猫 周公のコラム

スケッチとエッセイ

きものを見捨てた日本人・民族衣装を考える

2007年03月31日 | Weblog
名古屋駅前に出来た「ミッドランドスクエアー」に行ってみた。
ブランド物高級店が並び、レストラン街も名古屋では始めての店ばかりで高級感漂う雰囲気であった。
それにしては、見物客が多いためか人々と店がアンマッチすぎると思った。

外国旅行をするといつも感じるのだが、日本人は西欧の真似をした服装をしても似合わないのである。
ベトナムやタイやビルマそしてチベットなどでは民族衣装が幅を利かせているが、なぜ日本は「きもの」を見捨ててしまったのだろう。

背が小さくて、歩く姿もちょこちょこ歩きだから体型がはっきり現れる「洋服」では西欧人に見劣りがしてしまう。
かって、武士は外国に行っても裃はかま姿で堂々と闊歩していたのである。
現代人に着物に着替えろとは言わないが、日本人の体型に合った洋服を作り出すべきである。

特に若い女性は、むやみやたらに肌を出したがるが、日本人の体型を考えるとこれほどみっともないものはない。
体型や肌の色から、日本人に似合う服装や色が沢山あるのがわかっていないようである。

そういう意味から元禄・江戸時代の粋な世界をもっと知ってほしい。

TOTO、INAXのウォッシュレットと日本文化

2007年03月29日 | Weblog
ウォッシュレットはすでに家庭にも普及し始めており、ホテルやレストラン、喫茶店でも一般的になってきている。
お尻を洗うだけでなく、乾かす、においを消すなど機能がついているものもあり、どんどん高度化してきている。
こういうきめ細かい技術は日本人ならでの発想である。
現に宇宙開発などの技術で、小型モーターや金属の磨き技術は、日本の中小企業の独壇場であると聞いている。
そういう文化の延長がウォッシュレットであると思う。

ところで、ウォッシュレットの使用が日常化すると、使わないでいると必要以上に不潔感が増してきて、どうにもならなくなってくるものである。
特に海外に行くと日本と違いウォッシュレットがないので、日本人としては実に不便を感じるとともに気持ちが落ち着かないのである。

文化の違いの産物であるウォッシュレットが、今後海外で簡単に普及するとは思えない。
一方では日本のウォッシュレットの機能はますます高度化してきているので、文化摩擦は大きくなってゆくのではないだろうか?
しかし、こういう文化摩擦は、実にくだらない「くさい」話であり、「こくさい(国際)問題」に発展しなければ幸いである。

プロ意識の高い女性の再雇用形態を見直そう

2007年03月16日 | Weblog
名古屋・栄周辺でみた若い人たちのプロ(職業)意識はかなり高くなってきているように感じた。

特にサービス業で働いている若い人たちのレベルは高いと思う。
先日行った携帯電話取り扱い会社での対応は、てきぱきと懇切丁寧に説明をしてくれるし、レストランの女性店員の対応はどこに行っても、とても気持ちがいい。

証券会社や銀行の社員の対応も、当然と言えばそれまでだが、「よくぞここまで勉強している」と思えるほどの知識で笑顔を絶やさず説明してる。

特に、こういうプロ意識の高い女性の場合、結婚して子育てのために一旦退職して再就職をしようとすると、パート社員とか臨時社員としてしか雇用されず、給与もかなり低く抑えられているのは納得できない。

彼女達は知識やサービスのノウハウを持っており、新卒採用者よりも能力は高いはずである。

身分とか賃金レベルを早急に改善すべきである。

出生率のアップや、日本の会社のレベルアップのために絶対にやらねばならないことだ。

ようやく政治の監視役となってきた国民

2007年03月14日 | Weblog
日本の社会の流れが大きく変わってきている。

談合による税金の無駄使い、議員の政務調査費使い放題への怒り、地方議員選挙の厳しい判定などの現象は、国民の見張り役としての目が飛躍的に肥えてきたためだ。

今日もテレビを見ていたら、渡邊行政改革大臣が「天下りストップ案」を出したら、自民党内部そして官僚達から猛反対を受けている、というニュースが報道されていた。
国民の目から見たら、特定の官僚達が天下りで、何回も(国民の税金から出ている)何千万円時には何億の退職金をもらっていることを思うと、どうしても許されるものではない。
例えば、そういうことが直ちに国民の声となって、選挙に反映されるようになって来た。

