人生晴れたり曇ったり

「辛酸を嘗めた私の闘病日記」2年半の闘病生活の峠を越え、その後の元気な日常を画像を加えながら不定期ですが書いています。

闘病日記 (8) 手術から退院へ

2021年10月21日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

ようこそ

月も変わって10月1日 入院生活も11日目を迎えようとしていた。窓越し景色を見渡すと、すっかり秋の秋の気配に変わっていったように見えた。そういえば、ほとんどエアコンも使っていない。それだけ過ごしやすい季節になったと言うことか。

何時ものように6時30分。看護師さんの見回りで目を覚まし、カーテンを開けてもらって検温開始。少し血圧は低いが問題はなさそうだ「伊藤さん、今日は手術の日です12時30分からの予定となっていますので、9時以降は飲み物も禁止してください。それにしても手術の前日にも関わらず、よく寝られますね」と嫌味を言われる始末。これも過去に大手術を何度も経験した賜物か過去のガンの手術と違い、今回は怪我のようなもの。命に係わる手術では無い。激痛には参ったが、怖さは全くなかった。やはりガンは怖かった。コロナ患者の皆さんも大変でしょうが、確率からしてガンは、即 死をイメージする。年間約36万人がガンでなくなっているデーターが、厚生労働省からも発表されている、最強最悪の病だ。そんな事もあって、「大丈夫です。麻酔は最強の友達です」と答えた。

勿論、今朝の朝食は無く、お茶を9時までのみ、手術に備えた。私は、ストーマを付けているので手術中に排尿しても本当は大丈夫なのだが、これも規則。素直に従って手術を待った。11時30分には妻から連絡があり、「1Fの総合待つ相室に居る」との事。特に不安は無いが、これで安心だ。

「あぁー やっとこの激痛から解放される」と思うと、手術の怖さなど忘れてしまい、術後の日常を想像しワクワクしていた。とにかく早く時間が来ないかと、時計を見る頻度も増していった。

13時過ぎ、看護師さんが二人やってきて、この手術着に着替えてください。と手術着とおむつを手渡され準備完了。「それでは手術室に行きましょうか」とベットの乗せられたまま手術室へと移動した。ガンの手術時とは違い、余裕もある。手術室までのローカの様子や手術室の内部も落ち着いて見渡すことが出来た。手術室と言っても何部屋もあり、「私は、どの部屋かなぁー」などを想像しながら、なされるままに向かった。

いよいよ入室完了。所定の場所へベッドを移動してもらい、手術が始まろうとしていた。主治医のワイルド先生の顔もよく見える「先生、今日はよろしくお願いします。期待していますので」前回のブロック注射のミスの思いも込めて、あえて「期待しています。「」と付け加えた。ワイルド先生も苦笑いで答えた。

これまでのガンでの麻酔は、何時も注射であったが、今回は初めて酸素吸入器のようなものを口と鼻を覆うようにかぶせての麻酔のようだ。これなら注射より痛みも無く、ありがたい

「さぁーいよいよか」と。その瞬間に事件は起きた。何という事かこんな大事な瞬間に少しだけ意識も薄らぎかけていた私だが、見逃すことは無かった。「先生、ストーマから尿が漏れています」「えぇー 本当だ。直ぐに泌尿器科のストーマ外来の看護師を呼んで。交換します」と、ここまでは聞くことが出来たが、その後は麻酔の効果もあり、私の意識も無くなってしまった為に、ストーマの交換の事は知る由もない。

おそらくは、その後ストーマの交換をして、手術が行われたと思われる。流石にワイルド先生、何かが起きるワッハハ時間は分からないが、手術も無事に終わり、手術室で既に麻酔も切れかかり、ワイルド先生から切除した軟骨の現物を「みてみますか」「ハイ、お願いします」血にまみれた白い軟骨を見せてもらった。生々しいものだが、思っていたより小さくてビックリしたのを思い出す。「こんなに小さい骨で、あれだけの激痛ですか」ワイルド先生は「大きい方ですよ。これが神経に刺さって刺激していたのです」と。この時点では、痛みが無くなったかは分からなかったが、ホットした瞬間だった。

病室に戻り、時計を見ると丁度3時間の手術であった事を確認した。早速に妻にも連絡を入れると、既に看護師さんから手術の終わった説明を受けていたらしく、大変喜んでくれた。「お父さん、また、あんたの好きな仕事を頑張れるなぁ」と。「そっちかえ」と苦笑い。

