猫 周公のコラム

スケッチとエッセイ

父親と子ども 猿翁の気持ち

2013年12月29日 | Weblog

NHK総合で「猿翁と香川照之」について放送していた。

香川が父親・猿翁に会いに行ったとき「もう父親ではない」と言って、

帰されたようだ。最初は冷たい父親と思っていたが、

そうではなかったことが、この放送を見ていて解った。

「誰も頼る者がいない、自分で精進するしかない!」おそらくそう言って、

猿翁は「子どもを現実の厳しさに追い込んだ」と思う。

今の世の中では子供がかわいくて、とてもそんな言葉は言えないのが現実である。

さすがに「スーパー歌舞伎」を築き上げた猿翁だと思った。

子どもを育てるということは、こういうことではないだろうか?

香川は父親の姿を見て自らを奮い立たせたということもあると思うが、

「誰にも頼るものがいない、という環境に追い込んだ猿翁もさすがである。


パソコンは高齢者ほど必要だ

2013年12月27日 | Weblog

プリンターのインクが無くなったので注文しようと思っていたら、

プリンター会社からメールが来て、ポイントで買えば安く買えることを知った。

ポイントはインクやプリンターを買った時や誕生日に、貯まる仕組みになっている。

そこで思うのは、パソコンを扱ったことがない高齢者は損をしてしまうのではないか?

ということだ。このようにインク一つとってみても損をしているわけだから、

これが積み重なると大きいと思う。確かに今はパソコン利用者が得をする時代である。

航空券や日常の買い物は、パソコンで値段を比較して最も安いほうを買う時代だ。

我々高齢者は「パソコンができないから」とは言ってはいられないので、

今からでも時代に乗り遅れないように、しなければならないと思う。

自分の場合ブログを書いたり、メールを書いたりしてパソコンに慣れるようにしているが、

物を買うときには、初めての経験なので四苦八苦してやっている。 

パソコンはあまりにもわからないところが多く、操作するのは大変なことだと思う。

しかし、「操作できなくてはいけない世の中」になってしまったので、

否応なしに覚えなければいけないようになってきているように思う。


歳を取るということ

2013年12月26日 | Weblog

今日、歯医者に行って抜歯してきた。

どうも歯槽膿漏で歯茎が膿んでいたようだ。

前にご厄介になった歯医者(亡くなった)で歯を抜いたので、

これで二本抜いたことになる。

今日、つくづく思ったのは「歳を取るというのはこういうことだったのか?」

ということだ。歯は次第に悪くなってゆき、いずれは無くなってしまうだろう。

足は衰えてゆき、いずれは歩けなくなってゆくのであろう。

考えてみれば悲しいことだと思うが、「それが自然」だと思う。

人間は自然に衰えて行くものであるから、それでいいのではないか。

「白髪のまま、そして皺のまま」でいいのではないか?

そして、考え方も次第に円熟してゆくような気がする。

誰でもが、否応なく歳を取ってゆくのだから、

そういうことを認めてゆくのも「歳を取った者の役得」ではないかと思う?


年賀状の意味

2013年12月25日 | Weblog

年賀状に載せる絵は、毎年悩みの種である。

今年は午年なので、馬の絵がいいだろうと思って、

昨年10月初めに行った、「南木曾の花馬まつり」の様子を

描いて、それを「筆ぐるめ」で作ることにした。

リアルに描きすぎた感もあり、迷っている。

ところで、メールで年賀状を送る人がいるので、

「年賀状の量が減ってきているようだ」とマスコミは

言っているが、この歳になると年賀状が来たということは、

「元気で生きているよ!」という証にもなるのではないか?

それだけに、年賀状は大事なものだと考えている。

 


画家 桜井陽司さんの個展(絵にほれ込んだ会社員)

