人生晴れたり曇ったり

「辛酸を嘗めた私の闘病日記」2年半の闘病生活の峠を越え、その後の元気な日常を画像を加えながら不定期ですが書いています。

辛酸をなめた私の闘病日記全20章(第14~15章)

2017年06月01日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

第14章

人生を諦めた瞬間

呼吸器内科の主治医である阪森先生より、この病は豊岡病院での治療は無理との事で、日本一の治療実績を誇る西宮の兵庫医科大学病院を紹介され、7月に家内と二人でこの病院を受診した。

後の主治医となる長谷川先生は、この兵庫医科大学病院の中でも「悪性中皮腫」の第一人者で、スペシャリストの兵庫医科大学の権威ある主任教授であった。

聞くと、長谷川教授のご両親は、私の地元の豊岡市のご出身と聞かされ、急に親近感を覚えた事を思い出す。

少しでも患者が話しやすいように、質問や疑問を誘導され、導き出させようとされる様は、長谷川教授の「自分や自分の家族が受けたい医療」の基本理念の強い思い入れの実践と感銘を受けた。

お蔭様で、大病にも関わらず、穏やかに落ち着いて診療を受ける事が出来て感謝している。

患者は、この兵庫医科大学病院に最後の望みを託して来院し、北海道から沖縄までの全国に及ぶと言う。

専門用語を使われずに、丁寧な優しい言葉使いで、分かりやすく説明を受けた後の一言が「手術を希望しますか? 緩和治療を希望しますか? 」との問いであった。

それぞれのメリットとデメリットも詳しく説明を受けた。

優しさだけではない、ポイントを押さえた説明は、分かりやすく厳しい治療方法の説明に、なお一層の信頼感が湧いてくる。「長谷川先生で良かった。

これでダメでも悔いはない」とさえ思えた。

内容は「手術の場合は、大変大きな手術となり術中の死亡例が7%で、術後は50%から60%の割合で合併症を発症し、寝たきりになる可能性も多分にありますが、緩和治療に比べて延命効果も2年から3年は延びます。

一方の緩和治療は、生存期間は短いが生活の質が一気に大きく変わる事はなく、徐々に死に向かいます」と言うものであった。

この病は発見時には、既に70%の人が手術を出来ないままに亡くなると聞いたが、これ以上に無い究極の選択を迫られている事になる。「泣きっ面に蜂」とはこの事であるが、私の場合は早期の発見で有った為に、まだ手術の可能性が残されていた事が、不幸中の幸いであった。

取りあえず、いずれを選択するにしても「抗がん剤治療を3クルー行いましょう」と言う事で、「同じ抗がん剤治療なら、近くの豊岡病院を希望します」と伝えるのが精一杯で了承されたが、私にはそれ以上の気力は残っていなかった。

3クルーと言うのは、毒薬である抗がん剤を3回に分けて点滴する治療で、1回の抗がん剤治療に3週間を要する。

これを3回行うと言う事を意味する。

抗がん剤治療は、とにかく辛い治療と聞く。副作用としては、抜け毛、むかつき、吐き気、発疹、かゆみ、味覚障害、発熱、白血球の悪化、腎臓機能の悪化、下痢、便秘などである。

帰りの車中は静まり返り、夫婦お互い無言の時間が流れ過ぎて行き「究極の選択」を迫られた余韻が頭の中を駆け巡る。

大手術による少しの延命治療か、手術はせずに少し短命になるが、現状の生活の質の継続の緩和治療か、2者選択であるが、2人で相談した結果、手術をせずにこのままの成り行きに任せ、自然に時が流れる緩和治療を選択する事にした。

