先日、秋を感じるために岐阜・加子母村を訪ねた。
つくづくと「日本の山村はいいな~」と思った。
山村にくると「こんなにいい日本を守って行こう」という気持ちになる。
都会に住む人は休日には出来るだけ山村に行くことをお勧めする。
ちっぽけな人間の存在を感じ取ることは間違いない。
先日、秋を感じるために岐阜・加子母村を訪ねた。
つくづくと「日本の山村はいいな~」と思った。
山村にくると「こんなにいい日本を守って行こう」という気持ちになる。
都会に住む人は休日には出来るだけ山村に行くことをお勧めする。
ちっぽけな人間の存在を感じ取ることは間違いない。
立川談志さんが21日に亡くなっていたという。
言いたいことを歯に衣を着せず語っていたが、
本当はシャイで気配りの人だったかもしれない。
死に方も落語家らしいな!と思った。
立川談志さんは自分より年上とはいえ、ほぼ同じ時代に生きてきた。
時代は大きく変わっていても、不完全な人間の中味は少しも変わっていない。
凄いのはそういうことを若い頃から見抜いていたことだ。
人間の不完全さを認めていた。だから彼の落語は面白いのだと思う。
喉頭がんが見つかり、記者会見の時、
タバコをくわえての会見だった。
落語の中の世界をそのまま生きたのが立川談志だ。
そういう人間が少なくなってきているのが寂しい。
今朝の中日新聞に「オウム裁判の終結」に関して、
オウム被害者の河野さんの考え方が載っていた。
河野さんは松本サリン事件で奥さんを亡くし、
自身も事件報道の中で疑いをかけられた。
その河野さんがこう言っていた。
「事件前に戻ることはできない。
ならば死刑囚を恨み続けるような人生の無駄はせず、
残されたものとして楽しく生きる」
「今後は隠居生活。いかに心地よく死ぬかがテーマです」
そして「どの命もかけがえない、死刑廃止すべきだ」とも言っている。
自分だったら、死刑囚を恨み続けるのではないだろうか?
たぶん河野さんの「悩みに悩んだ挙句の悟り」だったのだと思う。
河野さんに対して、「自分などはまだまだ出来ていないな!」と思った。
四季桜の中の小原村
雲か霞かと思えるような美しさ
池に映った紅葉
昨日は手すき和紙で有名な愛知・小原村の「四季桜」を、
そして、近くの土岐市・曾木公園の紅葉を見てきた。
日帰り出来るところに、こういう良いところがあるとは知らなかった。
四季桜がこれほど群生して咲いているところは珍しいと思う。
あたかも雲が霞となっているようで、この世の美しさとは思えなかった。
曾木公園の紅葉はライトアップされて、池に映った景色は、
摩訶不思議な世界であり、「人間とは美を見いだす天才だ」と思った。
生きている間に見ておくべきところだ。
こういう幻想的な世界を見ることが出来るのも、
「生きているからこそ」だと思った。
ラジオ深夜便の放送は真夜中なので、寝ぼけ眼で聴いているときが多い。
その放送がパソコンで聴ける事になったのはありがたい。
隠居大学の天野祐吉さんの対談が聴きたくてパソコンを開いてみた。
細川 護熙さんとの対談、約30分の放送を全て聴くことが出来た。
対談の内容も思っていた通り、とてもよかった。
その他に「定年人生を心豊かに」という放送や「フェルメールの謎を追いかけて」など、
聴いておきたい放送がいっぱいだ。
特に「ラジオ深夜便」の放送はぐっすりと寝てしまっているときが多い。
どうしても聴き逃してしまう放送は結構多いのだ。
良くはわからないが、「クラウド」という技術でこういうことが可能となったのだろう。
過去に放送したものがパソコンで聴けるとは、便利な世の中になったものだ。
パソコンはこういう風に使えるようになって来ているのを知って驚いている。
こんなことは我々の年代では考えられないことである。
ラジオ深夜便のホームページは
ルノワール「ボン・ヌフ、パリ」
ゴッホの「自画像」
仏像に癒される
京都市美術館で開催している「ワシントン・ナショナル・ギャラリー展」を見てきた。
ワシントン・ナショナル・ギャラリーの所蔵作品はなかなか見ることが出来ないらしい。
今回、日本に来たのは珍しいことで、しばらくはお目にかかれない作品ばかりだ。
なぜ見に行ったかというと、こういう美術品は「名古屋飛ばし」が行われる事が多い。
この展覧会もそうだ。そのために京都まで行ったきたのだ。
京都もようやく秋の気配を感じ、街の木々も色ずいてた。
開催日はあと二週間弱しかないということなのか、人々でいっぱいだった。
印象派そしてポスト印象派以降の絵による、重厚で楽しい展覧会だった。
