宮澤賢治の里より

下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。

20 (9)種山(物見山)

2008年10月06日 | Weblog
 今回は「経埋ムベキ山」の一つ種山(物見山)の報告をする。

《1 種山ヶ原の嶺々》(平成20年5月30日撮影)
 水沢江刺駅付近からの種山の山並み遠望である。一番奥のうっすら見える山並みが種山ヶ原の嶺々である。


 宮沢賢治は童話『種山ヶ原』の出だしで
 種山ヶ原といふのは北上山地のまん中の高原で、青黒いつるつるの蛇紋岩や、硬い橄欖岩からできてゐます。
 高原のへりから、四方に出たいくつかの谷の底には、ほんの五六軒づつのがあります。
 春になると、北上の河谷のあちこちから、沢山の馬が連れて来られて、此のの人たちに預けられます。そして、上の野原に放されます。それも八月の末には、みんなめいめいの持主に戻ってしまふのです。なぜなら、九月には、もう原の草が枯れはじめ水霜が下りるのです。
 放牧される四月の間も、半分ぐらゐまでは原は霧や雲に鎖されます。実にこの高原の続きこそは、東の海の側からと、西の方からとの風や湿気のお定まりのぶっつかり場所でしたから、雲や雨や雷や霧は、いつでももうすぐ起って来るのでした。それですから、北上川の岸からこの高原の方へ行く旅人は、高原に近づくに従って、だんだんあちこちに雷神の碑を見るやうになります。その旅人と云っても、馬を扱ふ人の外は、薬屋か林務官、化石を探す学生、測量師など、ほんの僅かなものでした。
 今年も、もう空に、透き徹った秋の粉が一面散り渡るやうになりました。
 雲がちぎれ、風が吹き、夏の休みももう明日だけです。
 達二は、明後日から、また自分で作った小さな草鞋をはいて、二つの谷を越えて、学校へ行くのです。
 宿題もみんな済ましたし、蟹を捕ることも木炭を焼く遊びも、もうみんな厭きてゐました。達二は、家の前の檜によりかかって、考へました。
(あゝ。此の夏休み中で、一番面白かったのは、おぢいさんと一緒に上の原へ仔馬を連れに行ったのと、もう一つはどうしても剣舞だ。鶏の黒い尾を飾った頭巾をかぶり、あの昔からの赤い陣羽織を着た。それから硬い板を入れた袴をはき、脚絆や草鞋をきりっとむすんで、種山剣舞連と大きく書いた沢山の提灯に囲まれて、みんなと町へ踊りに行ったのだ。ダー、ダー、ダースコ、ダー、ダー。踊ったぞ、踊ったぞ。町のまっ赤な門火の中で、刀をぎらぎらやらかしたんだ。楢夫さんと一緒になった時などは、刀がほんたうにカチカチぶっつかった位だ。
  ・・・・・・    

   <『宮沢賢治全集 七』(筑摩書房)より>
と書き出して、まずは種山ヶ原の説明をしている。

 国道397号線をこの
《2 道の駅・種山ヶ原》(平成20年5月30日撮影)

を目指して車を走らせた。この道の駅の国道を挟んで真向かいにある
《3 種山ヶ原への登り口》(平成20年5月30日撮影)
 
を右側に登っていけば
《4 注意 熊出没》(平成20年5月30日撮影)

の看板が立ててあり、道路は封鎖されていて車はここからは進入禁止である。脇にはこんな案内図もあり
《5 種山ヶ原のイメージ》(平成20年5月30日撮影)

が掴める。車をここに停めて山道を登り始める。道沿いには早速
《6 チゴユリ》(平成20年5月30日撮影)


《7 ササバギンラン》(平成20年5月30日撮影)

が現れた。が、直ぐに舗装道路(管理車道)に出くわし、そこからはその道を登ることになる。それでも、道沿いには
《8 レンゲツツジ》(平成20年5月30日撮影)

《9 マムシグサ》(平成20年5月30日撮影)

《10 アマドコロ》(平成20年5月30日撮影)

《11 ウマノアシガタ》(平成20年5月30日撮影)

《12 ツボスミレ》(平成20年5月30日撮影)

《13 マイヅルソウ》(平成20年5月30日撮影)

《14 タチツボスミレ?》(平成20年5月30日撮影)

《15 コンロンソウ》(平成20年5月30日撮影)

などが咲いていた。そして、
《16 残酷なシーン》(平成20年5月30日撮影)

にも遭遇した。
 そうこうするうちに
《17 物見山への登山路》(平成20年5月30日撮影)

が現れた。舗装道路に別れを告げ、ここからは林の中のこの登山路を登ることになる。早速、いつも色の美しい
《18 ムラサキヤシオ》(平成20年5月30日撮影)

