猫 周公のコラム

スケッチとエッセイ

「死に向かって生きる」ということ

2006年11月29日 | Weblog
今の時期は「喪中の賀状欠礼」の葉書がよく来ます。

知人で急死された方がいて、実に残念に思うとともに、自分も死の存在を現実のものとして受け止めなければいけない年齢になってきているのを強く感じました。

人間60歳を過ぎたら「死に向かって生きているのだ」と言うことを意識しておかなければいけないようです。
この歳になったら、誰もが自分のスタンスをもって生きて居るはずです。
論語は「40にしてまよわず」と言って40歳を不惑の歳とみているくらいですから。
そしてこの歳になれば、人様にへりくだって生きてゆく必要もないので、自分を信じて胸を張って生きて行くべきではないでしょうか?

最近、よく考えるのですが「死はいつやってきてもいいぞ」という覚悟を決め居直る事が、胸を張って生きてゆくことに通じるのではないかと思うのです。
いずれにしても永久には生きられないのだから、早いうちから覚悟を決めて生きた方がいいと思っています。
そう思うと不思議と世の中の真実が見えてきたり、生きると言う尊さがわかってきたりして実に広い視野で人生を考えるようになるのではないかと思うのです。
「お前は今頃そんなことに気がついたのか」と笑われるかもしれませんが、自分の気持ちの中では、そういう考えが次第に大きくなってきつつあるのです。

小さな文化交流

2006年11月28日 | Weblog
今日は娘の演奏を聴きに東京に行ってきました。
その前に、上野の森美術館で「ダリ展」を開催しているので、ぜひとも観ておきたいと思い上野公園に行きました。
オープンカフェで一服していたら、外国の旅行者だと思える老婦人が「西郷隆盛の銅像はどこにあるのですか」と聴いてきたので、一緒に公園内の交番に行って英語バージョンの案内図をもらい、西郷さんの銅像まで案内してあげました。
彼女はロンドンから息子のお嫁さんの住む日本に着たばかりで、日本語がまったくわからないということでした。

私が感心したのは、日本語がまったく話せない老婦人がロンドンから遠い日本に当たり前のように一人旅をしているということです。
このことは確かに「凄い行動力だな」と思いますがちょっと見方を変えて見ると、どうも文化とか国民性の違いにあるのではないかと思うのです。
(最近の日本人もそうなりつつありますが、まだまだ集団行動が多いようです)
ところで、この老婦人に園内を案内しているうちにすっかりフレンドリーになってしまい、お互いに写真を撮り合ってメールで交換しようと言うことになったのです。
小さな文化交流でしたが、何か新たな世界を見たような気がしました。


脳トレブーム 本当の脳の鍛え方

2006年11月26日 | Weblog
最近、脳の老化防止のための脳トレーニング(脳トレ)がブームとなっています。
「脳トレ」のDSあるいは本が売れていて、DSは発売即完売の状況のようです。
「脳トレ」は数字や漢字などによるクイズや音読などで脳を鍛えると言うものですが、確かに脳の老化のスピードをある程度遅らせると言う効果はあるでしょう。
しかし、年齢とともに「忘れっぽくなってゆく」という自然現象に対してはたして防止効果があるかどうかはわからないと思います。
むしろ、脳細胞が急減してゆく中でこんなことをやったら、むしろストレスが溜まりはしないかと心配してしまいます。

それよりも普段の生活の中で、今まで以上に人と接する機会を作って「緊張関係を作ったり」「驚いたり」「笑ったり」「怒ったり」「悲しんだり」適度のストレスを感じるようにしたほうがいいのではないでしょうか?
要は脳だけを訓練するのではなく、感情そして体全体で「緊張感」を体得して生きていくほうが、よほど老化防止になるはずです。

会社と言う組織を離れ仕事からも離れた世代では、今までの経験による判断力や予測予知力に強くて、ますます冴えてきているはずです。
こういう世代の人たちには、世の中のトレンドを研究することを進めます。
それは同時に自分の生き方や経営を研究することになるからです。
「脳トレ」は意識すれば、日常生活の中で毎日出来ることなのではないかと思います。

仕事と誇り

2006年11月26日 | Weblog
NHKの番組で「世界遺産」という番組があって、今日はオランダの「風車」を紹介していました。
その中で「風車守」の家族が出てきましたが、仕事に対する「誇り」と言ったものを強く感じ、とても羨ましく思えました。
風車の中に住んで一生涯かけて風車を守るのですが、決して住み心地がいいとはいえない風車の中の生活や、家族が一致団結して風車を守ってゆく姿に「こういう誇りを持った人生もあるんだ!」と感動を覚えました。
この「風車守」という仕事をやりたいということで、大勢の希望者があるそうですが、風車の歴史や保守・運営の技術や経験などの厳しいテストで選ばれているようです。
日本でも伝統を守るような職業に就きたいという若者が結構居るということを聞きますが、そういう風潮は大いに盛り上げてゆくべきだと思います。
仕事に誇りを持つと言うことは、自分の一生においても誇りを持って生きてゆけるのではないかと感じました。

