壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

こほろぎ鳴くも

2011年12月04日 21時46分31秒 | Weblog
                  作者不詳
        秋風の 寒く吹くなべ 吾が屋前(やど)の
          浅茅(あさじ)がもとに こほろぎ鳴くも 
(『万葉集』巻十)

 「吹くなべ」は、吹くに連れてというほどの意。
 「浅茅がもとに」というのが、実質的でいい。結句の「も」は、哀憐(あいれん)のこころをあらわしている。この「も」は、万葉に甚だ多いが、古今集以後、この「も」をだんだん嫌って少なくなったが、こう簡潔につめていうから、感傷のいやみに陥らぬ、ともいうことができる。
 万葉にはこの種の歌が多いが、実質的でごまかさないのと、奥に恋愛の心をひそめているからであろう。


      山茶花のほろほろ灯油販売車     季 己 

『去来抄』13 続・田のへりの

2011年12月03日 21時26分24秒 | Weblog
        田のへりの豆つたひ行く螢かな

 ――これも『猿蓑』編集の時のエピソードである。
 去来と共に撰をしている凡兆は、『猿蓑』に、師の芭蕉の四十句をしのいで、四十二句も入るという腕利きの作者である。
 掲句の原形は、凡兆の句であった。それを「田のへりの」の『去来抄』が掲げている句形に添削したのは、芭蕉である。
 凡兆は、師である芭蕉の添削句を、「この句、見る処なし、のぞくべし」と、言ってのけたのである。当の芭蕉の面前において。変人は、凡兆の自負をたたえたいが、大方は、傲岸さを非難するであろう。
 添削・指導した芭蕉にしてみれば、凡兆のとった態度は、不快以外のなにものでもなかったと思う。「兆もし捨てば我ひろはん」との、芭蕉の発言にも、そのことは、うかがい知ることが出来る。芭蕉が、自分の句として貰おう、とまで言っているのである。芭蕉も、いささか感情的になっていたのであろう。
 蕉門では、「景色」の句を「景気(けいき)の句」と呼んでいた。そして、「景気の句はふるびやすし」とも言われていた。だが、「景気の句」を得意としていた凡兆は、自らの句が「ふるび」るものではないとの自信を持っていた。それには、まぎれもなく凡兆が発見した「景色」である必要があったのである。その上に立っての美的形象化、すなわち「風姿」の問題である。
 ところが、芭蕉がはしなくも「幸ひ、伊賀の連中の句に是に似たるあり」と発言しているように、一句が形象化している「景色」は、必ずしも凡兆の眼を必要としなかったのである。「等類」つまり、類句・類想の句があったのだ。それも凡兆より格下の作者にだ。
 凡兆が芭蕉と去来を向こうに回して、最後までかたくなな態度をとっているのは、この部分に起因していると思う。

 芭蕉の作品には、意外に純粋な「景気の句」が少ない。対象を通して自己の内面を語る、といった作品がほとんどである。
 芭蕉は、凡兆が捨てた句を拾い、伊賀の作者・万乎の句として、
        田の畝の豆つたひ行く螢かな     万 乎 
の句形で、『猿蓑』に収録されている。
 これを一体どう理解したらよいのだろうか。『猿蓑』は、あくまで佳句を残すことに重点が置かれる一方、「等類」ということに執拗にこだわっているだけに、何としても不可解な事象である。


      柊の花 飲みぐすり貼りぐすり     季 己

『去来抄』13 田のへりの

2011年12月02日 22時13分59秒 | Weblog
        田のへりの豆つたひ行く螢かな

 これはもともと、先師が添削された凡兆の句である。
 『猿蓑』編集の時、凡兆は、
  「この句は見どころがないので、取り除いた方がよい」
といった。
 私、去来は、
   「田のへりに生えている豆を伝って飛んでゆく蛍の光は、
    闇夜の景色として、風情がある」
といって入集を乞うたが、凡兆は許さなかった。
 先師は、
   「凡兆がもし捨てるなら、わしがそれを拾おう。さいわい伊賀の
    作者の句にこれに似たのがある。それを直してこの句にして、
    集に入れてやろう」
といわれて、ついに万乎の句ということにした。