夕食も届いた。「ヤレヤレ終わった。」確かにこれまでの痛みは感じない。以前の日常と変わらないような気がした。ただ、手術の傷はやはり痛む。背中側の腰を切っているので仰向けで寝る事は難しい。ましてや、背中の切り傷より、血抜き用と痛み止めの管が二本繋がれているようだ。これも過去に何度も経験済み。大した事では無い。食事制限も当然解除され自由だ。流石にワイルド先生「やる時には、やるな」感謝、感謝である。

術後とあって、看護師さんの見回り回数も増え「大丈夫ですかお変わりないですか」と。この日より、血圧測定に加え、酸素濃度の検査も日々行われるようになった。「大丈夫、大丈夫ありがとう」と返した。

慣れているいるとは言え、今日は少し疲れた。痛みも無くなったので、久しぶりに「もう寝よう」時計を見ると21時前。「おやすみなさい」念願が叶った一日の終了。心配してくれた皆さん「ありがとう」

そして、手術の翌日10月2日、入院12日目。久しぶりに気持ちよく眠る事が出来、爽やかな朝を迎えた。昨日までの激痛が嘘のようだ。ワイルド先生「ありがとうありがとう」期待通りだ。

朝の看護師さんの見回りが始まり、何時ものように血圧測定と酸素濃度の測定を終えて「大丈夫です。異常なし」「もうすぐしたら先生が見えます」との事。数分後には、ワイルド先生が往診に来てくれた。「先生、ありがとうございました。お願いがあります。背中の管を取り外せませんか」「うぅー寝るのに不便ですね。取り外しますか」とあっさり了解してくれ、看護師さんを呼んで、「それでは管を抜きます。ついでに一か所抜糸もしておきます。少し痛いですが我慢してください」「えぇー もう抜糸ですか」「まだ一日も経っていないのに「」と少し驚いたが、「分かりました」と答えた。ワイルド先生の真骨頂だ。「傷口はガーゼを当てて、お覆って処置しておきますので、大丈夫です」との事。これで、繋がれているものは何もなく、自由に動くことが出来る。痛みも無い。

歩行器を使っての歩行訓練のリハビリも始まった。「あれ、何時もと何かが違う。なんだろう」何と右足に力が入らない。特には膝と足首だ。相当に筋力が落ちているのかも知れない。右足を引きずる様にして、歩行訓練を続ける。

リハビリの時間が終わってからも独自で、精力的にリハビリ運動を継続した。もう、テレビ君と友達になっている時間は無い。テレビ君とは決別した。歩行訓練や屈伸運動、など思いつく運動に明け暮れた。と言っても今日が初めてだが

看護師さんからも「一生懸命ですね」と労われ、調子に乗って元気な姿を見せた。そんな一日も日が暮れた。そういえば、この病院の裏には、大きな介護施設があり、うちの会社が昼食と夕食を配達しているはずだ。明日は手でも振ってみようと、その配達時間を見計らって、待つことにした。

「さぁて、今日も疲れた」検査も終了した21時「おやすみなさい」

10月3日、術後3日目、入院から13日が経とうとしていた。今日もリハビリしか仕事は無い。久しぶりに院内のリハビリ施設でリハビリを行う事になった。もう、移動にも歩行器は必要がなくなったので、自力で歩いて施設に向かった。多くの人がリハビリに励んでいる。 私も負けじと指導された工程をこなしていく。

午後にはワイルド先生の問診を受けた。「伊藤さんは、非常に順調に回復していますね。体感が強いですね」とお褒めの言葉。「先生、何時になったら退院できますか」と尋ねると「退院しますか」との事。

15時、今日は会社の配達車両を見ようと、外の道路の通行車両に気をつけていた。その時、我が社の配達車両が何時もの時間通りに、何事もなかったかのように通過していった。帰りも見届けようと目を見張った。同じように通り過ぎて行ったが、私の身振り手振りには気が付いていないようだ。早速に病室から運転手の携帯に電話を掛けたが、既に通り過ぎてからの事で、後の祭り。私の病室は6階で、窓は危険防止のために全開しないようになっているので、気が付かなかったのだろう。しかし、無事でなにより。「お疲れ様「」