今となっては手術が怖い訳では無く、術後の経過に不安が有ったからだ。これまでの3度の手術で、「もう、こりごり」していた。

「こんな事なら、これまでの辛い3回もの手術も受け無ければ良かった」と思い、生きる事を諦めた瞬間であった。

明日の事でも興味が無いが、ましてや一年後、三年後などは、全くの他人事であった。

日高まで延伸する高速道路も興味が無い。城崎大橋の架け替えも興味が無い。今日の今の事しか興味が持てない状況に追いやられた。「一寸先は闇」である。

初めて体験する究極の状況である。大勢の人から激励を受けたが、体が受け付けずに空しく聞こえる。

根拠のない「大丈夫だ」は、「大丈夫で無いから何度も入院して、何度も手術を受けている」「頑張れよ」には「わらをもすがる気持ちで神仏にお祈りし、かすかな望みに掛けている」と少々ひねくれ、これらに反感を持つ自分にも嫌気がさし、腹立たしく思える日々が続き、病の程度にもよるが重篤な病を体験し「激励よりも、ねぎらいや寄り添い」の大切さを痛感し学んだ。

今後の人のお見舞いの機会には、是非とも「情けが仇」にならぬ様に心したいと思っているが、問題は私にそんな余命が残されているかどうかである。

 新たに独立した会社も早速に代表取締役を退任し、長男である取締役社長を新しい代表取締役に選任し、同時に田中店長の取締役も打診したが先送りとなった。各種の名義変更も行って、もしもの最悪の事態に備えて、長男と田中店長に会社の夢を託した。

 

  「㈱ほーゆー本店社長の長男と田中店長」

 

第15章

初めての抗がん剤治療

その後の盆明けの8月17日より豊岡病院で、兵庫医科大学病院の長谷川教授の指示の元に、生まれて初めての抗がん剤の治療が始まり入院となった。

総合診療科の三好先生の説明を受け、色々な検査を行い、抗がん剤治療に備えた。その二日後に、いよいよ抗がん剤の点滴の日を向かえたが、手術と違い怖さは無かった。

朝一番の9時より、点滴用の太い針を左腕に差し込み、順番に9本もの点滴の開始となった。

聞くと終了までに約8時間は掛かると聞かされた。

9本の内の2本が抗がん剤で、残りはむかつき止めや清涼水、排尿剤など副作用を抑える薬だという。

抗がん剤は毒薬の為、血管に入れると直ぐに排出しなくては、他の臓器を痛めてしまう恐ろしい毒薬らしいが、点滴の最中は体には大きな変化も無く、無事に18時頃には終了となった。

しかし、早く体内の抗がん剤を排出しなくては副作用が酷くなる為に、毎日排尿の量のチェクシートを書き込み提出する。

翌日も、その翌日も清涼水や排尿剤などの副作用緩和の点滴を毎回4時間ほど受けた。 

もちろん口からもお茶や水を嫌と言う程飲み、副作用の軽減に備えた。

順調に排尿も出来たが、数日後から少しずつ、むかつきや便秘、抜け毛などの副作用も見られるようにはなったが、他の患者さんに比べ、極めて副作用の症状は軽いと聞かされた。

抗がん剤治療は、人によって副作用の症状が大きく異なり、2回目以降の治療が出来ない患者さんも多く居るらしい。

4日目以降は、点滴の管も抜け薬の治療のみとなり、「感謝の肩たたき」を再開したが、「残り少ない人生」だと思うと一層の力が入るが、以前に比べて少し家内の肩が痩せて、やつれた様に感じたが口には出さなかった。長い間の苦悩がそうさせたに違いないと申し訳なく思う。

かゆみが発生し、体中に斑点も発生した為に皮膚科を受診し治療を受けたが、体力的には余裕はあった。

その後、口腔外科で口内の衛生検査を行い、15日間の入院治療で、退院の許可が出た。

その後も同じように、9月、10月と3回の抗がん剤治療を受けたが、最大の副作用は味覚障害であった。

私の場合は、味覚が無くなるのでは無く、調味料が苦く感じられ、何を食べても苦味の味しかしない。ところが、調味料を使わないフールーツなどは以前と変わらない味覚を感じた。

また、甘い物も比較的以前の味覚に近い味であったが、これもまた人それぞれらしい。

抗がん剤治療の副作用も少しずつ回復し、味覚障害から立ち直りかけていたある日、兄夫婦より食事会に誘われた。

近くの料亭で豪華な懐石料理を夫婦でご馳走になり、この先の兵庫医科大学病院での治療の激励を受けた。

  「たけなわにて乾杯」

 「夫婦で乾杯」

ご覧いただきありがとうございました。

次号第16章もご覧ください。

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