2013年12月23日 | Weblog

昨日の中日朝刊に出ていた記事は、まさに「自分もこういうことをしたい」というような、

自分にとっては夢のような記事だった。春日井市の三浦さんがほれ込んだ作品を見て

もらおうと企画した桜井陽司さんの油絵とデッサン32点を展示した展覧会を見に行っ

てきた。記事に出ていた写真の「東京駅」は気に入っていた。そして是非見たいと思った。

記事によると三浦さんは「5年前、古美術品店でえ見つけた桜井さんの絵の魅力に引き

寄せられた・・・」ということだ。展覧会は今日までなので、急ぎ新聞の記事を片手に会場

に向かった。会場では三浦さんの「ほれ込んだ」作品の説明で気持ちが相通じるものを

感じずにはいられなかった。三浦さんが「ほれ込んだ」だけあって、いい絵が並んでいた。

そして、三浦さんが100点も持っている素晴らしい作品を奥から出して見せてくれた。

ところで画家の桜井陽司さんは記事によると「1945(大正4)年生まれで新潟県出身。

東京を拠点に活動し、2000年に亡くなった」とのことである。


老後の夫婦の在り方。女性の賢さに教わる。

2013年12月19日 | Weblog

今日はデジカメ教室で、家庭の主婦からいろいろなことを学んだ。

中でも一番「なるほど!」と思ったことは、老後の夫婦のあり方ということであった。

皆さんは60歳初めの方々だが、既に実践し始めているのだ。

その一つは、夫婦の片方が居なくなったときは、

困らないようにしているということだ。

特に「夫の一人暮らしほどみじめなことがない」ということで、

夫が一人になっても、炊事ができるようにしている。

例えば、ある家では「炊事は交代でするようにしている」ようだ。

次に、それぞれの行動に干渉しないことにしているとのことだ。

例えば、この教室は「デジカメ教室」だが、自分の趣味の時間は「心置きなく」やりたい

ということで、ご主人にも趣味を持たせるなど、

お互いに趣味の時間を持つようにしているようだ。

今日も、この教室が終わった後で名古屋まで展覧会を見に行ったのだが、

10人中主婦の方は4人が参加していた。

この教室では時々海外旅行に行って、写真撮影をするのだが、

これに毎年数名の方が参加している。

要は、歳を取ってもお互いが困らないようにして置くということであり、

「お互いに自主独立の精神を養っておこう」ということだと思った。


焼き物の町・常滑の風景

2013年12月18日 | Weblog

先日もブログに書いたが、焼き物の町・常滑に行ってきた。

写真を見ながら、常滑の風景画を描いてみた。 

さすがに土管や急須を作っていたせいか、

土管が装飾品として、うまく使われていた。

土管は今ではビニール管に押されているが、

急須や花瓶などは土の良さを生かして、うまくやっているように感じた。

さらに、この町の良さを生かして、ますます観光客が訪れるといいと思う。


いろいろな生き方

2013年12月16日 | Weblog

70歳~80歳代になると、人生の最終段階なのか「生き方」に、

特徴が出てくるような感じがする。人間70歳~80歳代になると

人生の終盤を迎える年齢になってくるので、当然のことだと思う。

こればかりは、「自分の人生なので」皆さん真剣だ。

いま、デジカメ教室に通っているが、ここでの皆さんの「生き方」は

大いに惹かれることが多い。例えば、80歳代の方が新しいカメラを買って

勉強に来ている姿を見ていると、「ああいう人生を送りたいと思う」。

自分は、以前から好きな油絵を描いていたが、手術を機会に

専ら小さい水彩画を描いている。合わせてカメラの撮り方も

教えてもらっているので、これからの人生は面白くなってきたように感じる。

(絵と写真のことについては、先日(12月12日)のブログに書いた)

自分は5年前に心臓大動脈弁の置換手術をしたときは、

この先どうなるのかと思った。しかし、手術をして頂いた先生のお蔭で

まったく以前の日常と同じ生活を送っている。お酒は飲めるし、

カメラの旅行には行けるしで、本当にありがたいと思っている。

手術をして頂いた先生のお蔭と思って感謝している。

その人の考えようで、人生のあり方はどうにでもなるとは思うが、

周りの皆さんの「生き方」は凄く参考になるので、大いに見習いたい。


今でも続いている「岐阜・池ノ上 みそぎ祭り」

2013年12月15日 | Weblog

子どもの神男が境内で皆に担がれているところ(大人の神男もいる)

大人の「みそぎ」

川に入った男たちはたき火で暖をとる

 

昨日、岐阜・長良川の「池ノ上みそぎ祭り」を見てきた。

この祭りは葛懸(かつらげけ)神社で役480年前に始まったようだ。

みそぎは15時・19時・22時の三回あるが、15時のみを見た。

男の祭りで、町内の池ノ上の小さい子供さんや、

中には76歳で子どものころから参加しているという方も居た。

裸になる公民館には、「女人禁制」と書かれていたのが可笑しかった。

昔からあるお祭りのようだが、「みそぎ」は昔から神聖なもので、

池の上町のように、老いも若きも一体となって、

こうして続いている所は少ないと思う。

昔からのコミュニケーションの一環だと思う。

そういうお祭りが今でも続いているということなので、

ぜひ見てみたかった。池の上町は古い町で、

「そういう伝統を受け継いでいる」雰囲気がある町だった。

非常に親切で、我々のクルマを置く場所の面倒をみてくれたくらいだ。


絵と写真

2013年12月12日 | Weblog

三重県美術館の「中谷泰展」を見てから、絵と写真について考えていた。

中谷泰はカメラを持ち、絵の材料になるようなところを撮っていたようだ。

中谷の絵を見ていると、構図は見事なものである。

写真が無かったら、こういう構図はできなかったであろう。

そこで、自分も撮ってきた写真をもとに絵を描いてみた。

これは、多治見の修道院を描いていた方を絵にしてみた。

描いてみてわかったことは、絵も写真も予め構想していた

(頭でイメージする)ことを描くことは同じだと思った。

根本的に違うことは、表現方法が絵と写真とは全く違うのではないか?

絵は絵具で奥深く表現するのに対して、写真は一瞬の表情や動作が

決め手になるようだ。よくはわからないが、これからはそうゆう見方で見てみたい。

構図や色などは、写真を参考にしてもいいのではないかと思った。

絵と写真の展示がある、二科展の切符をいただいたので、早速見てこようと思う。