NHKで「夢を食べ続けた男・植木等」という番組をやっていた。
植木さんはスーダラ節をレコーディングするときに、僧侶であるお父さんに相談に行ったそうである。
てっきり「詰まらん歌を歌うな」と叱られると思っていたが、お父さんから「これこそ親鸞聖人の教えだ、ぜひとも歌いなさいさい」と言われたそうである。
確かに「わかっちゃいるけどやめられない」という歌詞は、人間の「業」というか本質をついたものだと思う。
そういう人間の「業」のようなものがあるということを、知った上で生きてゆくかどうかで、人間への理解度が大きく違ってきて「人を許すことが出来る」ような人間となってくるのではないだろうか?
植木さんのお父さんは、人間が救われる道を自覚しているような人間がこの世の中にもっと多くなってもらいたい、という願いがあったのだと思う。
こういう発想は凄いな、と思って聴いていた。
この親にしてこの子ありという感じがした。
この歌にこんな深い意味があったとは、そしてそれを歌った植木さんは無責任どころか立派なものである。
親鸞聖人の「歎異抄」に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人が極楽往生できるのなら、悪人ができないはずが無い)」と有るのは、上記「他力本願」とも関係する思想であるが、その意味は、<人間は自力で善(往生の手段となる行為)を成すことは不可能である。人間はすべて悪(往生の手段とならない行為)しかなせない。だから、悪人と自覚している人間の方が、自分は善人だと思っている人間より、本願により救われる道を自覚していることになる>という逆説的な表現である。大乗無我思想のひとつの到達点といえる。(ウィキペディア)
植木さんはスーダラ節をレコーディングするときに、僧侶であるお父さんに相談に行ったそうである。
てっきり「詰まらん歌を歌うな」と叱られると思っていたが、お父さんから「これこそ親鸞聖人の教えだ、ぜひとも歌いなさいさい」と言われたそうである。
確かに「わかっちゃいるけどやめられない」という歌詞は、人間の「業」というか本質をついたものだと思う。
そういう人間の「業」のようなものがあるということを、知った上で生きてゆくかどうかで、人間への理解度が大きく違ってきて「人を許すことが出来る」ような人間となってくるのではないだろうか?
植木さんのお父さんは、人間が救われる道を自覚しているような人間がこの世の中にもっと多くなってもらいたい、という願いがあったのだと思う。
こういう発想は凄いな、と思って聴いていた。
この親にしてこの子ありという感じがした。
この歌にこんな深い意味があったとは、そしてそれを歌った植木さんは無責任どころか立派なものである。
親鸞聖人の「歎異抄」に「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人が極楽往生できるのなら、悪人ができないはずが無い)」と有るのは、上記「他力本願」とも関係する思想であるが、その意味は、<人間は自力で善(往生の手段となる行為)を成すことは不可能である。人間はすべて悪(往生の手段とならない行為)しかなせない。だから、悪人と自覚している人間の方が、自分は善人だと思っている人間より、本願により救われる道を自覚していることになる>という逆説的な表現である。大乗無我思想のひとつの到達点といえる。(ウィキペディア)