日も明けて、10月4日 術後4日目、入院から14日目の朝を迎えた。相変わらず痛みは無い。ただし、手術の木津跡の痛みは相応に感じるが、我慢出来る許容範囲の事。相変わらず元気に過ごしている。リハビリも精力的にこなしているが、どうしても右足に力が入らず、右足をかばうようにしか歩けない。

主治医のワイルド先生の問診が始まった。元気に見せようと少し無理をして、3メートルくらい駆け足をして見せた。「先生、こんな感じで日常も気を付ければ大丈夫です」と虚勢を張って見せた。すると「伊藤さん、元気そうなので明日5日の午前中に退院しましょう」と事。いかにもワイルド先生の言いそうな事だ。

あごひげを生やした気さくな見るからにワイルドな主治医であったが、親しみやすく話しやすい。聞くと京都大学医学部の出身で、生まれ育ちは香川県の高松だと聞いた。私も何度か仕事や旅行で訪れていた場所で、特には多度津には学生時代の合宿でよく訪ねた場所である。カトキチの本社もある。どんどんと話が弾み、兄のクルーザーでの話、小豆島の話、など花が咲いた。私は三流の大学だが、徳島や高松にも知り合いは多く、長話になってしまった。良い思い出になるだろう。

妻や子供たちにも連絡を入れた。皆そろって「大丈夫」とあきれられた。「大丈夫OK ありがとう」と答えた。少し見栄を張ったような気もしたが、大事な仕事も抱えていたので、「早く出社しなくては「」との思いもあった。会社も重要な時を過ごしていたからだ。

いざ退院となると少し寂しい気もするが、皆さんに親切にしていただいて感謝している。あの恐怖の激痛から19日が経過しようとしていた。今となっては、何なのだったかと思うような日々であった。

夜も更けてきた。明日の退院の準備も済ませて、検診も終了した。21時「おやすみなさい」

10月5日 術後5日 入院15日目の朝を迎えた。昨夜もぐっすに眠れた。いよいよ退院の日だ。何時もより早く目が覚めた。6時前だった。

9時には請求書と次回の受信日の書類を受け取った。迎えの妻も到着し、いよいよ退院だ。ナースステーションに挨拶に伺い、感謝を伝えた。「お世話になりました、一時は要注意患者に認定されましたがお陰様で元気に退院する事になりました。ありがとうございました」と。「伊藤さん、嫌味かと苦笑いされ、お大事に」と笑顔で送り出された。

早速に清算を済ませ、妻の車に乗り込んだ。来たときは激痛で、後部座席を倒して寝転び、ストレッチャーで運び込まれたが、15日目にしてようやく助手席に乗り込む事が出来るまでに回復した。会社は、病院から10分とかからない。早速に会社に直行してもらい、大勢の社員に感謝を伝えた。「皆さん、ありがとう」

入院前の状態を知っている社員はビックリして、「専務、大丈夫ですか」と口おそろえて驚いている。「本当にあの時はビックしました」と。「何事が起きたのか心配しました」との事。「申し訳ない」

普段の日常は、長男が後継者として社長業をしていてくれるので、私は昼行燈の生活を楽しんでいるのだが、この春より同業他社の吸収合併を計画していて、経験の浅い長男より、白髪の本数が勝る私が担当する事にしたために、少し忙しい日々を送っていた。9月1日より10人の新規雇用を行い、社員数も26人となった。事業承継の真っ最中の入院であったために、事を知らない業者や銀行等から、仕事の電話が入院中にも関わらず、何度もかかってきた。しかし、大事には至らずにスムーズに事業を引き継いでくれている。過去の入院も経験し、今回の入院でイレギュラーに仕事でない限り、通常業務であれば私も必要がなくなったと感じた。ありがたいことである。今後も安心して入院する事が出来そうである。

この闘病日記を書く前に「人生色々とありますね」と綴った所だったが、バチが当たったのか、その直後に自分自身が闘病日記を綴る事になろうとは、何とも皮肉な結果となってしまった。

還暦の60歳からは、膀胱ガンに始まり、前立腺ガン、悪性胸膜中脾腫と三か所にガンを患い、生体検査、そして、今回は椎間板ヘルニアと合計5回の手術と10数回の抗がん剤治療。其の度に入退院を繰り返してきた。繰り返してきたと書いたが、まだ死んだ訳ではないので、今後も病には苦しめられる事は想像出来る。

