猫 周公のコラム

スケッチとエッセイ

心で見なくっちゃ物事はわからない・・・

2007年04月30日 | Weblog
サン・テグジュベリの「星の王子さま」を読んだことはないが、この言葉だけは知っている。

星から来た王子が、キツネから教わった「心で見なくちゃ物事は分からないんだ大切なことは目に見えないんだよ」という言葉だ。

今日ラジオを聴いていたら、ノンフィクション作家の柳田邦男さんが「人間にとって一番大切なことは絵本から教わる」と言っていた。
「星の王子さま」の話はその中で紹介していたものである。

実に重い言葉だと思う。
「心で見なくっちゃ物事は分からないんだ大切なことは目に見えないんだよ」だからこそ、誰も教えてはくれないのである、いや、教えることが出来ないのである。
毎日起こっている「大切なこと」は一人ひとりが、自分の心で見るしかないのだと思う。
柳田さんが言うように、絵本のなかには「大切なこと」を気付かせるような話が、一杯詰まっているので、大人こそ読んでおく必要があるのではないか?

NHK「三つの歌」の再放送に拍手

2007年04月29日 | Weblog
いつもNHKの「ラジオ深夜便」を聴きながら眠ってしまうのだが、夕べはそうではなかった。
昭和28年に実況放送した「三つの歌」をカットせずそのまま放送していた。

このアイデアは実に素晴らしいと思った。
一言で言えば、どんな歴史本よりもリアルに時代を感じさせるものだった。

今の時代の中に生きている我々は、今の時代はどんな時代であるかがわかり難いのである。
当時の生の現実を放送で聴いてみると、「自分はこんな時代の中にいるんだ」と言うことがよくわかる。
そして、今の時代の社会風潮がいかに荒れてきているかがよくわかったのである。

この放送は54年前に宮田輝さんの司会で放送された、人気番組だ。
天地真佐雄さんのピアノに合わせて、歌詞を思い出しながら参加者に三曲歌ってもらうのである。

先ず気がつくことは、この時代の言葉は実に丁寧であったことだ。
宮田輝さんもそうだが、一般の参加者の言葉も「ございます」言葉である。
戦災後の復興期であったが時の流れが実にゆっくりしていたのであろうか?

そして、今の時代はいかに長寿社会になってきているのかが実感できた。
この時代の平均寿命は男が63歳で女は67歳であった。
放送の中で、参加者の年齢を尋ねるのだが、「59歳です」と答えると、司会者は「お元気そうで何よりです」と言っていた。
この時代は59歳となれば、もう老人に見られていたのではないかと想像する。
事実、自分の子供の時代は、確か定年は55歳くらいであり、60歳と言うとかなりの年寄りに見えた。
年寄りの概念が、明らかに10歳は若返っていると思った。

そして、この時代は娯楽が少なかったせいなのか、会場が盛り上がり(歌詞を忘れた出演者を)皆で助けてやろうという、会場に一体感が流れていた様子がよくわかった。
悪い意味での「現代の個人主義の行き過ぎ」を大いに反省させられた。

「ラジオ深夜便」でのアイデアは、かなりインパクトが強くいい番組であった。

感性は鍛えられるもので、教えて覚えるものではない

2007年04月28日 | Weblog
自分は絵を描くのが好きで、稚拙意ながらよく描くいているが、描いていていつも思うことだが「自分が描いた絵の出来栄えは、はたしてこれでいいものだろうか、と言うことが自分ではわからないのだ、展覧会に出して他人の絵と比較して、初めて自分の絵の出来栄えが客観的に判断できるようだ」ということである。

人間は「自分がやっている事を、自分では客観的に見ることができない」ということだと思う。
だから、時には自分を客観的に見るように努めることも必要ではないかと思う。
「自分の在り様」を自分が振り返ってみることが出来るかどうかは、その人の感性の問題だ。

とかく世の中で苦労してきた人は、そういう感性が磨かれてきていて、「人間が出来上がって」くるようである。
こればかりは教えたら解る、ということではない。
自分が経験して身体で理解しないと解らないのである。

人間社会は実に厳しいと思うことは、「自分の在り様」を理解しようとする感性を磨かないままでも生きてゆくことも出来ると言うことである。
つまり、自分の幅とか奥行きを成長させることなく終わってしまうこともあるということだ。
言い換えれば、自分は気がつかないが、周りの人たちに嫌がられて生きて行くことも出来るということである。