      腰さすり手洗ひに立つ炬燵かな     季 己

『去来抄』12 続・振舞や

2011年12月01日 16時10分40秒 | Weblog
        振舞や下座になほる去年の雛     去 来

 ――芭蕉はじめ一門の連中は、上五を非常に重視した。そのため、あらかじめ思いつかれた七・五について、どんな上五を置いたらよいか、と俳人たちが議論する場面が、『去来抄』にしばしば出てくる。上五を誤れば、いくらいい七・五を思いついても、句は死んでしまうことが多い。
 
 しかし、この一条の眼目は、「私に思うところがあって作ったものである」の言葉に尽きる。つまり、「思うところ」の形象化である。
 『三冊子』(服部土芳著・俳論書)に、
        「常風雅にあるものは、思ふ心の色物となりて、句姿定まるものなれば、
         取物自然にして子細なし。心の色うるはしからざれば、外に言葉を工む。  
         是すなはち常に誠を勤めざる心の俗なり」
        (常に俳諧に心をひたしている者は、内なる情と外なる物とが一体となっ
         て、句姿が定まるから、対象はありのままに捉えられ、私意を加えたも
         のとはならない。心が純粋でないと私意がはたらくから、言葉を工みに
         飾ろうとする。これはつまり常に風雅の誠を求めない心の俗によるもの
         である)
との一節が見える。この「思ふ心の色」は、「思うところ」につながるものであろう。
 同じ『三冊子』には、
        「物に入りて、その微の顕れて情感ずるや、句と成る」
        (物の中へはいってゆき、物の本質に触れることによって作者の感動が
         生起し、それが句の実体となる)
との一節も見える。
 土芳の二つの言説は、正反対の作句の姿勢を示していよう。
 一つは、「思うところ」が対象を見出す場合であり、もう一つは、「物=対象」によって「情」が感動させられる場合である。両者に共通して庶幾されているのは、「自然(じねん)」すなわち、作為排除の姿勢である。
 この二つの作句姿勢は、今日の作者においても、そのまま当てはまろう。内面を対象によって形象化する場合と、対象から誘発された感動を形象化する場合とである。
 いずれの作句姿勢も認められるわけである。作者によって、自らの資質に従って作句すればよいのであるが、同一作者においても、ケース・バイ・ケースということもあろう。

 では、『去来抄』のこの一条における「思うところ」の、具体的な内容は如何なるものであろうか。それは不玉宛の手紙で知ることが出来る。次のように記されている。
        「家ニ久シキ人ノ衰(おとろえ)テ、時メク人ノ出来(いでく)
         ルハ、古今ノ習ナリ。今日、雛ニ依(より)テ感吟ス」
 「思うところ」の具体的な内容は、このようなものであったのである。
 「栄枯盛衰」の観の形象化である。それを「雛ニ依テ感吟」したわけである。土芳流に言えば、
「思ふ心の色」が「雛」、つまり、物を見出したのである。
 ただ、去来は、上五の決定で悩んでいる。去来がねらっていたのは、ただ雛やその時季の季節感を詠むことではなく、そこに世の流れにともなう人の盛衰を、二重写しに描き出すことだった。
 こうした句は、うまくゆけば深い句が生まれるが、やりそこなうと観念的な理屈に落ちてしまうのがオチである。下にある作者の意図が見え見えでもいけないし、見えなければ、読み手に理解されない。置き方次第で、句の味わいや奥行きが左右される。その兼ね合いが難しいのだ。去来が、あれこれと頭を悩ませたのも無理もない。

 芭蕉が、「それでは信徳のような句になってしまうよ」と言っているのは、
        人の代や懐にます若ゑびす     信 徳
という句が、人がみな福の神の徳にあずかりたいと思っているのを、「人の代や」と置いて、とかく人の代とはそんなもの、といった通念で説明したようになってしまっているからだろう。
 当時の芭蕉は、そのような持って廻った理屈をこねて句を作るのを抜け出そうとしていたのだ。去来の上五「振舞や」は、そのすれすれくらいのところにあると思う。
        「新しい雛人形が上座、去年の雛人形が下座に着座しているよ。
         これがまあ、分を心得た雛人形の振る舞というものか」
というのが一句の意であろう。