何度も書いたが、今回の入院は、ガンとは違い命の不安や死の恐怖は、まったく無かったので、ただ痛い激痛だけ我慢すればとの思いはあった。手術して取り除けば、痛みは取れると確信していたが、ガンの場合はそうはいかない。色々な病や感染症の怖さもあるが、やはりガンの怖さだけは格別だ。とつくづく思った。決してコロナを軽視している訳では無い。ガンの体験者として、定期検診を進めているだけである。「早期発見、早期治療」の勧めである。

今回の病で、ワイルド先生からも過去のカルテを見て「よく生きていますね。と毒舌を言われる始末」勿論、親しさゆえの冗談だが、「なかなかワイルドな手術痕ですね」とも・・・・面白い先生だ。

私も自分の体だが、これだけの頻度になると、流石に持て余してしまう。「さぁー次は何が襲ってくるのか」本当に「参った参った」傷だらけの人生となってしまったが、落ち込んでいる訳では無い。むしろ、これらの病に打ち勝って今がある事の喜びに慕っていると言う訳である。

仕事を済ませて、妻に迎えの要請をした。快く二つ返事で応じてくれた。久しぶりのわが家への帰宅だ。「義母も心配してくれている。元気な姿を見せなければ」そんな思いに馳せながら帰途へ着いた。車中での二人の会話も進む。自宅まで約20分。到着すると想像通り義母が心配そうに迎え入れてくれた。「帰りました」「ご苦労様でした。大変でしたね。大丈夫ですか。」など、案じてくれている様子がよくわかる。義母も90歳。決して若いとは言えないが、自分の事は自分で出来る。新聞も全面読み、テレビも見る。痴呆もなく、年なりではあるが、私よりよほど元気だ。

入院時の話を交えて、会話も進む。すると突然に義母が「これわ僅かですが、何か美味しいものでも」とお見舞金を準備していてくれた。私は素直に受け取り感謝を伝えた。難聴で障害者なので、どこまで理解しているかは分からないが、理解はしているようだ。義母も当然に年金生活だが、同居しているので生活に困る事は無い。

そんな中、隣に住む長男家族がやってきた「じいさん大丈夫」と孫の長女が言うと、同じように三番目のチビの長男も「じいしゃん、だいじしょふ」と駆け寄ってくる。お見舞いのおやつを分けてやると、「ありがとう」と言って、ささくれと帰ってしまった。長男の嫁にも世話になった。運動をしているせいか力も強く、よく抱きかかえてもらった。

家族や兄弟、子供たち家族が目と鼻の先に居る心強さは、何物にも代えがたい私の宝物だ。甥や姪も直ぐ近くに住んでいる。何が起きても大丈夫。ただし、お世話になるばかりですがね・・・・

夜も更けて、久しぶりにわが家の風呂に入り、くつろいだと思いきや妻が「今日は、ストーマの交換をするでぇ」ときた。病院での失敗を案じていてくれたのだ。やはり妻に交換してもらうと安心感が違うし、5年間と言う実績もある。早速お願いをして交換してもらったのだが、前回が手術前の9月30日だった事もあり、少し汚れて外れそうにもなっていた。流石に妻の感は鋭い。これで今晩は安心して休める事になりそうだ。病院の生活に慣れているせいか、21時には眠たくなってきた。こうして家を離れてから約20日間。ようやく平穏な日々が今後も訪れそうだ。

何時もの朝が来た。妻の運転する車に乗り込み、いざ出勤へ「行ってきまーす」

私のブログは、病気の話ばかりで、面白くないと思いますが、そんなタイトルを選んで、体験談を綴っています。懲りずにご愛読いただければ幸いです。

本日を持ちまして、この度の闘病日記は、「お開き、お開き「」とさせていただきます。ありがとうございました。

皆さんもお体をご自愛いただき、穏やかな日々をお過ごしくださいねお大事に

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闘病日記 (8) 入院生活

2021年10月20日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

ようこそ

28日、入院8日目の朝を迎えた。何時もの朝を迎えたが、右足に昨日までとは違う痛みが出始めた。 痛み止めの薬やとんぷん薬を看護師さんにお願いして、服用したが治まる気配は無く、以前ほどではないが、痛みが続く。

