下根子桜時代の真実の宮澤賢治を知りたくて、賢治の周辺を彷徨う。
宮澤賢治の里より
53 (26) 毒ヶ森(その2)
”(26) 毒ヶ森(その1)”の続きである。
宮沢賢治は次の短歌
雲みだれ
薄明穹も落ちんとて
毒ヶ森よりあやしき聲あり
<『宮沢賢治全集 一』 公園二首 (筑摩書房)より>
で毒ヶ森を登場させている。
”公園二首”と添え書きがあるから、盛岡城跡公園あたりから毒ヶ森を望んで詠んだのでもあろうか。
因みに、盛岡(岩山展望台)から望んだ毒ヶ森は次のとおりで、その頂が真ん中にほんのちょこんと見える。
《1 夕暮れの中の毒ヶ森》(平成20年10月18日撮影)
さて、毒ヶ森に何とか登ることが出来たことに満足してあとは”矢巾西安庭線”南昌山5合目まで戻ることになる。
ただし、”#31プレート~林道出会い”間は往路を戻るだけだから報告は省略し、
《41 林道との出会い》(平成20年7月19日撮影)
から報告を開始する。
さて、林道は荒れ放題である。もちろん車など通った形跡など微塵もない。道沿いには
《1 ヤマブキショウマ》(平成20年7月19日撮影)
花が地味だから多分雌株だろう。
一方、このヒヨドリは色が濃いから
《2 サワヒヨドリ?》(平成20年7月19日撮影)
《3 〃 》(平成20年7月19日撮影)
なのだろうか。
振り返れば
《4 毒ヶ森》(平成20年7月19日撮影)
《5 進行方向の(かつては)林道》(平成20年7月19日撮影)
というわけで、林道とは云ってもかつての林道であり、いまは林道の体を為していない。草はぼうぼう道は荒れ放題である。まあ、その方が自然が戻るだろうからいいのかもしれないが、あちこちの山が林道でずたずたにされ、造った挙げ句ほったらかす。人間の身勝手さを恥じるだけだ。
道の脇には、ここでは花が咲いている
《6 ミヤマヤブタバコ》(平成20年7月19日撮影)
《7 〃の花》(平成20年7月19日撮影)
《8 アマニュウ》(平成20年7月19日撮影)
《9 〃 》(平成20年7月19日撮影)
だと思う。まるで打ち上げ花火のようだ。
《10 オカトラノオ》(平成20年7月19日撮影)
《11 〃 》(平成20年7月19日撮影)
道の両脇に何かいわれのありそうな
《12 でかい松》(平成20年7月19日撮影)
《13 〃》(平成20年7月19日撮影)
が数本あった。
《14 ウツボグサの花叢》(平成20年7月19日撮影)
もある。荒れ果てた林道には
《15 ヤマハギ》(平成20年7月19日撮影)
がもう咲いている。この花に出会うと、心なしか秋が近づいきているように思えてしまう。
《16 〃 》(平成20年7月19日撮影)
《17 ミゾソバ》(平成20年7月19日撮影)
《18 〃の花》(平成20年7月19日撮影)
《19 〃 》(平成20年7月19日撮影)
《20 ダイコンソウ》(平成20年7月19日撮影)
《21 〃の花》(平成20年7月19日撮影)
ここに至って、前に道がない、あるのは深い沢のみ。道が寸断されているのだ。
そういえば、春先に南昌山に行こうと思った際に通行止めに遭ったことがあるが、それは昨年の9月の集中豪雨で道路が土砂崩れ等を起こしたせいだった。そのときにこの道も寸断されたのだろうか。
深くえぐっている沢を横切ってなんとか再び道に戻れた。
《22 ヌスビトハギ》(平成20年7月19日撮影)
《23 〃の花》(平成20年7月19日撮影)
《24 〃 》(平成20年7月19日撮影)
《25 ヤマブキショウマ》(平成20年7月19日撮影)
ヤマブキショウマの雌株よりは花の咲き方が派手だから雄株だろうか。
