第14章
人生を諦めた瞬間
呼吸器内科の主治医である阪森先生より、この病は豊岡病院での治療は無理との事で、日本一の治療実績を誇る西宮の兵庫医科大学病院を紹介され、7月に家内と二人でこの病院を受診した。
後の主治医となる長谷川先生は、この兵庫医科大学病院の中でも「悪性中皮腫」の第一人者で、スペシャリストの兵庫医科大学の権威ある主任教授であった。
聞くと、長谷川教授のご両親は、私の地元の豊岡市のご出身と聞かされ、急に親近感を覚えた事を思い出す。
少しでも患者が話しやすいように、質問や疑問を誘導され、導き出させようとされる様は、長谷川教授の「自分や自分の家族が受けたい医療」の基本理念の強い思い入れの実践と感銘を受けた。
お蔭様で、大病にも関わらず、穏やかに落ち着いて診療を受ける事が出来て感謝している。
患者は、この兵庫医科大学病院に最後の望みを託して来院し、北海道から沖縄までの全国に及ぶと言う。
専門用語を使われずに、丁寧な優しい言葉使いで、分かりやすく説明を受けた後の一言が「手術を希望しますか? 緩和治療を希望しますか? 」との問いであった。
それぞれのメリットとデメリットも詳しく説明を受けた。
優しさだけではない、ポイントを押さえた説明は、分かりやすく厳しい治療方法の説明に、なお一層の信頼感が湧いてくる。「長谷川先生で良かった。
これでダメでも悔いはない」とさえ思えた。
内容は「手術の場合は、大変大きな手術となり術中の死亡例が7%で、術後は50%から60%の割合で合併症を発症し、寝たきりになる可能性も多分にありますが、緩和治療に比べて延命効果も2年から3年は延びます。
一方の緩和治療は、生存期間は短いが生活の質が一気に大きく変わる事はなく、徐々に死に向かいます」と言うものであった。
この病は発見時には、既に70%の人が手術を出来ないままに亡くなると聞いたが、これ以上に無い究極の選択を迫られている事になる。「泣きっ面に蜂」とはこの事であるが、私の場合は早期の発見で有った為に、まだ手術の可能性が残されていた事が、不幸中の幸いであった。
取りあえず、いずれを選択するにしても「抗がん剤治療を3クルー行いましょう」と言う事で、「同じ抗がん剤治療なら、近くの豊岡病院を希望します」と伝えるのが精一杯で了承されたが、私にはそれ以上の気力は残っていなかった。
3クルーと言うのは、毒薬である抗がん剤を3回に分けて点滴する治療で、1回の抗がん剤治療に3週間を要する。
これを3回行うと言う事を意味する。
抗がん剤治療は、とにかく辛い治療と聞く。副作用としては、抜け毛、むかつき、吐き気、発疹、かゆみ、味覚障害、発熱、白血球の悪化、腎臓機能の悪化、下痢、便秘などである。
帰りの車中は静まり返り、夫婦お互い無言の時間が流れ過ぎて行き「究極の選択」を迫られた余韻が頭の中を駆け巡る。
大手術による少しの延命治療か、手術はせずに少し短命になるが、現状の生活の質の継続の緩和治療か、2者選択であるが、2人で相談した結果、手術をせずにこのままの成り行きに任せ、自然に時が流れる緩和治療を選択する事にした。
今となっては手術が怖い訳では無く、術後の経過に不安が有ったからだ。これまでの3度の手術で、「もう、こりごり」していた。
「こんな事なら、これまでの辛い3回もの手術も受け無ければ良かった」と思い、生きる事を諦めた瞬間であった。
明日の事でも興味が無いが、ましてや一年後、三年後などは、全くの他人事であった。
日高まで延伸する高速道路も興味が無い。城崎大橋の架け替えも興味が無い。今日の今の事しか興味が持てない状況に追いやられた。「一寸先は闇」である。
初めて体験する究極の状況である。大勢の人から激励を受けたが、体が受け付けずに空しく聞こえる。
