猫 周公のコラム

スケッチとエッセイ

何事も「好き」になること

2013年10月31日 | Weblog

今日は岐阜県関市の100年公園の中にある「岐阜県博物館」で

「創作人形と縮緬細工のコラボ展」を見てきた。

この展覧会では、昔の人々の姿や動物たちがが人形となって

現代の我々の前に現れたような感じがした。

昔懐かしい古い端切れを使って、昔の子供達の姿が人形になって降りてきた感じだ。

この作者は人形が好きでたまらなかったと思う。そういうものが人形の顔や服装に表れている。

縮緬とはいかにも懐かしいが、人形を縮緬で作るとかなりリアルになっているのがわかる。

作者に聞くと、顔も自分で作るそうだ。人形によって顔つきが違うのがおもしろい。

人形だけでなく、絵でもそうだと思うが「本当に好きでなければ長続きしないであろう」と思った。

長続きしているのは①本当に好きである②邪心がなくそのことに没頭できる③なんでも面白がる

ような性格が揃っていれば間違いなく、ずっと続けることが出来ると思う。

自分はというと、絵は下手だが、とにかく一生描いて終えたいと考えている。

この人形展は11月24日まで岐阜県博物館(岐阜県関市100年公園内)で開催している。

 

 


香りと体調

2013年10月29日 | Weblog

この時期になると「金もくせい」の香りが漂ってくる。

子どものころ、家の向えに「金もくせい」の木があって、この香りが秋を感じさせた。

そして、冬になると沈丁花の花が咲いて、厳しい冬にほのかな香りを漂わせている。

自分は子どもの頃から、香には敏感な体質ではないかと思っていた。

子どもの頃の思い出は、いつも香りで繋がっている。

3月のひな祭りは、毎年母が出してくれた、ひし餅の香りで記憶している。

大人になっても、体調がいいと季節に応じた香りが漂ってくる。

この香りは表現し難い。とにかく香りが漂ってくるときは、体調がとてもいい。

そして、いい心地になれるし、夢の中を漂っているような気分になれる。

大人になっても、子供の頃の「香り」の記憶が、いまだに身体の中にしみ込んでいるようだ。

親からもらったこの体質が、今となっては大変ありがたいものだと思っている。


古今伝授の里

2013年10月27日 | Weblog

先日、岐阜県郡上市が運営する「古今伝授の里」に行って紅葉を満喫してきた。

紅葉の様子を見に行ったのだが、こんなところに、こんなにも素朴で静かなところがあったのだ。

なにしろロケーションが素晴らしいと思った。

川を挟んでこちらには、郡上を300年間治めた東氏記念館や大和文庫(短歌図書館)

等があり、この近くには研修館の篠脇山荘があって、歌会や茶会等が行われているようだ。

川の向こう側には東氏館跡庭園や「古今花の森」などがある。

ここの特徴は「和歌文学館」があるということだ。

郡上を治めていた東氏は連歌師・宗祇に奥儀を伝授したということで、

「古今伝授の里」となったと聞いている。

ここのレストランでお茶を飲みながら、「ぼ~っ」としているのもよさそうだ。

毎日、現実の中に居ると、こういう環境が欲しくなる。

名古屋近郊の方だったら是非ともお勧めしたい。


ありがたい世の中

2013年10月25日 | Weblog

考えてみれば、いつの間にかありがたい世の中になったものだと思う。

まずは戦争が無くて命が守られているので、不慮の災害がない限り

寿命がある限り生きられることだ。

そして、収入は年金制度があり、生活は贅沢をしない限り保障されている。

それに、医学の発達で平均寿命はどんどん延びている。

個人的な悩みがあるとは思うが、命と収入が保障されている社会は少ないと思う。

そこで考えるのは、敬老の精神である。

我々はあまり「敬老の精神」を振り回さないほうがいいのではないかと思う。

例えば、電車の中でも「座って当たり前」といった態度はとらない方がいいように思う。

皆、苦しい時代を生き抜いてきた我々だから「我慢」というものが身についているはずだ。

思い出してみれば、戦争直後は何もなかった。当時の写真を見ると膝やひじは縫ってあった。

靴下などは無くてズック靴に足袋をはいていた。このような時代に生きてきたのだから。

何もない時代に生きてきたのだから、「我慢」を今の若い人たちに示すのが役割だと思う。 


パソコン

2013年10月25日 | Weblog

いまのパソコンはWindows8を使っている(今までのXPも持っている)。

買った当初は画面を終了しようとしても、そう簡単には行かなかった。

最近はなるべくWindows8を使うようにしている。

とにかく電子機器の進歩には、とてもついてゆけるものではない。

しかし、何とかこの時代について行かねばいけないと思っている。

友達との交信はパソコンが多いし、皆頑張っているようなのでついてゆきたい。

先日、携帯からアイフォーンに変えた方から、アドレス変更のメールがあった。

早速、会ってアイホーンの使い方を教えてもらおうと思う。

とにかく皆さんは世の中に順応している。

これからはパソコンもアイフォーンもできないと、置いてきぼりにされてしまいそうだ。


岐阜県美術館

2013年10月22日 | Weblog

岐阜はすっかり秋になっていた。

マイヨールの彫刻

 