道の脇に、遠くから見たときは”クガイソウ”かなと一瞬思った花が咲いていた。が、近づいてみると全く異なる
《26 フジウツギ》(平成20年7月19日撮影)
《27 〃 》(平成20年7月19日撮影)
《28 〃 》(平成20年7月19日撮影)
《29 マルバキンレイカ》(平成20年7月19日撮影)
《30 〃 》(平成20年7月19日撮影)
まもなく今日のスタート地点五合目に着きそうだと思ったときに大変なことに気がつく。目の前にテープが張られてあって、飛び越して振り返って見てみるとそこに書いてあるのは”通行禁止”という文字だったからだ。
スタート地点の五合目からこの道に入るのであれば気がつけるが、私の場合は逆コースだったからそのことに気がつけるはずはない。とはいっても、多少後ろめたさを感ぜざるを得なかった。
到着した地点には沢山の
《31 ヤマブキショウマ》(平成20年7月19日撮影)
が咲いていた。
これで南昌山~毒ヶ森の縦走は終わったのだが、近くの煙山に”水辺の里というところがあってそこに賢治の碑があるというので寄ってみた。
この煙山に関しては、
「煙山にエレッキのやなぎの木があるよ。」
藤原慶次郎がだしぬけに私に云いました。私たちがみんな教室に入って、机に座り、先生はまだ教員室寄っている間でした。尋常四年の二学期の初めの頃だったと思います。
で始まる賢治の作品『鳥をとるやなぎ』がある。
そして、この中に
権兵衛茶屋のわきから蕎麦ばたけや松林を通って、煙山の野原に出ましたら、
向うには毒ヶ森や南晶山が、たいへん暗くそびえ、その上を雲がぎらぎら光って、処々には竜の形の黒雲もあって、どんどん北の方へ飛び、野原はひっそりとして人も馬も居ず、草には穂が一杯に出ていました。
「どっちへ行こう。」
「さきに川原へ行って見ようよ。あそこには古い木がたくさんあるから。」
私たちはだんだん河の方へ行きました。
けむりのような草の穂をふんで、一生けん命急いだのです。
向うに毒ヶ森から出て来る小さな川の白い石原が見えて来ました。その川は、ふだんは水も大へんに少くて、大抵の処なら着物を脱がなくても渉れる位だったのですが、一ぺん水が出ると、まるで川幅が二十間位にもなって恐ろしく濁り、ごうごう流れるのでした。ですから川原は割合に広く、まっ白な砂利でできていて、処々にはひめははこぐさやすぎなやねむなどが生えていたのでしたが、少し上流の方には、川に添って大きな楊の木が、何本も何本もならんで立っていたのです。私たちはその上流の方の青い楊の木立を見ました。
とか
「他へ行ってみよう。野原のうちの、どこか外の処だよ。外へ行ってみよう。」私は云いました。慶次郎も黙って歩き出し私たちは河原から岸の草はらの方へ出ました。
それから毒ヶ森の麓の黒い松林の方へ向いて、きつねのしっぽのような茶いろの草の穂をふんで歩いていきました。
<『イーハトーボ農学校の春』(角川文庫)より>
のように毒ヶ森を登場させている。
もちろん、”処々には竜の形の黒雲も”とあるのは『南昌山の洞窟には水神・白竜(雨竜)が住んでおり、時折、毒気を出して雲を起こし、峰を覆った』という言い伝えを踏まえたものだろう。
また、藤原慶次郎は藤原健次郎をモデルにしていると思われる。この健次郎とは賢治が盛岡中学校に入学したとき寄宿した『自彊寮』で同室だった藤原健次郎のことである。健次郎は南昌山の麓の矢巾村不動の出身だったから、2人は週末には南昌山麓で一緒に「水晶」や「のろぎ石(ろう石)」などを拾ったり南昌山に登ったりしては、健次郎の家に泊まることも多かったようだ。
水辺の里というだけあって、小川が流れておりその川辺には
