青梅街道 を都バスが結んでいる。
花小金井駅から青梅駅まで 都バスの最長区間である。
青梅街道はご承知の通り 徳川家康の江戸入府以来 江戸城を始め公共の建物の漆喰等を得るため青梅の成木地域の石灰を採取しこれを江戸に送るため作った街道である。
青梅から四谷大木戸まで約43キロ。途中 箱根ケ崎 田無 の2つの宿場を経て馬の背中に荷をのせて四谷まで運んだ。その後今の小平市の西武線青梅街道駅あたりに新しい宿場を作ったようだ。
当時は人も住まない武蔵野の荒地を江戸まで一直線に街道を作ったのであろう。
たまたま小平市の青梅街道駅で 近くにある小平市役所へいって 青梅街道の歴史を読むつもりでいたが 小平の歴史を書いた資料本を読んだ。
おかげで多摩地方の歴史の一端を垣間見る機会に恵まれた。
小平市は玉川上水の完成とそのご褒美による松平氏への野火止用水の分岐の中で 小川1族が開拓した歴史であるようです。その小川の1文字と四方 平 の地域を願って 小平と言う地名を作ったようだ。田無と保谷を合併して西東京市とか
何かと比べればなんと格調の高いことであろう。
いずれにせよ小川1族の開拓は 徳川吉宗将軍の享保の改革の時代の 新田開発の波に乗り成果を上げたようである。これを嚆矢として 野火止の用水を利用した武蔵野の開拓が進んできたようである。
江戸260年間いろいろ開拓が進んだが明治以降はもっと東京の人口集中による開発があったようだ。江戸の 小金井の桜など。
現在の西武鉄道は東京郊外の人口集中に対処するため 過去いろんな鉄道会社の多摩開発の思惑などを集大成した現在の路線となっている。
そういう中で花小金井駅を作ったわけ。
その前を 自転車道路&歩行者道路が走っているのを発見。これは昔 大正12年から14年にかけて作られた 武蔵野市 の境浄水場までの水道施設の跡地を 自転車歩行者専用道路として作ったものである。
それで退屈御家人は歩きました。
花小金井駅をスタートし 八坂駅まで直進。ここで 九道の辻(鎌倉から 前橋までそれぞれ18里 中間地)を左折し 野火止用水に沿って東大和駅まで行きました。ここは元は青梅橋と言う駅を改名したようである。
この辺は吾輩のような老人がたくさん歩いている。日本は老人多量生産国であるようだ。
野火止用水
朝顔がまだ咲いている
今日はこうして14,000歩ほど歩いたわけだが大変疲れた。体力が劣化している。だがしかし 多摩地域は懐が深い。もっともっとみる価値がある。