夕方の主治医の検診が始まり、この痛みを伝えると「少しブロック注射の効果が薄れてきたかも知れませね」との事で、効果の様子見で一回目のブロック注射での治療を受けたが、「やはり症状が酷いので、予定通り1日に手術をしましょう」との事。「ぜひ手術でお願いします」と返すと、「伊藤さんは手術が好きですね」私も手術が好きではない。手術の好きな人などいるはずもないと思いながら、「この痛みには耐えられません」と答えた。

夜も更け、29日の入院9日目の朝を迎えた。入院後もやはり夜中に痛みから何度も目が覚めて、熟睡感はなく常にボッートしている。今日は、ストーマの交換日だが、泌尿器科の看護師さんが手当てに当たってくれた。覚えていてくれたのか「伊藤さんは、以前にストーマ外来で勉強されていましたね」「私が担当しました」ありがたいねぇこれで今日は安心して交換が出来る。

聞くと、「今 使っているストーマは、腸に当たる部分の穴が大きい為に、お腹が炎症を起こしています。「測り直して、適正な物に交換しましょう」との事だ。整形外科の看護師さんも勉強のために、じっと見守りノートに記入している。こうして無事に交換も終了した。

午後には、妻からの差し入れが届いた。面会者は入室禁止なので、2Fの係りの人に依頼して、部屋まで運んでくれる仕組になっている。「伊藤さんは、何時も大量のおやつが入っていますね。重たいです」と嫌味を言われる始末。

そして、30日の入院10目を迎えた。今日は妻の面会が許されてる日。結婚して41年、10日間も顔を見ない日は無かったので、子供のように朝からウキウキしていた。一杯のおやつを持って、何時もの顔がやってきた。「久しぶりだなぁ」と言うと「大丈夫か」何とも愛想の無い第一声だが、心配してくれているのが良くわかる。たわいもない話をしていると主治医の先生や麻酔科の先生が、明日の手術の説明に見えた。「やっと、この日が来たか」と嬉しく安堵した。妻と二人で説明を聞き、「約3時間の手術ですが、伊藤さんは大きな手術を何度も経験しているので、大丈夫ですね」と言われ「ハイ、何度も経験していますので、怖くは無いのですが、痛みは取れますか」「大丈夫です。大きく軟骨が飛び出ていて、神経に刺さっています。この手術は飛び出しが大きいほど、取り除きやすいです」と何とも頼もしいお言葉「今晩からは、21時より絶食で、明日9時からは飲み物も禁止です。」との説明を二人で聞いた。

本当は、面会も1時間ほどと決められていたが、結局は5時間ほどの滞在をして、夕方には妻も帰宅した。明日の手術は立ち会うことは出来ずに、総合の待合室で待機する事となった。「終わったら携帯に連絡します」との事だ。

いよいよ明日は待ちに待った手術日。怖さより嬉しさの方が勝っている。「やっと、この痛みから解放される」と思うと嬉しくて嬉しくてそんな心境である。

夕食後に明日の手術を控えて、ストーマの交換をする事になった。研修をしてもらった整形外科の看護師さんが交換してくれた。「ありがとう」ここまでは良かったのだが、手術の直前にハプニングが起きる事になる。

皆さんお大事にお過ごしくださいね

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闘病日記 (7) 入院生活

2021年10月19日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

ようこそ

23日、入院生活も三日目の朝を迎えた。朝6時30分、看護師さんの定期見回りが始まった。カーテンをあけてもらい、血圧測定を行った。私は、高血圧の持病があるので、常時薬を服用していたのだが、入院してからは血圧が低く、上が100にも満たない。看護師さんから「少し血圧が低いですねぇ」と言われる始末。「薬の服用をやめましょうか?」と尋ねると、「かかりつけ医の先生と相談してください」「との事で、服用は継続する事になった。

リハビリ治療も始まり、ベットの上ではあるが、足の屈伸運動やもみほぐしのリハビリを受けた。痛み止めの薬を服用しているとは言え、自宅待機の時のような激痛は、心持ち少なくなった様な気がする。

コロナの関係で面会者も無く、テレビだけが友達だ。少しだが、以前に経験したように、入院生活にも慣れてきた。歩行器を使って、少し動いてみようと言う意欲も湧いてきた。やはり起き上がると激痛が走る。何度か挑戦して、ようやく立ち上がって、数歩ではあるが久しぶりに立ち上がる事が出来た。大きな喜びだ

