月雪や鉢たたき名は甚之丞 越 人
――今日では耳なれない季語「鉢たたき」の形象化をめぐってのエピソードである。
まず、「鉢たたき」から見ていこう。寒念仏で、空也上人の忌日の十一月十三日から大晦日までの四十八日間、半僧半俗の僧が、鉢や瓢簞を叩きながら念仏和讃を唱えて、京都市中を廻った、その修行。または、空也僧を直接指す場合もある。この一条に見える「鉢たたき」はいずれにも解せる。
つぎに、越人の句の解釈であるが、これがまだ一定していないが、栗山理一説に賛同者が多いのではなかろうか。
(栗山理一説)「月夜にも雪の夜にも修行に出るあの鉢叩きの俗名は
甚之丞という者だ」
(南 信一説)「毎晩めぐってくる鉢たたきは『月や雪や』と自然の
美にあこがれ歩いているようだ。俗名甚之丞という
何の風雅心もないものと思うのに」
(岩田九郎説)「雪が降りつもっている。月の夜に、瓢を鳴らしながら
鉢たたきがやって来た。実はその名は甚之丞という
男である」
「月雪や」の解釈であるが、栗山・南の両説とも賛成できない。越人の句は、月光の照り輝く雪路でのスナップ・ショットなのである。すると、次のような意味になろう。
「月光の照り輝く雪つもる京の道を、瓢簞を叩き、念仏
和讃を唱えながら鉢たたきが歩いて行く。その一人、
一番目立つのが甚之丞という歌舞伎役者のような名前
の男である」
それだから、芭蕉も、「月雪といへるあたり、一句働(はたらき)見えて、しかも風姿あり」と評価したものと思われる。
雪の上に立つイケメンの若者を照らし出す月光――こんな情景は、「風姿あり」との評言にふさわしく、そんな情景を創り出すことに成功したのが「月雪」の措辞なのである。
思いつきや仕立て方が似ているから、ここでは入集を見合わせるが、越人の句は蟻道の句よりはるかによい、というのが芭蕉の評価であった。では、両句はどう違うのであろうか。
弥兵衛とはしれど憐や鉢叩 蟻 道
月雪や鉢たたき名は甚之丞 越 人
蟻道の句は、廻ってきた鉢叩を見て、あれは弥兵衛だと分かっていても、しみじみとした気分になることだ、という意。ただ、この句では「憐(あわれ)や」と、単純に感情を露出させてしまったため、内にこもる情感が浅くなってしまった。
「弥兵衛」と「甚之丞」、この名を聞いてどんな印象を持たれるであろうか。「弥兵衛」は、市井の老爺を、「甚之丞」は、美男の役者か若衆を連想するが、どうであろう。
決定的に違うのは、芭蕉の言う「月雪や」という上五である。これが句の味わいに大きく関係している。これは技巧だけの問題ではない。ものをとらえるときの認識の深さ、感じ方の豊かさの差でもある。それが「月雪や」という詞になって出てきたといってもよいだろう。
骨盤をはしる痛みや空つ風 季 己