      ことごとく身体髪膚 冬に入る     季 己
         

『去来抄』12 振舞や

2011年11月30日 20時09分39秒 | Weblog
        振舞や下座になほる去年の雛     去 来

 この句は、私に思うところがあって作ったものである。
 上五を、「古ゑぼし・紙衣(かみぎぬ)や」などとすれば、去年の雛が古くなったことを、さらに念押ししているようで、言い過ぎになる。
 この季節の自然の景物を置いたのでは、景は見えても、下にこめた自分の気持が伝わらない。
 そうかといって、「あさましや・口をしや」のたぐいでは、句意が見え見えで、句が浅くなってしまうので、今の「振舞や」を冠に置いて、先師の評を求めたところ、
 先師は「上の五文字に深く心をこめようとしては、信徳の〈人の代や〉の句みたいになってしまうな。十分とはいえないが、〈振舞や〉で我慢しよう」といわれた。


      痛む吾が腰に小春の日和かな     季 己

生ける験あり

2011年11月29日 23時04分32秒 | Weblog
                海犬養岡麿
        御民われ 生ける験あり 天地の
          栄ゆる時に 遭へらく念へば 
(『万葉集』巻六)

 天平六年、海犬養岡麿(あまのいぬかいのおかまろ)が、詔(みことのり)に応(こた)えまつった歌である。一首の意は、
        「天皇の御民(みたみ)である私らは、この天地(あめつち)と共に、
         栄える盛大の御世に遭遇して、何という生き甲斐のあることで
         あろう」
というのだ。
 「験(しるし)」は、効験、結果、甲斐などの意。
 一首は応召歌であるから、謹んで歌い、荘厳の気を漲らせている。そして、このように思想的大観的に歌うのは、この時代の歌にはよくあることで、その思想を統一して、一首の声調を全うするだけの力量が、まだこの時代の歌人にはあった。
 それが万葉を離れると、もはやその力量と熱意が無くなってしまって、弱々しい歌のみを辛うじて作るにとどまる状態となった。
 この歌は、万葉としては後期に属するのだが、聖武の盛世にあって、歌人たちも競い勉めたために、人麿調の復活ともなり、このような歌が作られるに至ったのであろう。


      ポケットより宝くじ出す冬帽子     季 己

過ぎて来にける

2011年11月28日 22時59分51秒 | Weblog
                 柿本人麿
        青駒の 足掻を速み 雲居にぞ
          妹があたりを 過ぎて来にける 
(『万葉集』巻二)

 人麿が、石見から大和へのぼって来る時の歌(長歌の反歌)である。
 「青駒(あおこま)」は、いわゆる青毛の馬で、黒に青みを帯びたもの、大体、黒馬と思ってよい。
 「足掻(あがき)を速み」は、駈けるのが速いので、の意。
 一首の意は、
        「妻のいるあたりをもっと見たいのだが、自分の乗っている
         青馬の駈けるのが速いので、妻のいるはずの里も、いつか
         空遠く隔たってしまった」
というのである。

 内容がこれだけだが、歌柄が大きく、人麿的声調を遺憾なく発揮したものである。荘重の気に打たれるといった声調である。そこにおのずから人麿的な一つの類型も連想されるのだが、人麿は細々したことを描写せずに、真率に真心こめて歌うのがその特徴だから、内容の単純化も行なわれるのである。「雲居(くもい)にぞ」といって、「過ぎて来にけり」と止めたのは実にうまい。


      日めくりをめくればふつと隙間風     季 己

見し人ぞ亡き

2011年11月27日 20時26分09秒 | Weblog
                大伴旅人
        吾妹子が 見し鞆の浦の 室の木は
          常世にあれど 見し人ぞ亡き  (『万葉集』巻三)