そんな時に看護師さんが入室して来て、大変叱られた。「伊藤さんは、リハビリの先生から、起き上がる時はナースコールを押すように言われているでしょう」「転んで骨折したらどうするの」その通り、確かに言われていたが、「このくらいは「大丈夫だろう」思って押さなかった。その後も何度か見つかってしまい、「要注意患者」にされてしまった。押したく無い訳ではでは無いが、看護師さんも忙しいと思い、遠慮していただけなのだが・・・・

夕食の時間を迎えた頃に、主治医の先生が来て、「明日、ブロック注射を打ちます」との事。やれやれ本格的な治療が開始されると大いに喜んだ。

翌朝の24日、入院生活4日目。朝一番に看護師さんから、「これからブロック注射に行きます」とベットの移動が始まった。行った先は、レントゲン室。画像を見ながら注射針の長い針(数十センチ)を痛むところを刺し当て、そこに注射をするとの事。「ビリッときたら知らせてください」との事で「そのビリッを恐々待ったが、ビリッとこない。」左の腰に刺さっているように感じたので、「先生、痛いのは右足ですが・・・」「あっ、間違えまえした。でも害はありませんので大丈夫です」との事で、やり直しとなった。なかなかワイルドな先生だ。私も親しく話をしていたので、腹立たしい感情は無く、苦笑いをして返した。この長い針を使って、画像を見ながら患部を探し当てるので、刺しては抜いてを繰り返し患部を探すのだ。

いよいよ本当の本番が来た。長い注射針を腰から刺して、右足の太股当たりまで差し込んで行く。一瞬体が反応した。「痛っ」強烈な痛みだ。「ここですね。ここに注射します」わずか十数秒でブロック注射も終了した。私は大きな期待をして、またベットのまま自室に連れて帰ってもらった。何時も思うのだが、外来受診は待ち時間があるが、入院患者は優先されるのか、待ち時間は無く即治療である。事前に時間調整をしていただいているのだろうが、ガンの入院時もそんだったが、待ち時間は無い。

午後からは、少し効果が表れ始め、当初の痛みが和らいだように感じる。そうなると、寝ている場合ではないと思い、また、歩行器で歩行のリハビリを開始した。もちろん室内の範囲の歩行だが。ところが、また看護師さんに見つかり、大目玉をくらう。「伊藤さんは、要注意患者に指定されていますので、絶対一人で動かないように」強烈な注意「数歩くらいなら動けるので、付き添いを解除してください」と言うと、「リハビリの先生からの指示が無いと、看護師では解除出来ません」との事。私も規則を無視している訳では無く、些細な事でわざわざ看護師さんに付き添ってもらうのが、気の毒に思って親切のつもりの事なのに。その後は、些細な事でもナースコールで呼び出し、付き添ってもらったが、やはり気が重い。

リハビリの時間が来た。「今日は、歩行器さえあれば、歩行も大丈夫です」と伝え、初めて室外のローカを歩行する事が認められ、10分くらいの歩行訓練であったが、「先生、この様に歩けますので、看護師さんの付き添いを解除してください。」とお願いした。「分かりました。解除しておきます」との事で解除となった。

その後は、室内だけではあるが、自分なりのリハビリに勤しんだが、足に力が入らない。ひざも足首も普段とは明らかに違う感覚だ。

今日は、入院してから二度目のストーマの交換日。私は、膀胱ガンにより、膀胱を全摘している関係で、尿路変更をしていて、お腹にには梅干しのような、腸を使った尿路が出ている。そこにストーマと言う袋をかぶせて尿を貯めるのであるが、尿意も感じないし排出する事も出来ないので、垂れ流しで袋にためているのだ。普段の生活では、飲み物の量にもよるが、約3時間は大丈夫で一杯になるとトイレで排出している。但し、コーヒーは排出時間も短く貯めておける時間も短くなるので、要注意だ。夜寝るときは、起きなくてもよいように、この袋にホースを延長して、24時間用の袋を付けて眠ると朝まで起きる必要はない。これらの交換や日々の接続は妻が行ってくれているので、感謝感謝であるが、ここは病院であるので、そうはいかない

