梅香のつれづれ日記

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今井町で旧い3重環濠遺跡が発掘された パートⅡ

2014-12-04 00:24:35 | 発掘、修復
11月28日、今井町の西側、春日神社の裏手で旧環濠の再度の発掘調査が行われていた
その結果の現地説明会が橿原市教育委員会によって行われた


前回、2011年11月30日の拙ブログ「今井町で旧い3重環濠遺跡が発掘された」で記載による発掘調査により見つかった3重堀の再発掘で、より精度な今井町の環濠の様子が判明した 

当日説明会で配布された資料を下記に掲載したが、




織田信長が侵攻してくる以前の今井町の防備の固さ、これをなしえた一向宗の団結心、財力の豊かさに驚かされる


遺跡断面はその後の信長との和睦条件の一つ、外堀を埋めるという事実も判明、徳川家康が大阪城の堀を埋めさせた史実と重ねあわせて、早い時期にすでに身近なところで同じ戦術を見られることができた

また、遺物の中に鉄砲の弾丸らしきものも2個見つかった


と遺跡から現在の状況までの経緯がかなりの精度でこれまでの資料や口伝を証明できたことか、






















今井町の堀は何度も掘り直しや、岸の修復が繰り返され、町の人たちによって共働管理していた様子がうかがえる  そして管理の行き届いていた時代には遺物が少なく、江戸時代後期から町の衰退と同じくして投棄残骸物が多くなっていく事実は、現在町を守る我々にとっても厳しい教訓に思えた

この場所は行政の指導により、今井町を観光の重要な拠点にしようとする一つとして交通広場を計画しているところで、そのための発掘調査で見つかった3重堀の再調査であり、江戸期の新堀までの復元は約束してくれているが、今回新たに判明した織田信長侵攻時に既に存在していたもっとも古い大規模な環濠跡は今回の調査でどこまで残してくれるのだろうか

環濠集落今井町の名がいろんなところで言われているのに、一部の復元しかできず、発掘調査ごとに埋め戻されてきたこれまでよりは、多少前進しているが、判明したものを最大限に残して、後世に実物を見せてあげるのが、中世の町並みを残す上で一番大事なことではないだろうか

現場説明会でも、橿原市伝統的建造物群保存地区保存審議会でも、今井町町並み保存住民審議会でも伝えてきたが、今井町の東側で卒川がなくなり、どこにでもある都市公園になってしまった前例のように今回も私が望む保存は夢、うたかたに終わるのだろうか
町案内で得意になって今井の先人たちの遺徳を説明できる宝物を残してほしい!



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