中でもルノワールのパリの風景を描いた「ボン・ヌフ、パリ」が良かった。、
「人物のルノワール」の風景画が見られたのは来たかいがあったというものだ。
さらにゴッホが死の直前に描いた「自画像」は迫力があり、
ここでなければもう見ることが出来ない作品であった。
帰りにJR西日本が作ったパンフレット「仏像に出会う旅西国三十三所めぐり」
を見ていたら、日本の仏像が見たくなり、西国めぐりをしたくなった。
印象派にも癒されていたが、日本の仏像にも心を癒されていた。
ワシントン・ナショナル・ギャラリー展のホームページは
正倉院展・奈良国立博物館
伊東深水「指」
いま、奈良国立博物館で正倉院展を開催している。
今日の日曜美術館は正倉院展の紹介だった。
この中で、日本の色がどこから来たのか?ということを話し合っていた。
自然が多い日本では、自然の中から色が出てきているようだ。
例えば「ヨモギ」とか「松葉」から取った色素を染め物に使うとか。
よく展覧会に行くと、外国の色が使われている絵があるが、
なんとなく落ち着かず、奇麗だとは思わないものだ。
それは、どうも日本人のDNAが求めている色とは違うからではないかと思う。
そのあと「伊東深水展」(平塚市美術館)の紹介をしていたが、
絵もいいが色が本当に奇麗だと思った。
日本人が求めている色はこれだ!と思った。
奈良国立博物館 http://www.narahaku.go.jp/exhibition/2011toku/shosoin/shosoin_index.html
平塚市美術館 http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/art-muse/2011206.htm
昨日は愛知県美術館で開催している、ポロック展を見てきた。
ポロック展のことについては次を開いてもらうとよい。
ここでは展覧会の感想を書いてみた。
この日は土曜日だというで、混雑を予想していたのに、
会場は混雑もなく、落ちついた雰囲気で見ることが出来た。
ジャクソン・ポロックの生誕100年ということで、
自分が若いころには画集が出ていて、感動を覚えたものだ。
そんなことから、60歳代の方々の入場者が多いように思えた。
クリスティーズの最新評価が200億円という「インディアンレッドの地の壁画」
を見ることが出来たこともよかったが、何よりも興味が持てたのは、
晩年の作品には「人の顔らしい」絵が描かれていたことだ。
つまり具象性が表れていたことだった。
これはこれで面白いと思って見ていたが、
「なぜ、そういう風になってきたか」という思いが、ずっと頭から離れなかった。
今日、手帳を見たらバス旅行の日だ!集合少し前に慌てて出掛けた。
行ってみたらバスもなく、集合している気配がない。
おかしいと思って手帳を見たら、なんと明日の間違えだった。
こんな間違いは、いままでにはなかったことだ。
スケジュールを見ると、あまりにも予定が多すぎるのが原因のようだ。
旅行や勉強会・展覧会などに出かけるなど、毎日何かしら予定を作っているのだ。
年寄りは、もっとスローでゆったりとした生活を送るべきだと思う。
そして、時には何もしない日も必要ではないか。
何もしないというのは、そう簡単にできるものではない。
人格の違うものが生活しているのだから、家では勝手には振る舞えない。
しかし、そこを頑張る必要がある。
何もしないと「ぐーたら」だと、誤解されるかもしれないが、
毅然とした態度で、「ぐーたら」を徹底すべきだと思う。
年寄りはスローで行かなくては!
「人間って、いろいろな人がいるものだ」とつくづく思う。
何をするにしても、どんどん前に出てきたい人、そして控えめな人など。
それで世の中はうまく回っているのだと思う。
好き嫌いはあると思うが、いろいろな人がいて上手くいっているのは間違いない。
「あの人はけしからん」とか「厭な人だ」とか、
とかく人に対には愚痴を言ってみたいものだが、それもいいと思う。
そういう事も言わなければ、ストレスがたまる一方だ。
そんな中で一番解らないのは、自分のことだ。
しかし、解る必要もないと思っている。
他人様に迷惑をかけなければ、あるがままに生きていったらいいと思う。
ただ、お互いが持ちつもたれつの関係にあることだけは解っていたい。
「他人様があっての自分だ」と思うようにしているが、時には身勝手な気持ちが出てしまう。
こうして気持ちが「いつも揺れ動いているのが人間だ」と自分にいい風に解釈をしている。