定年後でも「死ぬまで一生の仕事とする」ようなものが見つかれば最高に幸せではないだろうか?
仕事とは、なにも「収入を得る手段」を言うのではないのです。
生きていくには「どうしてもやらなければならないこと」と言ってもいいかと思います。
「拘って、誇りを持つ」これが仕事と言うものではないのでしょうか?



健康と生きがいの時代

2006年11月24日 | Weblog
今の時代くらい、健康と生きがいを強く求めている時代はありません。
「いつまでも若くて綺麗で長生きしていたい。そして上手いものを食べて旅行をして人生を最大限楽しみたい」と誰もが強く思っているのが今の時代の特徴かもしれません。
病院、スポーツセンター、エステサロン、健康薬品、化粧品などが大流行。
海外旅行は年々増えており、国内旅行も大ブーム、外食店はますます美味しいものを食べさせてくれるし雰囲気も豪華になってきています。
時間的にも金銭的にも余裕が出てきている証拠だと思いますが、はたして喜こんでばかり居ていいものだろうかと思うのです。

皆誰でも等しく歳を取ってゆかねばなりません。
そして何れは死を迎えることになるのですが、健康で長生きして美味しいものを食べて一通りのことを楽しんできたことが安らかな死を迎えると言うことになるのでしょうか?
その答えは、そのときが来ないとわからないのだと思います。
(私はそうはならないような気がします。そうではない何かもっと大切なものがあるような気ががするのです。まさに「その何かを捜し求めるプロセスが真に生きる」ということかもしれません)

今日は絵がありませんがそれもいいかもしれませんね。

刹那主義のなかのエゴ的な人々

2006年11月23日 | Weblog
毎日エスカレートしてゆく事件・・・・いじめ、公務員の不祥事、親の子殺し、残虐非道な殺人。
世の中がおかしくなってしまったのだろうか?

こういう事件を起こしている原因はといえば、親であり大人である我々の「夢が持てない時代の刹那主義」にあると思います。

「楽をしてしかも自分の事しか考えない」と言う風潮は、本当に危険な時代に入ってしまっていると思います。
こういう時代には第一に弱い立場の子供が親のエゴ的な生き方の犠牲になってくるのは当然でしょう。
次に何も知らない庶民が公的な立場にあるもののエゴによって犠牲になっているという現象もでてくるのです。税金や公的保険の積立金の無駄使いがその現れです。

こういう世の中では不本意ではあるが、物事が来るところまで来てエゴ的人間が痛い目に会わなければ直らないと言うのも本当だと思います。
まさに今がそういうことになっているのではないでしょうか?
一方で、こういう由々しき事態を見て、心あるものが時代を大きく変えようとしているのも事実です。
だからそう悲観的にならなくても自然に上手くいくような気もします。

絵は、世の中をちょっと深刻に考えてしまっている女性の絵です。


ブログ再開

2006年11月22日 | Weblog
長い間休んでしまいました。
8月6日に同居していた家内の母親が92歳で永眠したので、暫くはいろいろな雑事に追われてしまいました。

今日からブログの再開です。

考えてみれば、人間の一生なんてあっという間の出来事なんですね。
とうとうと流れる大河の中の泡一つが生まれて消えてゆくがごとく・・・といったものではないだろうか・・・と言う見方もあります。
確かに宇宙全体の中ではそういう見方も出来るのでしょうが、それではあまりにも儚い見方ではないでしょうか?
心を持った人間の一生の価値は、有名になったとか金持ちになったとかではなくて本人が充実した人生であったと思うかどうかで決まるのではないでしょうか?

世の中では偉大な事業を成し遂げたとか非凡な才能を発揮したとかで評価されるかも知れないが、人間が生きてきた価値は本人自身がどう思って一生を終えていったかに尽きると思う。
平たく言えば「何かに拘り続けてきたか」と言うことではないかと思います。
ある人は何かの研究を、ある人は芸術を、ある人は自分の生活スタイルに・・・など、他人が見て「なんだ」と思うようなことでも、何かに拘り続けてきた人の人生ほど価値あるものはないと思うのですが?

今日のスケッチは木曽川の濤濤とした流れを描いて見ました。