第12章
生体検査で3回目の手術
楽しかった正月は終わったが、肺の腫瘍の検査は続き、今以って病名は特定されていない。
平成27年10月の肺の腫瘍らしき告知から、すでに10か月が経過した平成28年6月に、病名を確定させる為に、肺の一部を切り取っての生体検査の手術が決断され、報告と説明を受けた。右の脇腹を約30センチ切り裂き、肺の一部を切り取っての生体検査と聞かされた。約1年と少しの間に3回目の入院と3回目の手術である。さすがにこの頃は精神的にも疲れ果てていたが、3回目の手術は6月3日に入院して6月7日の手術と決まり「「断腸の思い」で手術に挑んだ。毎度の事ながら家内と兄に見送られ、手術室へと向かい、約4時間の手術を無事に終え再会を喜んだ。
今回の手術は治療では無く、検査の為の手術で約15日間の入院を余儀なくされたが、この間も毎日、家内と兄が付き添い見守ってくれる。
そして退院後の6月27日、心臓血管外科の平野主治医より生体検査の結果の報告を受けた。
肺の腫瘍が見つかって、10か月もの時間が経ったのは腫瘍に変化が無く、大きくも小さくも成らなかった為に、レントゲンによる検査が続いたのだが、その事が時間のかかった大きな要因でもあった。
第13章
最悪の事態に
外来受診の9時30分からの結果の報告は、無情にもガンの病の中でも最悪の「悪性中皮腫」との宣告を受けた。
「風前の灯火」である。
このガンの生存率は極めて低く、地域の拠点病院でドクターヘリやドクターカーを常備し、病床が600床も有る公立豊岡総合病院にしても、年間に一人有るか無いかの発症例の少ない悪性ガンで有る事が判明した。
過去には、手遅れで緩和ケーアの実績は何度かあるが、手術治療の実績は無いと言う。
説明を聞いてもパソコンを見ても、明らかに死亡率は高く、生存の可能性は極めて少ない。
家内の顔が歪み苦悩も頂点に達し、正月の不安が的中する結果となってしまい、大きな壁が立ちはだかった。
最悪の結果の報告を聞き、いよいよ死を覚悟しなければならない崖渕に立たされて、お互い無言の中での帰宅となった。
考えてみると私は、たまたま膀胱ガンの術後の精密検査で判明したが、それが無かったら今でも普通に生活していて、何の症状も見当たらないほど、発見の難しい難病であるらしい事も分かった。
数十年前に建築材料として使っていたアスベストが原因の「悪性中皮腫」は、その後に大きな訴訟問題が尼崎で起き、国が敗訴して社会問題に発展した事でも有名な難病である。
発病に40年掛かると言われ、それを考えると私は10代後半から20代前半に発生した事になるが、当時その様な環境での生活は思い出せない。
その後の2か月間、私は人と話す事も出来なくなり、電話にもメールにも対応出来ず「うつ病」を患って精神科を数度受診する事になる。
明けても暮れても寝ていても、考える事は「死の恐怖」「余命」の事ばかりである。5分として、落ち着いて座って居る事が出来ずに、放心状態でうろたえる日々が続いた。「これからどうしよう? 」「残される家内や義母の事」「新たに始めた会社の事」など、不安は募るばかりで不眠が続く。
この状況を脱する事が出来たのは、「頑張らない事」「他人を悪者にして、愚痴を言わない事」「欲を持たずに成り行きに任せる事」「現状に満足する事」などの思いを持つ事が出来たからだと回想する。
特には「欲を捨てて、無欲で生きる」欲を持たなければ失敗や喪失感や期待感も無く、素直に生きられる事を学んだのが大きかった。
以来、うつ病からは解放され恐れるものも無くなり、多少の不安や苦悩は有ったが、大きく動揺し落ち込む事は無くなった。
この事は、今後行われる大手術にも大きく貢献する事になり、社内行事の城崎マリンワールドの見学やボーリング大会にも参加し、プーレーは出来ないが、社員の楽しそうな笑顔に心も救われた。
「城崎マリンワールド招待会で」
「ユラクボーリング大会にて」
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次号第14章もご覧ください。
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