 太宰帥(だざいのそち)大伴旅人が、天平二年十二月、大納言になったので帰京途上、備後(びんご)鞆の浦を過ぎて詠んだ三首中の一首である。
 「室の木」は松杉科の常緑高木、杜松であろう。当時、鞆の浦には室の木の大樹があって、人目を引いたものとみえる。一首の意は、
        「太宰府に赴任する時には、妻も一緒に見た、鞆の浦の室の木は、
         今も少しも変わりはないが、このたび帰京しようとしてここを通る
         時には、妻はもうこの世にいない」
というので、「吾妹子(わぎもこ)」と「見し人」とは同一人である。妻・吾妹子の意味に「人」を用いている。
 旅人の歌は明快で、「見し人ぞ亡き」に詠嘆がこもっていて、感慨深い歌である。


      照紅葉 思ひつめたる歩を重ね    季 己 


 ――紫陽花寺として有名な本土寺の紅葉を、Mさんご夫妻のご厚意で、久しぶりに見ることが出来た。在職中は毎年のように、本土寺の紅葉を見たものだった。もちろん、有料の庭園には入らず、無料の境内からではあるが。退職してからは一度も行っていない。
 本土寺の紅葉は、例年「勤労感謝の日」ごろが見頃であるのだが、今年は今日が最盛期のように思えた。Mさんご夫妻のお心遣いが何より嬉しい。
 庭園には、松や杉、孟宗竹の竹林もある。それなのに、人はなぜ紅葉や黄葉しか写真に撮らないのだろう。それも、同じ樹を同じ方向から大勢で。撮れた写真は、俳句でいえば、類句・類想でボツ。
 いま、腸の具合が悪く、常に便意を催すため、かなりの仏頂面をしていたので、Mさんご夫妻と同行のEさんには不快な思いをさせてしまったのでは、と案じている。
 本土寺の紅葉もよかったが、Mさん宅に所狭しと飾られた絵画の中の一枚、小嶋悠司の作品が忘れられない。
      饒舌の紅葉 寡黙の杉と松     季 己

見ゆとふものを

2011年11月26日 22時20分44秒 | Weblog
                 笠 女 郎
        陸奥の 真野の草原 遠けども
          面影にして 見ゆとふものを (『万葉集』巻三)

 笠女郎(かさのいらつめ)が、大伴家持(おおとものやかもち)に贈った三首の一つである。
 「真野」は、磐城相馬郡真野村あたりの原野であろう、といわれている。
 一首の意は、
        「陸奥の真野の草原(かやはら)はあんなに遠くとも、面影に
         見えてくるというではありませぬか、それにあなたはちっと
         もお見えになりませぬ」
というのだが、一説には、「陸奥の真野の草原」までは「遠く」に続く序詞で、
        「こうしてあなたに遠く離れておりましても、あなたが眼前に
         浮かんでまいります。私の心持ちがお分かりになるでしょう」
と強めたのだという。
 「見ゆとふものを」は、「見えるというものを」で、人が一般に言うような言い方をして確かめている。
 女郎(いらつめ)がまだ若い家持にうったえる気持で甘えているところがある。万葉末期の細みを帯びた調子だが、そういう中にあっての佳作であろうか。


      甲斐駒を望み大根の天日干し     季 己
       

『去来抄』11 続・君が春

2011年11月25日 15時07分25秒 | Weblog
        君が春蚊屋はもよぎに極りぬ     越 人

 ――電子蚊取りが普及してから、めっきり蚊帳を見なくなった。「かや」は、今は「蚊帳」と書くことが多いが、この字は本来「かちょう」と読んだ。だから「かや」のことを「かちょう」ともいう。「蚊屋」は「かや」と読み、「蚊帳」と同じ。
 蚊屋は、『日本書紀』や『風土記』の時代から使われ、一般に普及したのが江戸時代。生地も絹から麻になり、色も水色であったのが、萌黄色に替わったという。

 「もよぎ」は「萌葱」、つまり葱(ねぎ)の萌え出たときの色で、蚊屋がこの色に決まっていて変わらないことを「もよぎに極りぬ」といったのだ。
 この句について、芭蕉は去来に言い聞かせているのだが、その内容は「発句とは何か」で、今のわれわれにも多いに勉強になる。

