猫 周公のコラム

スケッチとエッセイ

個性的な表現

2006年05月30日 | Weblog
毎回、雑文を書いているうちに、文章で表現することの難しさが次第にわかってきました。
そこで、少し文章の書き方の勉強をしようと思い、先日「エッセイの書き方」なる本を買って読んでみたのです。
「なるほどそうなんだ」と思うことが一杯書いてあるのですが、読めば読むほど文章表現の難しさをひしひしと感じ、書くと言う事に恐怖心を抱くようになってしまいました。
そんなことは、何も知らないで、自由に書いていたときのほうが面白かったように思います。文章は下手でも、個性を感じてもらえるような表現が出来たと思うのです。
このことは絵を描くときと同じで、「絵の描き方」のような本を読むと、どうも構えてしまって描けなくなるか、個性を殺した、ありきたりの面白みのない絵になってしまうかのどちらかになるような気がします。
そこで、自分なりに独断的に言わせてもらえば、文章も絵も、まずは自己流でいいから「まずは書いてみよう」の精神がもっとも大切だと思います。
技法や理屈は、やっていく中で、壁にぶち当たった時に初めて勉強すればいいのでないでしようか。
とにかく、今の時代はあまりにも親切すぎて「ハウツウ」ものが氾濫しているので、「体で覚える」ことより、ついつい「頭で覚える」ように、知らない間に仕向けれれて居るようです。
この流れに流されないように、気をつけなければいけないな、と思いながら書いています。

この絵も、恵那の坂折棚田の風景です。この絵もそうですが、水彩は「本にあるような描き方」などは、無視して自己流でで描いています。
だから、ちっとも進歩しないのだ、と言われるかも知れませんね。

日本人

2006年05月25日 | Weblog
岐阜県の恵那市に坂折棚田があります。
400年前からある棚田で、石垣を築いた棚田で現存するのは数少ないとのことです。
先祖から受け継がれて、今の時代まで守られてきたと言うことだけでも、感動します。
確かに、その景観は美しいのですが、その美しさはそれを守ってきた人々の気持ちにあると思います。
そこにはあるのは、同じことを長い間、根気よくやり通してきたと言う美しさです。
最近の風潮は、そういうものを軽視して、なんでも楽に手っ取り早くやりたがる傾向にありますが、棚田のように脈々と受け継がれているのを見ると、今の日本人の心もまんざらではないな、と思います。

ところで、あの古い町に代々同じ場所・同じ家に住んでいるイタリア人の話なんですが、彼らは大勢の日本人が遠いこの町に、どうしていとも簡単にこの町にやって来られるのだろうか、と言うことが不思議でたまらないようです。
彼らはと言えば、死ぬまでこの町を出ることがない、ということがごく当たり前のように暮らしているのだそうです。
そういえば「鉄道員」や「自転車泥棒」などの往年のイタリア映画で見られるような、生活の名残が残っているのでしょうか?
この話、今の日本人の在り様を考えてしまいます。


本質を見る眼

2006年05月21日 | Weblog
どうも物事の本質を見る眼がある人たちは、政治家であろうが経営者であろうが芸術家であろうが後世に残るようないい仕事をしてきているように感じます。
画家や彫刻家であれば、モチーフとなる人間や風景をみて、そこにある不同なる本質をえぐり出すことが出来るのだと思います。
芸術で表現するのは、確かに技量が伴わなければなりませんが、同時に対象物に潜んでいるエネルギーとか魂のようなものが見えないと、当たり前の表現になってしまい、観る人が感動しないような作品になってしまうのかも知れません。

この絵は明治村にある「北里研究所・本館医学部」ですが、北里柴三郎の偉業がこの建物に込められているような感じがします。
一人の人間がどんな想いで、こつこつと偉業に繋がるような仕事を成し遂げてきたか、と言うことをおもうと、建物自体に愛着を感じざるを得ません。
描きながら、医学において本質を見る眼とはなんだろうか、などとつい考えてしまいました。

建築物の味

2006年05月16日 | Weblog
犬山の明治村には時々スケッチに行きます。
明治・大正時代の建築物は人との呼吸が合っていて、ほっとさせられます。
この帝国ホテルは、アメリカの建築家・ライトが設計して関東大震災の直前に完成したとのことです。
描いてみて驚いたのは、空間構成が複雑でなぜか癒されるような設計がなされているのです。
ふと、思ったのが安藤忠雄氏の建築物です。
何か共通点があるのです。
町家建築のようなものを感じるのです。
無駄のようであって気持ちを和ませるような空間が随所に施されているのです。
今の時代はこういう無駄とか遊びがなくなってきていてるので、余計感じるのでしょうか?