ここに来て、ようやく国民が政治の監視役となって機能しだしているのではないだろうか?
最初に国民を動かしたのは、小泉前首相だ。
そして、機会を待っていた検察庁や公正取引委員会が動き出したということだと思う。
一方マスコミは、この新しい流れをいち早く察知して、みのもんたさんが「ほっとけない」と徹底的に追求したりして、国民の関心度を引き上げていった。

そういう意味では小泉前首相の功績は歴史的に見ても大きいと思う。


名古屋で凄い画家を発見した

2007年03月11日 | Weblog
今日はノリタケの森ギャラリーの「新美淑子展」を観てきた。

「絵は人なり」とか「絵は心で描くものだ」ということをよく聞くが、まさにその通りの個展だった。

いずれも、観る側の心にじかに響いてくるような作品ばかりであった。
この作家は、具象画を主流とする団体である一水会に属しているが、今度の個展の作品は、公募展の作品とは一味も二味も違って「具象を超越して自分の内面を表現」した作品ばかりであった。
それだけに、作家の内面的な葛藤と苦労は並大抵のものではなかったかと思う。

しかし、作品はそんな片鱗は感じられることなく、実に楽しそうに描いたと思われるものばかりであった。
何人かの人に聞いてみると「観ていると楽しくなり、不思議と気持ちが元気になってくる」と言っていた。

こういう元気な作家は、もっと知られてもいいと思う。
それだけに、鑑賞する側としては、大変なことはわかっていても「もっと頻繁に個展を開いて欲しい」と言いたい。

言葉を発したがらない最近の日本人

2007年03月10日 | Weblog
最近の風潮として、目に付くのは「ものを言わなくなってきている」ということである。

今日も電車の中で、そんな光景に出会った。
二人がけのロマンスシートの電車だった。
窓側の青年が降りようとしていたが、隣に座っていた60歳くらいの男性は、うとうとしていたのか気がつかなかったようだ。
青年はただ黙って立っていた。男性が気がつくのを待っていたのである。
もちろん、座っていた男性はすぐに気がついて立ったので、青年は降りることが出来たのであるが。

こういうときに青年はどうして「すいません降りますが」とか行って声を掛けないのだろうか?

自分にも似たような経験がある。
隣の男性が、降りようとしていたので、すぐに立ったのだが、彼は何も言わずに立ち去ったのである。
普通は、エチケットとして「どうも」とか「すいません」とか言うのが普通ではないだろうか?
そのほうが、お互いに気持ちがいいと思う。

今の時代は、社会生活での潤滑油としてのエチケットが忘れられているようだ。
他人には必要以上にガードを固めてしまって、口も聞かないのである。
ちょっと一言発することで、どれだけ和む事が出来るかだ。

その点は、外国人のほうが、よっぽどエチケットとかマナーが出来ている。
「美しい国」を作る第一歩は、当たり前の事を当たり前にやれる人間を作ることから始めたい。

利口な人かどうかを判断するには!

2007年03月09日 | Weblog
利口な人間かどうかを判断するのは、そう難しいことではない。
次のような人ではないということだ。
つまり、利口でない人間のパターンを知ればよい。

第一は何でも自分でやってしまう人。
こういう人は、自分以外の人間を信用していない。
世の中には、自分よりできる人が一杯いるということがわからない。

第二は思い込みが強い人。
こういう人は客観的な見方が出来ない。
思考方法がワンパターンで、自分以外の考え方が理解できない。

第三はお世辞や名誉に弱い人。
こういう人は、口では格好いい事を言うのだが、実は強欲で自分だけを認めてもらいたいと思っており、性格は凄く冷たい。

まだまだ、一杯あるが以上の片鱗が見えたら、人柄がいいといって重要なポストにつけると大変なことになってしまう。
だいたいにおいて、こういう人は嫌われており、逆に利口な人間は性格円満で親しまれている人が多い。

具体的な事例として、トヨタの社内風土は「こういうことの逆を行く人」を育てているのだ。
だから世界一の会社になったのだ。

川内康範さんの気持ちと森進一さん

2007年03月07日 | Weblog
連日連夜テレビで報道されている、川内康範さんと森進一さんの争いはどうみても森さんのほうに問題があるのではないだろうか?