根拠のない「大丈夫だ」は、「大丈夫で無いから何度も入院して、何度も手術を受けている」「頑張れよ」には「わらをもすがる気持ちで神仏にお祈りし、かすかな望みに掛けている」と少々ひねくれ、これらに反感を持つ自分にも嫌気がさし、腹立たしく思える日々が続き、病の程度にもよるが重篤な病を体験し「激励よりも、ねぎらいや寄り添い」の大切さを痛感し学んだ。
今後の人のお見舞いの機会には、是非とも「情けが仇」にならぬ様に心したいと思っているが、問題は私にそんな余命が残されているかどうかである。
新たに独立した会社も早速に代表取締役を退任し、長男である取締役社長を新しい代表取締役に選任し、同時に田中店長の取締役も打診したが先送りとなった。各種の名義変更も行って、もしもの最悪の事態に備えて、長男と田中店長に会社の夢を託した。
「㈱ほーゆー本店社長の長男と田中店長」
第15章
初めての抗がん剤治療
その後の盆明けの8月17日より豊岡病院で、兵庫医科大学病院の長谷川教授の指示の元に、生まれて初めての抗がん剤の治療が始まり入院となった。
総合診療科の三好先生の説明を受け、色々な検査を行い、抗がん剤治療に備えた。その二日後に、いよいよ抗がん剤の点滴の日を向かえたが、手術と違い怖さは無かった。
朝一番の9時より、点滴用の太い針を左腕に差し込み、順番に9本もの点滴の開始となった。
聞くと終了までに約8時間は掛かると聞かされた。
9本の内の2本が抗がん剤で、残りはむかつき止めや清涼水、排尿剤など副作用を抑える薬だという。
抗がん剤は毒薬の為、血管に入れると直ぐに排出しなくては、他の臓器を痛めてしまう恐ろしい毒薬らしいが、点滴の最中は体には大きな変化も無く、無事に18時頃には終了となった。
しかし、早く体内の抗がん剤を排出しなくては副作用が酷くなる為に、毎日排尿の量のチェクシートを書き込み提出する。
翌日も、その翌日も清涼水や排尿剤などの副作用緩和の点滴を毎回4時間ほど受けた。
もちろん口からもお茶や水を嫌と言う程飲み、副作用の軽減に備えた。
順調に排尿も出来たが、数日後から少しずつ、むかつきや便秘、抜け毛などの副作用も見られるようにはなったが、他の患者さんに比べ、極めて副作用の症状は軽いと聞かされた。
抗がん剤治療は、人によって副作用の症状が大きく異なり、2回目以降の治療が出来ない患者さんも多く居るらしい。
4日目以降は、点滴の管も抜け薬の治療のみとなり、「感謝の肩たたき」を再開したが、「残り少ない人生」だと思うと一層の力が入るが、以前に比べて少し家内の肩が痩せて、やつれた様に感じたが口には出さなかった。長い間の苦悩がそうさせたに違いないと申し訳なく思う。
かゆみが発生し、体中に斑点も発生した為に皮膚科を受診し治療を受けたが、体力的には余裕はあった。
その後、口腔外科で口内の衛生検査を行い、15日間の入院治療で、退院の許可が出た。
その後も同じように、9月、10月と3回の抗がん剤治療を受けたが、最大の副作用は味覚障害であった。
私の場合は、味覚が無くなるのでは無く、調味料が苦く感じられ、何を食べても苦味の味しかしない。ところが、調味料を使わないフールーツなどは以前と変わらない味覚を感じた。
また、甘い物も比較的以前の味覚に近い味であったが、これもまた人それぞれらしい。
抗がん剤治療の副作用も少しずつ回復し、味覚障害から立ち直りかけていたある日、兄夫婦より食事会に誘われた。
近くの料亭で豪華な懐石料理を夫婦でご馳走になり、この先の兵庫医科大学病院での治療の激励を受けた。
「たけなわにて乾杯」
「夫婦で乾杯」
ご覧いただきありがとうございました。
次号第16章もご覧ください。
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