が現れた。続いて
《19 サラサドウダン》(平成20年5月30日撮影)


《20 タニウツギ》(平成20年5月30日撮影)

足元を見れば
《21 ムラサキサギゴケ》(平成20年5月30日撮影)

《22 タニギキョウ》(平成20年5月30日撮影)

《23 ミヤマスミレ?》(平成20年5月30日撮影)

《24 ハルザキヤマガラシ》(平成20年5月30日撮影)

が咲いていた。そして、こんな
《25 監視小屋》(平成20年5月30日撮影)

が現れ、その付近には
《26 ナナカマド》(平成20年5月30日撮影)

の花が咲いていた。直に、
《27 ブリューベルの広場》(平成20年5月30日撮影)

という小さい広場がある。最初にあった『種山ヶ原生活保全環境林案内図』によれば、この広場にはツリガネニンジンやリンドウが咲くらしい。
 やがて、
《28 ヤマナシの花?》(平成20年5月30日撮影)

だろうか、離れてみると
《29 その木の全体像》(平成20年5月30日撮影)

が写真の中央に見えるような木があった。また、この写真の右側に見えるがウワミズザクラであり
《30 ウワミズザクラの花》(平成20年5月30日撮影)

が咲いていた。
 さらに進むと、林の縁に
《31 ズダヤクシュ》(平成20年5月30日撮影)

が群生しており、その付近の登山路は
《32 サギゴケ》(平成20年5月30日撮影)

で覆われていた。やがて、
《33 姥石の標識》(平成20年5月30日撮影)

が立ててあり、頂上まであと1㎞だ。周りにはレンゲツツジがあちこちにある。そして、間もなく林が切れそうな
《34 明るい登山路》(平成20年5月30日撮影)

林の中の登山路が明るくなり、やがて
《35 広い草原》(平成20年5月30日撮影)

に出た。そこにはこの
《36 標識》(平成20年5月30日撮影)

も立てられており、物見山の頂上まであと400mと記されている。登山路の周りは一面アザレアだらけであり、この付近の登山路は
《37 アザリアの径》(平成20年5月30日撮影)

と云う名が付いている。賢治はレンゲツツジのことをアザリアと呼んでいたようで、そのことに因んでこの付近にはアザリアの名が冠せられているものが多い。
 間もなく最後の標識があり、ここからは一気に頂上への登りとなる。この付近はレンゲツツジも多いが、アズマギクも沢山咲いていて
《38 アズマギク越しのモナドノックス》(平成20年5月30日撮影) 

が見えてくる。
 早池峰山と同様、ここも北上高原の残丘(モナドノックス)の一つである。賢治が
「種山と種山ヶ原」のパート二で
   そしてこここそ高原の残丘(モナドノックス)
   種山の尖端である
   雨や炭酸風の試薬に溶け残り
   苔から白く装はれた
   巨きな二つの露岩である
   ・・・・・ 

と詠った
《39 2つの露岩》(平成20年5月30日撮影)

というのがこれであろうか。付近は
《40 アズマギクの群生》(平成20年5月30日撮影)

が見事であり、やがて
《41 物見山頂上》(平成20年5月30日撮影)

に達する。頂上にある
《42 一等三角点等》(平成20年5月30日撮影)

である。因みにこれが
《43 早池峰山眺望》(平成20年5月30日撮影)

で、写真の一番奥に見える山が早池峰山である。
 また、頂上にはこの様な一風変わった
《44 露岩》(平成20年5月30日撮影)

もある。頂上からの
《45 種山ヶ原の一風景》(平成20年5月30日撮影)

が望める。足元には
《46 オオヤマフスマ》(平成20年5月30日撮影)

《47 サクラスミレ》(平成20年5月30日撮影)

《48 ヒメスイバ?》(平成20年5月30日撮影)

があった。
 後は下りるだけであったが、途中で出会った
《49 クリンソウ》(平成20年5月30日撮影)

《50 オオバタネツケバナ》(平成20年5月30日撮影)

である。
《51 牛が草を喰んでいる風景》(平成20年5月30日撮影)

 牛がのんびりと草を喰んでいる風景を惜しみながら、子供の頃に教わった賢治の牧歌(「種山ヶ原の夜」の歌(三))
   種山ヶ原の 雲の中で刈った草は
    どごさが置いだが 忘れだ 雨ぁふる
   種山ヶ原の せ高の芒あざみ
    刈ってで置ぎわすれで雨ふる 雨ふる
   種山ヶ原の 霧の中で刈った草さ
    わすれ草も入ったが、忘れだ 雨ふる
         ・・・・・・・・・

を口ずさみながら帰途についた。

 なお、もちろん種山(870.6m)が「経埋ムベキ山」に選ばれることは誰も異存のないところであろう。

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