猫 周公のコラム

スケッチとエッセイ

感性は鍛えられるもので、教えて覚えるものではない

2007年04月28日 | Weblog
自分は絵を描くのが好きで、稚拙意ながらよく描くいているが、描いていていつも思うことだが「自分が描いた絵の出来栄えは、はたしてこれでいいものだろうか、と言うことが自分ではわからないのだ、展覧会に出して他人の絵と比較して、初めて自分の絵の出来栄えが客観的に判断できるようだ」ということである。

人間は「自分がやっている事を、自分では客観的に見ることができない」ということだと思う。
だから、時には自分を客観的に見るように努めることも必要ではないかと思う。
「自分の在り様」を自分が振り返ってみることが出来るかどうかは、その人の感性の問題だ。

とかく世の中で苦労してきた人は、そういう感性が磨かれてきていて、「人間が出来上がって」くるようである。
こればかりは教えたら解る、ということではない。
自分が経験して身体で理解しないと解らないのである。

人間社会は実に厳しいと思うことは、「自分の在り様」を理解しようとする感性を磨かないままでも生きてゆくことも出来ると言うことである。
つまり、自分の幅とか奥行きを成長させることなく終わってしまうこともあるということだ。
言い換えれば、自分は気がつかないが、周りの人たちに嫌がられて生きて行くことも出来るということである。

いま、「道徳教育」を学校で教えるかどうか、という議論がなされているが、この教育の目的は「社会の中での「自分の在り様」を自分自信で気がつくようにさせることではないだろうか。
これは明らかに「感性」の問題だと思う。
そういう見方をすると、はたして「感性」は教えられるるような事なのか疑問に思う。
経験によって鍛えられるものであると思う。