作詞者の想いのこもった詩に、本人の了解もなく歌手の想いを付け加えて歌っているというのは、プロとしてはいかがなものだろうか?
森さんは川内さんの了解は得てあると言っているが、本人と直接会って話してはいないようだ。
森さんはスタッフに任せたと言っているが、既にこの辺で「礼を逸した」という大きな誤りがある。

また、歌手は作詞家と作曲家の作品を大衆に向けて表現する役割を担う者の一人である、という感覚に乏しかったような気がする。

川内さんが作った詩は、全体を通して一つの作品となっていて、一箇所たりとも他人が触れることは出来ないのである。
芸術とか創作というものはそういうものである。
そういう意味では、川内さんの逆鱗に触れてしまったということは、極めて当たり前であったと思う。


人生には休みはない

2007年03月05日 | Weblog
ここ数年は団塊の世代と呼ばれる人たちが、リタイアして行くようである。
それにしても、60歳で定年とは早すぎはしないだろうか?
今の60歳は身体も精神も、一昔前よりも明らかに10歳は若返っているのは間違いない。

会社をリタイアして第一線から離れても「俺もよく働いてきたよ、これからはゆっくりやすんで好きなことでもやって過ごそう」などと思わないほうがいいと思う。
いつまでも「社会との接点を持って第一線で働いていないと」、たちまち身体も心もたちまち歳を取ってしまう。

「社会との接点を持つて常に第一線で働く」という事は、何も会社勤めをしていなくても出来るはずだ。
ボランティア活動、同窓会や町内会の役を引き受ける、趣味の活動の世話役になる、旅に出て人との触れ合いの大切さを知る、などなどいくらでも働くチャンスは転がっている。

人生には休みなどはないのである。
一生働いていなければならないように出来ているのだ。

働き続けるかどうかは、その人の価値観しだいで決まってしまう。
未知数の自分をもっと発見して、面白おかしく生きて行きたいかどうかである。

蒐集家 山本發次郎さんの魅力

2007年03月05日 | Weblog
日経新聞・日曜日の「美の美」で「蒐集もまた創作なり」という言葉を残した”山本發次郎”が取り上げられている。

「山本發次郎は’物を言う蒐集家だった’。その芸術論の根底にあるものは、世俗的な一切の権威を認めず、技巧を否定し、純粋無垢な自己表現の賜としての”天上超脱”の世界だった」と書いてある。

佐伯祐三の絵を日本では最初に評価し「最も真剣な作品を残した世界的画家である」と言って佐伯をたたえてやまなかった。
また、モディリアーニの裸婦像を「大胆不敵な美しさ」に魅了され、美術評論家でコレクターの福島繁太郎よりかなり強引に手に入れたようだ。

白隠についても「彼の絵は全然技巧を無視し、一切の外物にとらわれない、実にずぶとく傍若無人のもの」「人間の知能や常識を無視した不適美の表れ」と言っており「不適美」と言う言葉は山發さんの造語だ。

彼はまた、書家についてこんな言葉を残している「絵でも、腕で描くのではなくて心で描く白隠や千のものは、皆若きはそれほどでなくて、七十歳八十歳の晩年書きになるほど、気品が高くなっております」「大書家は例外なく、幼児からの不器用者であって、そうしてしかも三十歳や四十歳の若さでは、なかなかの偉い人でも大してよい字は書いておりません」

日経新聞を通じて「山發さん」に出会えたのは実にありがたい。