 『去来抄』中の芭蕉句「辛崎の松は花より朧にて」の条で、発句の条件の一つとして「即興感偶」性が確認できた。「即興感偶」とは簡単に言えば、その場で心に感じたことをそのまま詠むこと、ということだ。間違っても、見たままを詠んではならない。見たまま詠んだものは、説明・報告ということである。
 発句のもう一つの条件が、この条から知ることができる。「句は落付かざれば真の発句(ほく)にあらず」という芭蕉自身の言葉がそれである。
 芭蕉は、発句のもう一つの条件として「落ちつき」を指摘している。ところが、どの俳論書にも「落ちつき」なる俳論用語は、見当たらない。ということは、この条から推察するほかない。変人は、「情感のこもった安定した句」と、一応、解している。

 また、芭蕉はこの条で、「重み出来(いでき)たり」・「心おもく、句きれいならず」とも述べている。「重み」・「重くれ」は、この時期の芭蕉の、句の評価基準でもあった。句が堅苦しくなったり、妙にごたごたしたもの、それが「重み」。そうなった状態を「重くれる」ともいう。これを嫌ったのが、この当時の芭蕉なのだ。
 一種の思わせぶり、見え見えの計らい、技巧をもてあそんだもの、情感のこもらぬ理屈の句、これらはみな「重くれ」た句なのである。
 芭蕉の目指していた境地、それは、淡泊な中に無限の滋味をたたえた「かるみ」の境地であった。


      ウインドーの紅葉散ること許されず     季 己

『去来抄』11 君が春

2011年11月24日 23時38分26秒 | Weblog
        君が春蚊屋はもよぎに極りぬ     越 人

 先師が私に語られるには、
 「句というものは、落ちつきがなければ真の発句とは言えない。越人の句は、もはや落ちついたと思っていたが、この句を見ると、また重みが出てきた。
 この句は、蚊屋はもよぎに極りぬ、というだけで十分なのだ。上五に、月影や・朝朗(あさぼらけ)などと置いて、蚊屋を詠んだ発句とするがよい。それをさらに、萌黄色の変わらないことを、君が代の変わらないことに結びつけて歳旦の句としたので、心が重く、句もさらりときれいにならなかったのだ。
 去来よ、お前の句もすでに落ちつきを得ている点ではわしは安心しているが、その句境にいつまでも安住してしまってはいけないよ」
と、いうことであった。


      回文の談志が死んだ日向ぼこ     季 己

新藁

2011年11月23日 23時00分18秒 | Weblog
        新藁の出初めて早き時雨かな     芭 蕉

 伊賀は山中の土地であるから、時雨も早い。稲刈が終わると、今年の新藁が出初める。それと同時に時雨がやってくる。その感じが確かに把握されている。新藁の真新しい匂いと、時雨の冷え冷えとした感じとが、伊賀の山国の感をしみじみと湛えている。
 伊賀の季節のあわただしさ侘びしさをかみしめ、故郷のそれとして懐かしむ心のさまである。

 「新藁」は、その年の稲から得られた藁をいい、秋の季語。「今年藁」ともいう。これが季語として働く。「新藁」は、芭蕉の使いはじめた言葉のようである。
 「早き時雨」は、いちはやく暮秋のうちにおとずれた時雨(秋時雨)をいったもの。「時雨」そのものは、もともと冬の季語である。

    「この伊賀の山中では、稲刈が終わり、新藁が出はじめると、早くも時雨が
     やってくる。まことにあわただしい季節の移りかわりである」


      陀羅尼助こぼれ下町しぐるるよ     季 己

『去来抄』10 続・面梶よ

2011年11月22日 22時32分09秒 | Weblog
        面梶よ明石のとまり時鳥     野 水

 ――解説に入る前に、お断りというか、注意しておきたいことがある。「凩の荷けい」として一躍有名になった〈荷けい〉が自ら編んだ『曠野後集(あらのこうしゅう)』に、一句を
        面櫂(おもかじ)やあかしの泊り郭公(ほととぎす)
の句形で収録している。『去来抄』で作者を〈野水〉としているのは、去来の記憶違いであろう。
 ただ、このエピソードの眼目は、着眼点の模倣、故意でない場合は類似、つまり等類ということに関してである。今日で言う類句・類想である。したがって、そのことを中心に解説をする。

