江戸の退屈御家人

世の中のいろいろ面白いことを野次馬根性で・・・・

日比谷公園の首かけ銀杏

2015年08月14日 21時39分14秒 | タウンウォッチング
今日8月14日は、日比谷公園でテニス。

先週のような無茶苦茶な暑さより少しは下がったが、それでも耐えられない暑さだ。
でも今年の8月はどこへも出かけないで、まるでテニスの我慢大会をやる気分。

今日は日比谷公園のテニスの前に、先日徳川田安家16代の書いた本を読んで、「首かけ銀杏」を発見。そして、今日のテニスのまえに見てきました。


この銀杏は、日比谷公園の松本楼の前に立っている。明治の初めごろ、江戸城の日比谷見付にあった。
明治の初めころに、日比谷交差点や日比谷公園を整備するために、切ってしまおうという意見が出たとき、農林専門の本多静六博士が、長年生きている銀杏を切ってしまうのは切ない、私の首をかけても近くに移植すると主張。この結果、あの星亨がそれに乗って、現在の松本楼の前まで、約500m移植したのが、現在も育っている。樹齢約400年とか。
 1590年、秀吉の小田原征伐のあと徳川家康を関八州に移封。家康は江戸を本拠地とした。それから425年ががたつ。
 樹齢400年というから、江戸城の草創期のころ、日比谷見付は日比谷・数寄屋橋の埋め立てで大名小路の南側の外堀門で、このころ何らかの理由で植えられたものだろう。それが、1867年の大政奉還で江戸時代が終わったときは、きっと樹齢250年ぐらい、その後明治の初め星亨東京市議会議長が暗殺されたのが、1901年だから、約30年をくわえると当時、樹齢280年ぐらいで、江戸時代の世の趨勢すべてを眺めていたのかもしれない。

 それを本多博士が、自分の首をかけてでも、伐採をせず、移植すると主張した、その意気やよし。
こうして、その後、115年がたった。明治時代以降はまだ150年だ。江戸時代の半分強に過ぎない。

 江戸の町はいろいろ変化が激しいね。でも継続しているのがうれしいね。

ちなみにテニスコートの前に、樹齢100年の鈴懸に木がありました。これも経緯があるようだ。