさんある中の何に目をつけるか、要所を押さえることが大切。それが勝負どころだと思う。
ただそのまま詠めばいいというものではない。何を取り出すかに、作者の詩的センスの有無(うむ)の差が、はっきり出てしまう。
乙州の句は、蓑虫にたとえて、師を失う弟子たちの悲しむ様子を詠んだものだが、わざとらしくて、こちらが「チョー サブー」になってしまう。
こうして見ると、支考の句を別にすれば、どれも芭蕉翁から合格点をもらえるような句ではない。こんなことでは、「おれが死んだら、蕉門の句は一体どうなるのか」と心配になり、死んでも死に切れなかったのではなかろうか。
事実、芭蕉没後、蕉門は衰退の一途をたどり、後に、「芭蕉に帰れ」の旗印を掲げ、再興したのが蕪村なのである。
葱の香や山の向うに人が住み 季 己
『枯尾花』所載の句で、季語は「寒さ」で冬。
芭蕉死去の前日の元禄七年(1694)十月十一日、大坂御堂筋の花屋の貸座敷の病床に詰めていた門弟たちが、それぞれ夜伽の句を詠んでおることは、きのう書いたが、そのうちの一句である。
当時、三十歳の支考は、伊賀から芭蕉に随従しており、師が病床に臥してからもまめまめしく看護に尽くしていた。
が、時には芭蕉の機嫌をそこなって叱られることもあったのであろう。そうした折、師の枕元からすごすごと引き下がって次の間へ出てゆくと、夜の寒さがひとしお身に沁みる、という句である。
その場の実感のこもった素直な句である。
「寒さ」には、初冬の夜の寒さだけでなく、余命いくばくもない師翁に𠮟られたという、自責から来る心理的な寒さも込められていよう。
芭蕉はこの時、丈草の「うずくまる薬の下の寒さかな」の出来栄えを、特に誉めたが、支考のこの句も合格点をつけられ、芭蕉ももっと誉めてもよかったのではないかと思う。丈草の句に似たところがあるから、誉めなかったのであろうか。
他の弟子たちの句についても検討してみよう。
病中のあまりすするや冬ごもり 去 来
引張てふとんぞ寒き笑ひ声 惟 然
おもひ寄夜伽もしたし冬ごもり 正 秀
くじとりて菜飯たかする夜伽かな 木 節
皆子なりみのむし寒く鳴尽す 乙 州
去来の句は、これでは何をすするのかがわからない。初五を「白粥の」とした本もあり、それだと、すするものはわかるが、今度は、看病中のことかどうかがはっきりしない。
その点を別にしても、ただ、事柄を述べただけで、情感がたりない。
惟然の句は、弟子たちが、足りない布団を引っ張り合って寝るさまで、俳諧味を出そうとしたのであろうが、俗なだけで夜伽の雰囲気はなく、芭蕉の言う「俳意」にはほど遠いものである。
正秀の句の「おもひ寄」は、思う存分という意であろう。師の夜伽が、思うように出来ないのを嘆いたものだが、気持があらわに出過ぎて、句が浅くなってしまっている。
木節の句を見ると、炊事はくじ引きで担当を決めていたようだが、これもただの報告で情感がない。そのまま素直に詠むのがよいと言っても、そうした作り方の句では、身辺にたくさんある中の何に目をつけるか、要所を押さえることが大切。それが勝負どころだと思う。
ただそのまま詠めばいいというものではない。何を取り出すかに、作者の詩的センスの有無(うむ)の差が、はっきり出てしまう。
乙州の句は、蓑虫にたとえて、師を失う弟子たちの悲しむ様子を詠んだものだが、わざとらしくて、こちらが「チョー サブー」になってしまう。
こうして見ると、支考の句を別にすれば、どれも芭蕉翁から合格点をもらえるような句ではない。こんなことでは、「おれが死んだら、蕉門の句は一体どうなるのか」と心配になり、死んでも死に切れなかったのではなかろうか。
事実、芭蕉没後、蕉門は衰退の一途をたどり、後に、「芭蕉に帰れ」の旗印を掲げ、再興したのが蕪村なのである。
葱の香や山の向うに人が住み 季 己