猫 周公のコラム

スケッチとエッセイ

蓼科の紅葉

2007年10月31日 | Weblog
今の蓼科は、紅葉の最盛期である。
これは秋の乙女湖の風景だ。

3日間自然の中に体ごとどっぷりと浸かってきた。
お陰で生き返った感じだ。

これからは季節ごとに自然の中に自分を投げ出そう!

初めて携帯からブログを送る

2007年10月28日 | Weblog
明日から蓼科でスケッチしてくることになった。この間はメールでブログを書いてみる。初めてやることなので、今日はテスト的に家にいるのだが携帯で書いて送ってみた。 とにかく世の中、便利になったものだ。 何処にいてもリアルタイムで状況を知らせることが出来るのだから! 見てくれる側が意識して見てくれるなら、個人であってもブログを使って公共に発信できるのだ。 そんなことを思うとブログの発信は責任重大だ。 明日からは写真で秋の風景をおくることができる。

我欲との戦いは死ぬまで続く

2007年10月28日 | Weblog
今日、ハッチバックを閉め忘れ開けたまま走っていたら、後ろの方がスーッと横に来て教えてくれた。

運転していてよく思うことは、トラックの運転手さんは、よく道を譲ってくれるという事だ。
わき道から本線に入ろうとするときなどは、「どうぞ」といって先に入れてくれたりすることがよくある。
こういうことに出会うと、「世の中は持ちつ持たれつのお互い様の世界」だとつくづく思うのである。
「自分だけがよければいい」という短絡的な考えは通用しない。

自分も世間にはいろいろ迷惑を掛けてきたと思うが、よくぞ周りがここまで面倒を見てくれたものだとおもう。
これからの人生は「世の中は持ち持たれつのお互い様」と思って周囲のことや相手の気持ちを考えて、「俺が俺がと思わない」で生きてゆきたいと思う。

こういう小さな出来事に出会うと、いつもそんなことを考えるのだが、いつの間にやら「我欲」だけを考えている自分を見ては愕然とするのである。

人生は死ぬまでずっと「我欲」との戦いかもしれない。

しかし、それがなくなったら人間もお終いである。



俳句は不思議な文学

2007年10月27日 | Weblog
今日は、若い頃から大変お世話になっている先輩にお会いしてきた。
先輩は俳句の会に入っておられ、なかなか渋い句を作られている。

話の中で、なるほどと思って感心したのは「俳句は自然界のあらゆるものに語らせるものであって、自分の心情(悲しいとか・・・)を句の中に直接表現するものではない」ということである。
確かに自分の心情を言葉で表現すると解釈が限定されてしまい、本来作者が言いたかったことが満足に表現できないということだと思う。
しかし、ものに語らせる場合は読んだ側の解釈が無限に広がってゆき、読んだ側は作者が考えていた以上に深い表現として受け止めるのだと思う。
つまり読む側でも創作しているのである。

特に日本人の場合は、自分の心情をダイレクトに出すは好まれない。
日本人は素晴らしい感性を持っているので、自然界の植物・動物・木や森・山・雲といったものに託して表現すると、読んだ側が自分の中で自由に解釈してくれるのである。

俳句と言うものは「作者と読者が創作している」という不思議な文学だと思う。

芭蕉の「古池や 蛙飛び込む 水の音」作者の鋭い表現と読者の感性なくては成り立たない句である。


いい組織といい友人のなかに居ると伸びる

2007年10月26日 | Weblog
よく「いい会社に入り揉まれていると人間が伸びる」ということを言うが、なるほどと思う。
トヨタのような世界企業になると、考えていることの奥行きや深さが違うので、その中に居ると自然と価値観も違ってくるのではないだろうか?
組織的に築かれた哲学が社員一人ひとりに浸透している世界である。

中小企業でも特に社長の哲学に感化されて立派な人間が育っている所もある。

また、そういうところにはいい人物が入ってきて、組織的にも累積的によくなってゆくものだとおもう。

こういう組織に共通しているのは、常に外の世界と競争していて揉まれているので組織がよどんでいないということだ。
常に組織をフレッシュにしていなかったら、消滅してしまうからである。

「傷のなめあい」をやっている組織に入っても人間が堕落するだけである。

自分が伸びてゆくと感じるような組織とか友人とかを選ぶかで、人生も大きく違ってくるはずだ。

時の流れの速さとブログ

2007年10月26日 | Weblog
あと6日で11月だと思うと、あまりの時間の早さにぞっとしてしまう。

そんな中で、ブログの存在は自分にとってはかなり大きなものであった。

4月から始めたブログだが、自分にとってはかなり有益だったと思っている。
書くことが習慣になったと言うことは、ブログでなかったらできなかったことだと思う。
若い頃、何回日記に挑戦したことだろうか?

それに読んでいただいている方も徐々に増えてきており、それが励みになっていることもある。

自分も今ここに生きていなかったら、こういう便利なものの恩恵に与れなかったと思っている。
実にありがたいことだ。

反面教師・赤福から学ぶ「努力」

2007年10月24日 | Weblog
世の中というものはそう簡単には楽をさせてくれないものである。

サラリーマンであろうが自営業であろうが、自分のすべてを投げ出して努力しないと世の中は認めてはくれないのだ。
それに自分より努力している者は、この世の中にはいくらでも居るのだ。

楽をして儲かったり、手抜きをして儲かるような甘い世の中ではない。
真面目に努力しているものが報われるようになっているはずだ。
もし、報われなかったと言うのなら、努力が足りないのだと思う。

「赤福」は40年前から世の中のルールを侵してきたので、13パーセントという高いの利益率を出してきたという。
会社の価値観がまったく別な方向に向いていたということだ。
言ってみれば努力せずに儲けようとしてきたのだと思う。
法を犯してでもいいから安直な方法で儲けてきたということだ。
それがまかり通って、今日までやってきたのであるが、その代償は極めて厳しいものになるだろう。
「のれん」は残っるだろうが、老舗といわれる一族は消えてゆかざるを得ないと思う。

そういうことがあまりにも多すぎはしないだろうか?
この世の中で、努力せずに生きられると思っていること事態がおかしい!

誰でもが真剣に努力して生きていると思う。
努力が楽しい人と苦しい人があると思うが、いずれにしても努力なしでは生きられないはずだ。

宝くじが当たったり、親の遺産が転げ込んだりすると必ずと言っていいくらい、人間をだめにしてしまう。
努力を放棄させてしまうからである。

秋最中我流で一句

2007年10月24日 | Weblog
秋深し色鮮やかに散ってゆく   周公

実にお粗末な句であるが、時々自分もそういう散り方をしたいと思うときがある。

あいつ、世の中を結構面白がって生きていたけど、いつの間にか居なくなっている・・・そんな散り方かな。