ましてや、この病室のフロアーは、整形外科病棟である。看護師さんも手順を知らない人ばかりで、一回目の交換も直ぐに外れてしまい、二回目も外れたので、ナースコールの連続である。三回目は、自分でやってみようと一度剥がして、一からやり直して、準備が整ってからナースコールを押して、最後に張り付けだけお願いし、あとは自分で交換した。これが成功して、以来はずれる事は無かったが、妻の有難味がよく分かった場面であった。ちなみに、その後は泌尿器科の看護師さんが来て、交換してくれる事になった。

そんな日々が続き、28日を迎えようとしていた。

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闘病日記 (6) 検査、治療へ

2021年10月18日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

ようこそ

22日朝、安心したのか2時間ごとに目は覚めたが、久しぶりに寝たような気がした。夜中には、何度も目が覚めたが、看護士さんの見回りも、大きな安心感を覚える。

6時30分、看護士さんの定期の見回りが始まり、カーテンを開けてもらって、何時もの血圧検査が始まった。何時もは高血圧の為にかかり付け医の常備薬を服用しているのだが、この日は上が95で下が68と血圧が低い。結果的には退院するまで、血圧は上がることは無く、後日にかかり付け医に相談することになる。

病室は6Fの661号室。今日は、心電図と肺圧の検査とレントゲン撮影を受ける予定になっている。これらもベットに横たわったままでの移動で、激痛は感じることなく検査を受ける事が出来た。特に問題は無いように聞いた。

血管が詰まらないように、左右の足に特殊な靴下をはき、血栓の予防に備える事になった。看護士さんの定期的な見回りで、安心して過ごすことが出来た。

勿論、根本的な治療は行っていないので、症状としては改善している訳ではないが、とんふく薬や痛み止めの薬を飲みながらの手術までの時間稼ぎだ。美味しいとまでは言えないが、3食ともに時間には運ばれてくるが、起き上がって食事が出来ないために、汁ものは除いてもらた。そして、下痢をするので牛乳も変更してもらった。何ともややこしい患者である。

面会は出来ないが、必要なものは2Fの受付に申し込めば、妻が届けてくれて、看護士さんが部屋まで運んでくれる。病院内のコンビニに行くことが出来ないので、毎日 妻に差し入れをお願いして、届けていただいている。

今日は、飲料、上履き、お菓子、シャンプー、を届けてもらった。早速に洗髪を看護士さんが行ってくれるというので、ベットに横たわったまま移動。体を頭側に少しずらし、寝たままの状態で先発をしてもらった。見事な手さばきである。久しぶりの洗髪だったので、本当に気持ちも晴れ晴れ何と幸せなことか

歩行器も貸してもらったが、流石に無理があり、諦めたが何時かは歩行器で一人で歩いてみたい。

こんな一日で、夜9時 看護士さんの見回りも終わり「消灯しますよ」不安はあるが、ここには強い味方がある。それは、「ナースコールボタン」である。私も過去にも経験はあるが、患者にとっては命綱のようなものである。

それでは、「おやすみなさい「」入院二日目の夜は深けた

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闘病日記 (5) いよいよ入院へ

2021年10月16日 | 冊子(人生晴れたり曇ったり)

ようこそ

激痛は続いているが、待ちに待った5日目の21日。いよいよ診察の当日を迎えた。本当に辛くて長い長い4日間であったが、ようやく診察をしてもらえる。激痛も忘れるくらいの喜びであった。

結局はこの日も寝付く事は出来なかったが、それも過去の事だ診察の事もあるが、久しぶりに便意をもよおしたので、妻にオマルのようなものを準備してもらい、寝たままで少しだが排便もして、準備を整えた。

9時15分には、長女と次男がクリニックへの移動の手助けに来てくれた。すると隣に住む弟も駆けつけてくれ、一緒に車に抱きかかえて運んでくれた。弟も、それどころでは事が起きている最中の事。「ありがとう」。その間も激痛が走り、休み休みの移動で、わずか10メートルの移動に15分くらいもかかってしまったが、結局は一人で抱えて、おぶってもらう方が痛みが少なく、次男にお願いをした。次男は体も大きく力も強い。あらかじめ準備していた妻の軽のワンボックスの後席をたおして、寝たまま移動する事になっていた。ようやく車に担ぎ込まれて、次男の運転で休めなかった長男を迎えに会社に向かった。妻と長女は長女の車で後追いをしてくれている。