いま、「道徳教育」を学校で教えるかどうか、という議論がなされているが、この教育の目的は「社会の中での「自分の在り様」を自分自信で気がつくようにさせることではないだろうか。
これは明らかに「感性」の問題だと思う。
そういう見方をすると、はたして「感性」は教えられるるような事なのか疑問に思う。
経験によって鍛えられるものであると思う。

伊藤ちか子のアコーディオンCD発売

2007年04月25日 | Weblog
芸術の中でも、音楽は直接的に心に響くので、よく聴いている。
中でも、アコーディオンは空気を送って音を出す楽器なので、自然音に近くとても癒される。
特に街の中で何気なく流れてくるような、気取らないで素朴な弾きかたが好きである。

今度、東京で活動している、アコーディオン奏者の伊藤ちか子がソロ演奏のCDを出した。
曲目は「聞かせてよ愛の言葉を」「波濤を越えて」「ムーラン・ジュール」「詩人の魂」そして本人の作曲など11曲が入っている。
たちまちアコーディオンという楽器の魅力に取り付かれるであろう。

お聴きになりたい方は次へ連絡してください。
相生座 〒337-0052 さいたま市見沼区堀崎町575番地
TEL/FAX:048-686-6223
税込価格:2100円

夜回りの復活:自警組織が必要となってきた時代

2007年04月21日 | Weblog
我が町内会では昨年から”火の用心”を兼ねた「夜回り」を始めた。

発端は普段は何事もなく、静かだった住宅地に空き巣泥棒が入り始めたのである。
そして表通りに面している店には何回も強盗が入ったり、駐車中の自家用車が夜中にクルマごともっていかれたりしている。

夜回りというのは、昔から自警組織として各町に根付いていたものだ。
最近の犯罪の多さにはうんざりするものがあるが、そういう中で自警の意味で「夜回り」が復活してきたのも当然のことではないかと思っている。

世の中は凶悪犯罪が眼に見えて多くなってきていて、誰が見てもおかしくなってきている。
プライバシーの侵害とか個人情報のなにやらとか言って、当たり前のことが当たり前でなくなってきていて、警察でさえも対応に躊躇している時代である。
こんな時代であるから、「自分達の身辺は自分達で守らざるを得ない」という考え方になってきているのも自然の流れである。

逆説的ではあるが、そういう世の中になって初めて、町内のコミにティーの大切さを感じ再び世の中が正常化してくるのだと思う。

余談であるが、自分も町内の役が回ってきたので、夜回りに参加している。
夜回りは大きな声を出しながら40分~50分歩くので、実にいい運動になるというメリットがある。
こういうボランティアは大いに歓迎である。


中部一水会展を観て

2007年04月18日 | Weblog
中部一水会展が始まった。
4月18日(水)~22日(日)に名古屋市博物館(地下鉄桜通線・桜山下車)で開催している。
一水会は具象画の団体であり、春の中部一水会展と秋の一水会展(全国展)での観客動員数は油絵・水彩画の団体ではトップクラスである。

絵の内容は、どちらかと言うと印象派を踏襲しているように思えるが、伝統的な古典派の絵も多い。
多くの団体は時代と共に抽象画の方向に流れている中で、頑として具象画に拘っている姿勢は見事である。
フェルメールやミレーそしてルノワールの絵画手法が生きているようだ。

現代の絵は「どこに行くのか」という問いに対しては、かなり混沌としていて暗中模索の段階である。
今は抽象画っぽい絵でなければ絵にあらず、といった流れが主流となっているが、言えることは絵の骨格はどの時代であっても、具象性であることは間違いない。

しかし、絵は「人間の心の叫び」であるということを考えると、具象表現に拘らないで、抽象化してきて当たり前のように思える。

一水会がこの辺を、どう包み込んで歩んで行くのであろうか。

人間の熟成について:旅番組「遠くへ行きたい」をみて

2007年04月15日 | Weblog
旅番組に「遠くへ行きたい」という30分番組があって、掘り下げ方が深いので出来るだけ観るようにしている。

今日は奈良の町の散策だった。
この中で、代々墨作りをやっている方の話が面白かった。

「墨は乾かすのが一番大変です。墨は何年も置いておくと熟成し、濃淡の鮮やかさやにじみの出来が素晴らしい墨となる」と言う話であった。

人間も歳を重ねるに従い熟成されて、濃淡やにじみが醸し出されてなんともいえない品格が出てくるのだと思う。
ものばかりではなく、人間の古いということの良さをもっと見直すべきだと思う。


豊田市美術館と岡崎市美術博物館はお薦め!

