梅香のつれづれ日記

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当たり前になっていた歴史観念の改革!

2016-09-03 01:32:39 | 今井町町並み保存会

今井町は1530年代、一向宗の今井兵部が自坊を建立した時から始まり、1551年にはすでに堀をめぐらし、寺内町としての城塞化が整い始め、1566年になると、3千石余の知行を持つようになって、また今西家が実在しているのが記録されている

そして1570年、織田信長の本願寺攻めが始まると、今井町も呼応して織田信長の降伏勧告を拒絶し、明智光秀、筒井順慶軍に責められるが、今井宗久、津田宗及らの茶人の斡旋で和睦を成し、商いは安堵する

1592年には、今井兵部は大坂城、伏見桃山城の作事奉行を歴任という歴史事実もあり、1594年には、豊臣秀吉が秀次らとともに吉野の花見の途次、今井町で今井兵部が用意した茶屋屋敷に迎えられている

これらは室町時代後期から安土桃山時代にかけての出来事で、今井町の華やかな胎動期、隆盛期でこの栄華は明治維新の廃藩置県の頃まで続くのである

こうした歴史事実から見ても、今井町の一番エネルギッシュな時期は、大和今井を全面支配していた興福寺領の弾圧や、織田信長と立ち向かった頃で、この時期を忘れて今井町を語ることは出来ない

しかし、世間ではいつの間にか「環濠都市今井町」、「江戸時代の町並みが残る今井町」が通説になり、マスコミも、行政の広報も、今井町は江戸時代の代表的な町並みと表記するのが当たり前になっていた

私も今井町は「江戸時代の町並みが残る町」と何時のまにかそう言っていたのだが、1996年、「第1回今井町並み散歩」に1作家として書道展を開き、同じ会場に西条一斎(茶道具の蒔絵師)の茶道具を展示し、今井宗久の出身地だと意思表示したのが初めであった

でも、当時は根元の稱念寺さんの檀家さん(複数)からでさえ、「宗久なんて素性のわからんものを寺の縁者にするな」と苦情を言われたものである

今は今井町並み散歩の日にはお寺で今井宗久の供養の法要を営んでくれている

今井宗久を主役にした「茶行列」をイベントに立ち上げたのは、2002年「第7回今井町並み散歩」の時からで、今は周知になった今井宗久が織田信長や、当時の茶人仲間を引き連れて今井町に里帰りという物語を仕掛けて時代の深さを再認識していただき始めた

こうした歴史事実をはっきりと表面化させながら、室町後期にはすでに隆盛を極めていた町が、世間へのPRでは、未だに「江戸時代の今井町」ではおかしいのではないか、故郷を過小評価しているのではないかと訴えてきたが、定着してしまって「ロゴのように固定した観念」はくつがえすのが困難であった

時には市長にも直談判したし、観光課長や観光協会に直訴して困らせたりしたが、マスコミが江戸時代の町を風評化しているのと相まってなかなか改善してもらえなかった

前置きが長くなったが、今回、橿原市発行の今井町、八木町のパンフレットの改訂版を2016年7月から出してくれた

画面の大きいのが改訂版で、小さいのが旧版で、江戸時代の文字が改善されているのがよくわかる

このパンフレットが一番多用され、マスコミもよく引用しているので早い時期に室町時代から江戸時代までの長い間隆盛を誇ってきたという歴史観念がわかりやすくなっていくと思う

皆さんも今井町は室町時代から江戸時代までの長期間隆盛を誇っていた町だと再認識していただきPRしていただきたく、お願いいたします

 


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1 コメント

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奥が深い (りひと)
2017-01-28 11:58:53
なるほど、地元の人はさすがですね。
江戸よりももっと深く歴史を理解していらっしゃる。もっともっと知ってもらう活動の原動力になりますね。
今井町は、まだまだ奥が深いように思っていますよ。聖徳太子から藤原京の頃はもっと東が注目されていそうですけど多分その時代にはその時代にの主流勢力から独立していた地域密着勢力もいたとも思えるようにも。だったその後にそこが主流になっていくならば最初から狙われかねない場所的な優位性があったはずですから。

江戸じゃなく今井さんのお名前で全国へアピールしその後さらなる進化と掘り起こしを期待しております。柿本さんの神社が地図上で通路で出てきたのもあり柿はやっぱりキーワードになりそうです。東京では今年インフルエンザAが凄い強力でして、柿渋の活躍や生活への貢献が待たれています。

久々に覗いてみましたが、28日お不動さんの日でした。今後のご活躍応援しております。9745
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