そういう雰囲気を感じながら描いたものです。

親子

2006年05月14日 | Weblog
先日餌を与えていた野良猫が、子供を四匹生みました。
この親猫(名前はちび)は数ヶ月前までは生まれたばかりの子猫だったのですが、親にはぐれてしまったこの迷い猫を、かわいそうだと思って餌を与えたら居ついてしまったのです。
お母さんになったちびは四匹の子猫を必死で育てているのです。
動物の本能で育てているのですが、一部始終を観察していると、人間が教わることが一杯あり、本当に感動します。
親もたまには散歩をするのですが、子供に十分おっぱいを飲ませて、全員が寝たところを見計らって出かけていくのです。
また、ほかの猫が近づいてくると大きな声で威嚇して子供を守っています。
「可愛い子を産んだね」と声を掛けると、おっぱいを飲ませている足を上げて子供を見せてくれます。
あまりのも忌まわしい事件が起こっている中なので、とてもほっとさせられます。
動物から教えられることは本当にたくさんあるのです。

この絵は4月の団体展に出した絵です。
団体展に出すたびに、「勉強し直して出直してきます」という気持ちになります。
いろいろ言われた絵ですが、こんな絵も描くんですよ。
60号で題は「ティータイム」です。

根気

2006年05月11日 | Weblog
先日、杉本健吉画伯の画集をみていたら、「絵は体力と根気だよ」と書いてありましたが、99歳まで描き続けた大画家でも自分と闘いながら描いているのですから、ましてや自分などは「上手く描けないから」とか「モチーフがよくないから」とか言って途中で投げ出すなんてことはとんでもないことだと思いました。
スケッチなどしていると、上手くかけなくて途中で嫌になってしまうことがありますが、根気よく描き続けていると「何とかなるものだな」と思うことがよくあります。
この絵も画材の選択に失敗して、現場ではどうにもならないくらいの絵になってしまいましたが、そこは根気と粘りで、多少は立て直すことが出来たと言う絵です。
結果は不満ですが悪戦苦闘して描いた絵と言うことで、愛着があります。

何でも鑑定団

2006年05月08日 | Weblog
テレビ番組の「何でも鑑定団」が好きなのでよく見るのですが、鑑定の先生が「いい仕事をしていますね!」という言葉がとてもいいですね。
常滑は昔からの陶器の町なのですが、町そのものから「いい仕事をしている」雰囲気が伺えるのは自分だけでしょうか?
そういう空気というのはとても大切で、そこには今の日本には忘れられている工夫とか創造・創作の精神がいっぱいあるような気がします。
だから、そんな環境に巡り合えた人は、本当に幸せだと思います。
「ものづくり」だけでなく演劇や映画・音楽などに接することによって「いい仕事」に巡り合えることは間違いありません。

絵の建物の中では、今でも陶器の生産が行われていると思いますが、その風景からは伝統産業の重みが感じられ、とても惹かれてしまいました。

続ける

2006年05月07日 | Weblog
たまにスケッチに行くのですが、描き始めは思うように行かなくて苦労しています。
人物デッサンなどのときも同じことが言えます。
つくづく思うことは、毎日描き続けて感覚を体に覚えさせなければいけないようです。
よくバイオリニストが毎日8時間から10時間の練習をしていると言うことですが、絵を描くのもこれと同じで毎日描いていなければ即座に腕が衰えてしまうのだと思います。

この絵は、体に覚えこませたはずの感覚が出てこなくて苦労して描いたものです。

魅力

2006年05月04日 | Weblog
エンパイヤステートビルを始めてみたときに、このビルが長い風雪に耐えて凛として建っている姿はとても美しいものだと思いました。
そして、自分の存在を無言で主張している姿にも。
人間が我欲を満足させたいがためにどんな手段を使っても名誉や金・地位などで頭角を現そうと言う姿は実に醜いと思います。
そういう気持ちが起こってきたときは、このビルを見ると醜い自分の姿が解り実に恥ずかしい思いをすると思います。
中に入ってみるとクラッシックな建築方法で、それが却って見るものに重厚感を与え風雪に耐えてきた奥ゆかしさを感じます。
この建物の魅力はそういうところにあって、惹きつけられました。

アート

2006年05月03日 | Weblog
あらためてアートとは?と言われるとどう答えたらいいものか迷ってしまう。
今まで当たり前のものとしてみていたものが、見方を変えるとそこになにやら不思議なものがみえてきて、やたらと惹きつけられてしまうと言うような経験がよくあります。
そういうものを形や色で表現したものが絵であり造形であるとおもうのです。
具象画であってもゴッホやゴーギャンのように、あのような色や形で捉えているのは描いた本人のものの見方が当たり前の見方では見ていないからだと思います。

もって生まれた才能がそういう見方をさせるのか、追求心が強く何事も本質を見極めようとして生きてきた結果そういう見方になってきたのか、いずれにしても常識からはアートは生まれないようです。
ベトナムの市場ではそアートな場面に一杯出会いました。