散銭も用意がほなりはなの森 去 来
――先ず、去来の一句から見ていこう。「散銭」は「賽銭」と同意で、神仏に参詣して奉る銭のこと。芭蕉は、言っていないが、この句の表現で面白いのは「用意顔」であろう。他に類例を見たことがないが、どうであろうか。おそらく、去来、得意の表現であったと思われる。そこで一句は、
「花盛りの森は、花見の人々で賑わっている。花見のついでに、
森の中にある神社にお参りしようというのであろう、皆が皆、
賽銭を用意しているといった顔つき、その用意顔が面白い」
と、いうほどの意味であろう。
ところが、芭蕉はこの句に対し、不可の評価を下したのである。「はな(花)の森」という措辞がおかしいというのだ。「森の花」というべきだというのである。
今ふうの感覚から言えば、「花の森」と「森の花」とでは、イメージ的にかなり違った印象を受ける。「花の森」の方が、はるかに華麗である。
芭蕉が指摘するように、「花の森」なる措辞は、古典作品に見当たらない。芭蕉の姿勢は、徹底して、歴代の俳人たちの必読書であった藤原定家の『詠歌大概』冒頭の「情(こころ)は新しきを以て先となし、詞(ことば)は旧(ふる)きを以て用ゆべし」を遵守しているのである。
たしかに、新奇な言葉の使用によって、一句のインパクトが増す場合がある。しかし、芭蕉の「詞を細工して……拙き事、云ふべからず」との発言には耳を傾ける必要があろう。新奇な言葉を追うあまり、、内容が希薄になる危険性は大きいのである。
俳人協会の発行する「俳句文学館」の12月号が今日届いた。その第一面は、俳人協会会員を対象とした「第18回俳句大賞」の結果発表である。
大賞には、
道を訊くために花買ふ巴里祭 「沖」 上谷昌憲
が、選ばれた。どうです、新奇な言葉がありますか。上五・中七が「巴里祭」という季語と響き合っています。「何をするにも心が浮き浮きするという華やぎが〈巴里祭〉に出ています。いい感じです」という選者の山本洋子氏の評が、正鵠を得ていると思う。
寄せ鍋の煮えてメタボの時のあり 季 己
――先ず、去来の一句から見ていこう。「散銭」は「賽銭」と同意で、神仏に参詣して奉る銭のこと。芭蕉は、言っていないが、この句の表現で面白いのは「用意顔」であろう。他に類例を見たことがないが、どうであろうか。おそらく、去来、得意の表現であったと思われる。そこで一句は、
「花盛りの森は、花見の人々で賑わっている。花見のついでに、
森の中にある神社にお参りしようというのであろう、皆が皆、
賽銭を用意しているといった顔つき、その用意顔が面白い」
と、いうほどの意味であろう。
ところが、芭蕉はこの句に対し、不可の評価を下したのである。「はな(花)の森」という措辞がおかしいというのだ。「森の花」というべきだというのである。
今ふうの感覚から言えば、「花の森」と「森の花」とでは、イメージ的にかなり違った印象を受ける。「花の森」の方が、はるかに華麗である。
芭蕉が指摘するように、「花の森」なる措辞は、古典作品に見当たらない。芭蕉の姿勢は、徹底して、歴代の俳人たちの必読書であった藤原定家の『詠歌大概』冒頭の「情(こころ)は新しきを以て先となし、詞(ことば)は旧(ふる)きを以て用ゆべし」を遵守しているのである。
たしかに、新奇な言葉の使用によって、一句のインパクトが増す場合がある。しかし、芭蕉の「詞を細工して……拙き事、云ふべからず」との発言には耳を傾ける必要があろう。新奇な言葉を追うあまり、、内容が希薄になる危険性は大きいのである。
俳人協会の発行する「俳句文学館」の12月号が今日届いた。その第一面は、俳人協会会員を対象とした「第18回俳句大賞」の結果発表である。
大賞には、
道を訊くために花買ふ巴里祭 「沖」 上谷昌憲
が、選ばれた。どうです、新奇な言葉がありますか。上五・中七が「巴里祭」という季語と響き合っています。「何をするにも心が浮き浮きするという華やぎが〈巴里祭〉に出ています。いい感じです」という選者の山本洋子氏の評が、正鵠を得ていると思う。
寄せ鍋の煮えてメタボの時のあり 季 己