 ――「面梶」は船のへさきを右へ向ける梶の取り方なので、一句の意は、
    「船が明石の港へ入ろうとするとき、時鳥が鳴いた。船頭よ、時鳥の
     鳴いたほうへ面梶をとってくれ」
ということであろう。
 この句を『猿蓑』に入れるか、入れないかが問題になり、去来は強硬に反対した。その理由は、先師・芭蕉が『おくのほそ道』の旅で詠んだ、
        野を横に馬引きむけよほととぎす
という句とそっくりであるから、というのだ。
 類句・類想ということは、今でもよく問題になる。

        野を横に馬引きむけよほととぎす
        面梶よ明石のとまり時鳥
 さて、この二句を比べて、あなたは類句と断定しますか?
 どちらも、ほととぎすが鋭く鳴いてさっと渡る一瞬をとらえている。芭蕉の句は、馬に乗っていて馬子に呼びかけたもの。「面梶よ」は、船頭に、ほととぎすの行った方に舵を取ってくれよ、と呼びかけたもの。
 どちらも少々、格好をつけたところが感じられるが、このような表現は、和歌以来、ほととぎすを賞美するときの、伝統的な手法なのである。
 たしかに、馬と船との違いはあっても、ほととぎすの飛んでいった方へ向けよ、と間髪を入れず命じる、という骨組みは同じである。いわゆる同工異曲。去来はそこを問題にしたのだ。
 芭蕉は、パターンは似ているが、ほととぎすを聞く場面が違うし、明石や船が出てきて別の風情がうまれている点がよい、という考えだったようだ。

 もし去来のような観点から類句を云々したら、おそらく、一瞬に鳴いて渡るというほととぎすの本意をとらえて詠んだ句のほとんどは、類句ということになりかねない。先行の句が多くなればなるほど、こうした問題は避けられない。
 『猿蓑』の撰では、類句を除くということを必要以上に厳密に行なっていたように感じられる。『猿蓑』に可能なかぎり良句を収録したいというだけでなく、重複や単調をさけ、一集としての体裁を整える、という全体性への配慮もあったと思う。


     竹に干す紺の手ぬぐひ一葉忌     季 己

       

『去来抄』10 面梶よ

2011年11月21日 22時36分56秒 | Weblog
        面梶よ明石のとまり時鳥     野 水

 『猿蓑』の撰のとき、
 私は「この句は先師(芭蕉)の、野を横に馬引きむけよほととぎす、と同じような句です。だから、この集に入れるべきではないでしょう」といった。
 先師は「明石という土地で、時鳥を詠んだのはよいではないか」といわれた。
 私は「明石で時鳥を詠むよさは存じません。ただ、この句は先師の句の馬を、舟に取り替えただけです。作者の創意による手柄はありません」と主張した。
 先師は「なるほど、句の創意工夫という点では、わしの句から一歩も出ていない。ただ、明石という土地を見出したのを取り柄に、まあ入れてもいいのではないかい。しかし、それは撰者であるお前たちふたりの考えに任せよう」といわれた。
 それで、ついにこの句を除くことにした。


      喜寿米寿まで生きたくて冬日向     季 己    

凝視

2011年11月20日 20時56分00秒 | Weblog
          旧里の道すがら
        しぐるるや田のあら株の黒むほど     芭 蕉

 「黒む」という対象の凝視と、それによる把握の仕方に、新鮮なものを感じる。自然のわびしさの中に、芭蕉のわびしさが滲透してなった句といえよう。俳句では、「凝視」と「対象と一体となる」ことが大切だと思う。

 「田のあら株」は、「荒株」ともとれるが、刈ったばかりの「新株」のほうがおだやかであろう。
 「黒む」は、雨のために腐って黒ずむことをいう。

 季語は「しぐる」で冬。時雨(しぐれ)そのものの中に入り込んでゆく態度が鮮やかである。

    「時雨がしきりに刈田の上に降りかかってくる。刈ったばかりの新しい株も
     たちまち腐って、黒ずんでくるほどだ」


      うめもどき親鸞像の翳りゐる     季 己