壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

夏来たるらし

2009年05月08日 21時02分16秒 | Weblog
                 持統天皇
        春過ぎて 夏来たるらし 白妙の
          衣ほしたり 天の香具山  (『萬葉集』巻一)

 藤原宮の宮殿から、眺められた光景であろうか。
 「来たるらし」の「らし」というのは、推量であるが、この歌の場合、実際を目前にしつつ言う推量で、「来たらしい」という程度の推量ではなく、「もう来たとみえる」、「来たに違いない」という自信を持った推量である。そしてその自信の根拠は、白妙の衣がほしてある、ということなのだ。
 天の香具山の緑を背景に、真白な衣がほしてある。それに、季節の推移を作者が感じたのだ。
 日本の詩歌の主題の有力なものは季節感であるが、季節感は、その季節そのものの感じと、推移してゆく季節の感じとに分けられる。
 持統天皇のこの歌は、季節の推移を詠んだ最も古いものとして、動かない価値を持っている。

 古くは夏というと、禊(みそぎ)の連想を伴なったものらしい。田植えの前に、神聖な早乙女の資格を得るために、村の乙女たちは、山遊びや野遊びをした。
 一定期間、乙女たちだけ隔離して、物忌みの生活を送った。禊のための小忌衣(おみごろも)を脱いではほし、脱いではほししていた。

 「白妙」は、楮(かじ=コウゾ)の木の皮の繊維で織った布である。洗えばますます白くなるところから好まれたらしく、後には楮でなくても「白妙の衣」と言うようになった。常用の服ではなく、祭のときの斎服である。
 青々とした香具山に、その衣のいやが上にも白い色彩が、対照的に映え、生き生きと夏の到来を感じさせるのである。
 ふだんは人の住まない山の中腹にそれを見出して、乙女たちの山籠りの生活を思いやっているのだ。
 それは藤原宮からすぐ東に、指呼のあいだに眺められるのである。

 背後の古代生活を頭に置いて味わえば、この歌がいっそう生彩を放ってくる。人々の生活を律しているものが自然の運行であり、生活のリズムは、自然のリズムにしたがって繰返される。
 夏が来て、香具山に乙女たちの白妙の衣が目に映えれば、やがて田植えの季節がやって来る。だからこの歌には、おのずからこの年の農作物の豊かさと、国うちの生活の幸福とを予祝しているものと言えよう。

 初夏の日ざしと、山の新緑と、白妙の衣と、いかにも明るい色彩感覚に満ちた、印象明瞭な歌である。
 小倉百人一首は、「夏来にけらし」「衣ほすてふ」と改めて採っているが、断定的な表現を避けて、この歌の鮮やかな印象を、気分本意に曖昧化してしまったのである。


      精霊の賛歌さはさは初夏の森     季 己