2007年04月14日 | Weblog
絵が好きなので、美術館には足繁く通っている。
自分が良く行く美術館のなかで、展覧会の内容や雰囲気、そしてロケーションにおいては豊田市美術館がトップクラスだと思う。
次に、岡崎美術博物館そして三重県立美術館などが大いに気に入っている。

こういう公の立派な施設は大いに利用すべきである。
例えば絵に関心がなくても、建物の内部の雰囲気や美術館ロケーションを楽しんだり館内レストランで食事をしたりする楽しみ方もあるとおもう。

豊田市美術館の設計者はニューヨークの近代美術館を設計した谷口吉生であり、何処を歩いていても不思議な空間に入り込むことが出来る。
また、館内レストランからの眺めは抜群であり、食事も気に入っている。
ここは現代美術が好きなものにとっては、ありがたい存在である。

岡崎美術博物館は美術館と周りの自然が一体化した、芸術そのものであると思う。
ここは開催する展覧会が、実にユニークで面白い。
「絵とは何か、画家の表現の仕組み」と言うようなことをお求め続けているようだ。また、周辺の散歩道は森の中に入り込んで自然を満喫できる。
ここのレストランからの景色も素晴らしい。
岡崎市全体を眺望市ながらちょっとしたいい気分で食事が出来る。

三重県立美術館も展覧会の企画が素晴らしい。
絵が好きなものにとっては、ここの所蔵品がいいのでちょっとした穴場である。
そしてここもレストランからの眺めがいいし、食事も美味しい。

趣味の効用

2007年04月13日 | Weblog
春の展覧会に出す絵に集中していたので、ブログのほうは少々ご無沙汰してしまった。
そうしたら、見る見るうちにアクセスが少なくなってしまった。
やはり内容のいいブログを継続的に発信していないと、なかなか見てはくれないんだな、と思った。

ところで、絵のほうは絵の団体に入って年二回の展覧会に応募しているが、これがなかなか難しくて、そう簡単には認めてもらえないのである。
つまり、上手い人が一杯ひしめいていて、少々の力では芽が出ないのである。

ブログも絵もおなじで、いいものでないと振り向いてくれないのは世の常である。
だからこそ切磋琢磨し、知らず知らずのうちに自分も成長しているのかもしれない。

趣味と言うものはそういう効用があると思う。


植木等さんのお父さんのこと

2007年04月08日 | Weblog
NHKで「夢を食べ続けた男・植木等」という番組をやっていた。

植木さんはスーダラ節をレコーディングするときに、僧侶であるお父さんに相談に行ったそうである。
てっきり「詰まらん歌を歌うな」と叱られると思っていたが、お父さんから「これこそ親鸞聖人の教えだ、ぜひとも歌いなさいさい」と言われたそうである。
確かに「わかっちゃいるけどやめられない」という歌詞は、人間の「業」というか本質をついたものだと思う。

そういう人間の「業」のようなものがあるということを、知った上で生きてゆくかどうかで、人間への理解度が大きく違ってきて「人を許すことが出来る」ような人間となってくるのではないだろうか?
植木さんのお父さんは、人間が救われる道を自覚しているような人間がこの世の中にもっと多くなってもらいたい、という願いがあったのだと思う。

こういう発想は凄いな、と思って聴いていた。
この親にしてこの子ありという感じがした。
この歌にこんな深い意味があったとは、そしてそれを歌った植木さんは無責任どころか立派なものである。

親鸞聖人の「歎異抄」に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人が極楽往生できるのなら、悪人ができないはずが無い)」と有るのは、上記「他力本願」とも関係する思想であるが、その意味は、<人間は自力で善(往生の手段となる行為)を成すことは不可能である。人間はすべて悪(往生の手段とならない行為)しかなせない。だから、悪人と自覚している人間の方が、自分は善人だと思っている人間より、本願により救われる道を自覚していることになる>という逆説的な表現である。大乗無我思想のひとつの到達点といえる。(ウィキペディア)