移動の間も車が揺れると激痛が走る。後続の車の方には、ご迷惑をかけて申し訳なく思っているが、スピードダウンでようやく会社に到着。長男も待ち構えていていてくれ、妻と子供3人で会社の近くの整形外科クリニックに向かった。

クリニックの駐車場からは、車いすを準備してもらったが、痛くて、痛くてたまらない。待合室の床に寝そべって待機したが、結局は妻と長女の二人が診察室に呼ばれて、病状の説明を聞いてくれた。私の様子を見て診察も無理と判断されたようで、紹介状を預かり、豊岡病院へと向かう事になった。その間も多くの看護士さんの手助けを受けて感謝している。其の内の一人が、長男の嫁の従妹さんだ。ありがたい事であるが、痛みが治まったわけではない。

豊岡病院に到着すると、長男が病院と交渉してくれて、ストレッチャーを借りてきてくれた。車に横づけにしたストレッチャーへは、長男と次男で移動させてくれて、痛いながらもスムーズに移動する事が出来た。妻も子供たちも心配そうに見守っていてくれる。「何と心強い事か」

豊岡病院の整形外科の待合室で待つことに。いよいよ私の順番が来たようだ。既にクリニックからの要請が届いているのか、比較的早くに順番が回ってきた。ストレッチャーから病院の移動式のベットに移り、診察を受けた。この時は妻と子供3人が一緒に病状説明を聞いてくれた。主治医の先生から「手術をしますかしませんか」との問いがあり、私は即座に「手術でお願いします」と答えた。先生から「えっ手術ですか」「ハイ、手術でお願いします」と答えると、少々驚かれていたようだ。普通は手術では無い方法の治療を選択されるようだ。なかなかワイルドな先生のように見受けられたが、親しみやすそうな先生である。「手術は怖くないですか」と言われたので、「ハイ、何度も経験していますので、怖くはないです。とにかくこの痛みを取ってほしいです」と答えると、過去の治療のカルテの病歴を見て、「すごい病歴で、すごい手術の経験をされていますね。これらに比べると些細な手術です」と苦笑いをされた。

MRIのデーターが足りずに、緊急に撮影する事になり、尿検査、血液検査、PCR検査を受けて、再度診察室へ。その間の移動も検査も全てベットに寝たきりで非常に助かった。

結局、私の入院のお願いまでに、即 入院と決まり個室の病室へ案内された。書類は妻と長女が代筆してくれて、助かったが、子供たち3人はここまでで、コロナの関係から病室までは入れないそうだ。妻だけは、面会者のカードを受け取り病室まで付き添ってくれた。子供たち3人に「ありがとう。もう大丈夫だ」と言うと、長女から「お父さん、それが一番心配。あんたは危険人物だから、静かに看護士さんの言うことを聞いて、おとなしくね」と嫌味を言われる始末だが、本当に子どもたちが、近くにいてくれて助かった。感謝、感謝である。

しかし、喜んでばかりは居られない。手術室が予約で一杯で、10月1日の手術と決まった。まだ、10日間もの時間が必要だ。しかし、入院3日目には、「とりあえずブロック注射を打ちますので、痛みは和らぐと思います「」との事で期待をした。

痛みは相変わらずだが、痛み止めの薬も服用して、何となく和らいだような気もする。病院に入院していると言う安心感からかも知れない。これで激痛が襲っても、心強いナースコールがある。何より定期的に様子を見に来て貰えるだけでも安心感がある。

妻の顔にも安堵の表情が見て取れる。5日間も眠れずに不安な日々を共に過ごしてくれた事に感謝している。妻も安堵だが、私も妻を案じる事から解放される。待ちに待った瞬間だ。「あぁ、長かったなぁ」コロナの関係で、次の面会は来週の木曜日らしい。病室のフロアごとに、面会の曜日が決められているようだ。火曜日に入院したが、先週の水曜日に西宮市の兵庫医科大学病院へ定期検査に行っていた関係で、2週間の隔離となるようだ。同じ兵庫県だが、京阪神地区での行動は、そのような決まりになっているようだ。

夕方には、妻をベットから見送って、感謝を伝えた。次に会えるのは10日後だ。ありがとう

入院も手術も慣れている。安心からか眠たくなってきた。「あぁ、辛かったが、やっと安心した場所にたどり着けた」

皆さん、ありがとうございました。

では又ね

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