「森山知己 個展」で、水墨画の作品『湖水』に感動したことは、きのう書いた。
絵画作品も俳句同様、事実を報告したり、説明したりするものではない。したがって、『湖水』が、どこの湖であるか詮索する必要はないのだが、琵琶湖に思えてならない。『湖水』は、森山さんの“胸中の風景”であろうが、少なくとも琵琶湖近辺を取材しているに違いない。
勝手にそう決めて、琵琶湖の時雨を詠んだ句をさがしたら、次の句を見つけた。
幾人かしぐれかけぬく瀬田の橋 丈 草
丈草(じょうそう)は、元禄二年(1689)、芭蕉に師事し、同四年刊行の『猿蓑』に初入集した。しかも其角・尚白・史邦らに次いで多く発句十二を数え、漢文で後序を執筆するなど、一躍、名をあらわした。
同六年、近江の無名庵に移り住んだ。
同七年、芭蕉が没するや、中陰のうちに『寝ころび草』を綴り、三年の喪に服した。
同九年、義仲寺に近い竜が岡に仏幻庵を結んで隠棲、亡き師追善の写経に専念、経塚建立の念願を果たした翌年、宝永元年(1704)二月、四十三歳の生涯を閉じた。蕉門四哲の一人。
「幾人」は、「いくたり」と読む。「しぐれ」は、晩秋から初冬のころによく降る冷たいにわか雨をいう。さっと降り過ぎる、通り雨の性質を、「かけぬく」が巧みに暗示している。その「しぐれ」のなかを「かけぬく」のは、もとより人である。
「幾人か」は、橋の上の通行人のうちの幾人かは、の意に解せなくもない。しかし、一部の者は雨具の用意があるか、あきらめるかしてそのまま歩き続け、他の数人だけが走り出したというのでは、時雨の本意よりも人々の反応ぶりに興味が移り、底の浅い滑稽に堕してしまう。
「三四人」などと、具体的に人数を挙げるのも、作りすぎの印象を免れず、やはり「幾人(いくたり)か」がよい。
「駆け出す」ではなく、「かけぬく」と言ったことで、長い橋を懸命に走り、ついには橋を渡りきるまでの始終を、祈るように見守っている心持が知れる。この場合、延べ三百メートルに近い「瀬田の橋」であることがよく効いている。瀬田の橋は、言うまでもなく、近江八景の一つ、瀬田の夕照などで知られる“瀬田の唐橋”である。
急にくずれてきた空模様と、波立つ湖面を背景に、長大な橋上を雨宿りの場所を求めて、旅人が駆け抜けていく大きな景観とダイナミックなシーンには、のちの広重の版画を見るような、美しい詩情と適度の俳諧性が認められる。
確かな構成力と、対象を動的に把捉する才腕がうかがえる。さすが“蕉門の四哲”の一人、と思わせる秀句である。
むろん、森山さんの『湖水』には、瀬田の唐橋は描かれていない。湖水と横時雨?そして、近景に竹、遠景に山並みが描かれているだけである。
また、落款印のかわりに「山川草木……」の遊印が押されているのが、何とも洒落ていていい。
しぐるるや淡海も北の竹生島 季 己
絵画作品も俳句同様、事実を報告したり、説明したりするものではない。したがって、『湖水』が、どこの湖であるか詮索する必要はないのだが、琵琶湖に思えてならない。『湖水』は、森山さんの“胸中の風景”であろうが、少なくとも琵琶湖近辺を取材しているに違いない。
勝手にそう決めて、琵琶湖の時雨を詠んだ句をさがしたら、次の句を見つけた。
幾人かしぐれかけぬく瀬田の橋 丈 草
丈草(じょうそう)は、元禄二年(1689)、芭蕉に師事し、同四年刊行の『猿蓑』に初入集した。しかも其角・尚白・史邦らに次いで多く発句十二を数え、漢文で後序を執筆するなど、一躍、名をあらわした。
同六年、近江の無名庵に移り住んだ。
同七年、芭蕉が没するや、中陰のうちに『寝ころび草』を綴り、三年の喪に服した。
同九年、義仲寺に近い竜が岡に仏幻庵を結んで隠棲、亡き師追善の写経に専念、経塚建立の念願を果たした翌年、宝永元年(1704)二月、四十三歳の生涯を閉じた。蕉門四哲の一人。
「幾人」は、「いくたり」と読む。「しぐれ」は、晩秋から初冬のころによく降る冷たいにわか雨をいう。さっと降り過ぎる、通り雨の性質を、「かけぬく」が巧みに暗示している。その「しぐれ」のなかを「かけぬく」のは、もとより人である。
「幾人か」は、橋の上の通行人のうちの幾人かは、の意に解せなくもない。しかし、一部の者は雨具の用意があるか、あきらめるかしてそのまま歩き続け、他の数人だけが走り出したというのでは、時雨の本意よりも人々の反応ぶりに興味が移り、底の浅い滑稽に堕してしまう。
「三四人」などと、具体的に人数を挙げるのも、作りすぎの印象を免れず、やはり「幾人(いくたり)か」がよい。
「駆け出す」ではなく、「かけぬく」と言ったことで、長い橋を懸命に走り、ついには橋を渡りきるまでの始終を、祈るように見守っている心持が知れる。この場合、延べ三百メートルに近い「瀬田の橋」であることがよく効いている。瀬田の橋は、言うまでもなく、近江八景の一つ、瀬田の夕照などで知られる“瀬田の唐橋”である。
急にくずれてきた空模様と、波立つ湖面を背景に、長大な橋上を雨宿りの場所を求めて、旅人が駆け抜けていく大きな景観とダイナミックなシーンには、のちの広重の版画を見るような、美しい詩情と適度の俳諧性が認められる。
確かな構成力と、対象を動的に把捉する才腕がうかがえる。さすが“蕉門の四哲”の一人、と思わせる秀句である。
むろん、森山さんの『湖水』には、瀬田の唐橋は描かれていない。湖水と横時雨?そして、近景に竹、遠景に山並みが描かれているだけである。
また、落款印のかわりに「山川草木……」の遊印が押されているのが、何とも洒落ていていい。
しぐるるや淡海も北の竹生島 季 己