岐阜県美術館はすっかり秋の気配となっていた。

今日はこの美術館で開催している「ルドン展」を見に行ってきた。

「暑い、暑い」と言っていても、秋は必ずやってくるから不思議なものだ。

岐阜県美術館の森は、すっかり秋になっていた。

ルドンの作品は、岐阜県美術館が一番持っているという。

ルドンの作品はエッチング、油絵、パステルと様々だが、

これだけ一同に集めた展覧会は珍しいと思った。

彼の作品は夢の中に出てくるような、幻想的な絵が多い。

今日は、いまオルセー美術館が持っている人物画「Parsifal」(パステル)

に出会えるかと思って見ていた。ネットで見ていた中では一番好きな作品だった。

その作品に出合えれば本当にラッキーだと思い探していた。

絵にはこんな楽しみ方があるので楽しい。 


好きな事をやる時間

2013年10月20日 | Weblog

絵の友人と今日会っていろいろ話をした。そのうちの一つが展覧会の話だった。

彼とは90歳(本当は100歳だが、寿命を考えて短くした)に展覧会をやろうと約束してある。

90歳といっても自分にとっては、そんなに先のことではない。

自分は水彩画の小品を出すつもりなので、

早いうちに気に入ったものを用意しておきたい。、

とにかく80歳までには、出すものを揃えておきたいのだ。

80歳というと、後6年しかない。月3枚の水彩画を描いたとしても、一年で200枚くらいしか描けない。

200枚のうち気に入ったものは、1割もあればいい方だと思う。

そうしてみると、好きなことにはもう少し時間を掛けておくべきだったと思っている。

そして、残りの人生は意外に早く来てしまうのだから、なぜもっと濃厚に使わなかったのかな?

こうして時間はどんどん過ぎて行く、何もしないで居てもどんどん過ぎて行く。


高校野球

2013年10月19日 | Weblog

久し振りで母校の高校野球を見て感動した。

校歌を若い人たちと一緒に歌た時などは、

こういうものが脈々と続いていることに涙が出てしまった。

学校は100年以上した伝統校で、当時から何かにつけて校風は厳しく守らされた。

いまのような学校の自由さはなく、校歌ひとつとっても先輩が教室にきて暗記させられた。

そういうことがいいのかどうかは解らないが、とにかく一本筋が通っていた感じがする。

先輩・後輩の秩序はとても厳しく、今でも時々会っている先輩には頭が上がらない。

自由な空気もいいのだが、そういう人間関係もあっていいように思う。

「がんじがらめ」が悪いように思われているが、子どもの時は「枠」があって当たり前ではないだろうか?

「ああしてはいけない、こうしなさい」と言うのが教育だと思う。

世の中は変化してきているが、教育の趣旨は変わっては居ないと思う。


やなせたかしさんの晩年

2013年10月18日 | Weblog

先日、アンパンマンの作者の作者のなやなせたかしさんが94歳で亡くなった。

やなせさんは自分達が読んでいる 雑誌に確か、イラストレーターとして活躍していた。

やなせさんの生き方は立派だったように思った。

晩年は「ただ働き」同様で原稿料ももらっていなかったようだ。

それでいいと思う。アンパンマンのように自分の身を食べさせて、

お役にたてるということを、身を持って実践されたのではないだろうか?

そして死ぬまで働き続けたことは、我々に見本を示してくれたのだろう。

医学の発達でこれからの人たちは、90歳代まで生きると思う。

しかし、若い人たちに負担をかけるようではいけない。

世の中のお役にたてば、なんでもいいのではないかと思う。

例えば美術に詳しい年寄りは美術好きな人たちと美術館に行って、知っていることを披露してもいい。

いままで蓄積してきたものは、自分の中にしまっておかないで大いに披露すればいい。

やなせたかしさんの晩年の働きぶりを見ていて、そんなことを考えていた。


結婚式

2013年10月14日 | Weblog

先日、「明治村」に行ったときの話をしよう。

その日は偶然に聖ヨハネ教会で結婚式をやっていた。

自分は写真を撮るために、教会の真ん中辺に座っていたが、

そのうちに父親と花嫁がバージンロードを進んできた。

この姿を見て、何か知らないが涙が出てしょうがなかった。

どうも恐らく父親の想いに共感していたのかも知れない。

いままで出ていた身内の結婚式でもそんなことはなかった。

しかし、今日全く知らない人の結婚式で涙を流したのは、どういうわけなのだろうか?

自分も娘への想いと、見ている現実がかさなって複雑な思いだった。

親には子どもには言わない事柄が一杯ある。

特に親の生き方とか信条といったものは、誰にも言わないものだ。

もしかしたら、そういうものが涙となっていたのかも知れない。