《32 サワグルミの木》(平成20年7月19日撮影)
がたわわに実を付けていた。
遊歩道を歩いて行くと
《33 宮沢賢治の標識》(平成20年7月19日撮影)
があり、そこにいわゆる
《34 「南昌山」歌碑》(平成20年7月19日撮影)
が建ててあった。歌碑の短歌は
まくろなる
石をくだけば
なほもさびし
夕日は落ちぬ
山の石原
毒ヶ森
南昌山の一つらは
ふとおどりたちて
わがぬかに來る
の二首であり、傍には、次のような説明がしてあった。
『宮澤賢治の歌碑について』
詩人、童話作家、科学者等色々な顔を持ち、農業指導者として農民の生活向上に半生を捧げた宮澤賢治(明治二十九年~昭和八年)は、盛岡中学、盛岡高等農林学校の学生時代に、霊山として知られる南昌山の神秘さと、その姿の美しさに魅せられ、度々この周辺を訪ね短歌、詩、童話の作品を遺している。
この一連の短歌は、大正四年、高等農林一年の時に当地を訪れ南昌山より流れ出た石原を調査した際に詠われた作品である。
ただし、残念ながらこの歌碑のある場所から”毒ヶ森 南昌山の一つらは”の一連は見えなかったが
《35 南昌山》(平成20年7月19日撮影)
だけは眼前にあった。
また、そこには
《36 キツリフネ》(平成20年7月19日撮影)
が咲いていた。
そして、蜩蝉も鳴いていた。
さて、毒ヶ森に登ってみて、「経埋ムベキ山」としての典型的な属性と私は考えている”頂上に祠や石塔がある”、”三角点がある”、”花巻から望むことが出来る”のいずれにも欠ける毒ヶ森であることがこれで判った。
多少肩すかしをくらった感じもするが、賢治の大好きな毒ヶ森も岩頸でもあるし、上の『鳥をとるやなぎ』にも出てくるように親友藤原健次郎と跋渉したであろう毒ヶ森の麓であるから、毒ヶ森(782m)が「経埋ムベキ山」に選ばれていることに違和感はない。
なお、藤原健次郎あての手紙の中で
君の今度の成績はどうだぁね
僕は百番近く、まづ操行丙。体操丙。博物丙。算術丙。歴史丁。といふあんばいだね。
舎監諸子の信用も何もないね。チュケァン。奴。来学期は生かしておかない。
なますにしてくってしまはなくちぁ腹の虫が気がすまねぇだ。
なんて云ふとゴロツキ見たいだがね。まぁともかく僕は僕自身謹んで吊意を表すらぁ。
もれ聞く所によると君もよくないってね。僕だって学校のぎせいになるんだらむしろ喜ぶね。
そして君は学校の真のぎせいに成り終へたんだも ぼくは吊意は表すまい むしろ祝意を表するね。
まだつかれて君のようなエレハントの事だからグーグーねてるだらう。
目がさめたかね。
この間旧佐藤テーチャーと湊テーチャーとに会った。
すましてたよ。
僕はもう成績などの話は聞きたくもない。
僕は来学期も僕独特の活動をしやうと思ってる。
大仏さんは又腹が空ってるだらうな。腹といふものは昔から空るもんだなっんて云っる。
こゝからも南晶山も見える 巖手も見える 早池峰も見える どれをこの夏休みに登らうと考へてる 他分早池峰にするだらう。
だんだん涼しくもなる。
あまりうりを二十だなんて食はんようにし給へ。
<明治43年9月19日付け 藤原健次郎あて書簡(新修宮沢賢治全集第十六巻)より>
とあけすけな調子で表現している部分のあるものがあり、やんちゃな賢治の一面が窺えて微笑ましいが、なんと健次郎はこの10日後の9月29日に腸チフスのために急逝した。なおさら、賢治が毒ヶ森を「経埋ムベキ山」の一つに入れたことを納得した。
続きの
”(27) 岩山”のTOPへ移る。
前の
”(26) 毒ヶ森(その1)”のTOPに戻る。
「経埋ムベキ山」32座のリストのある
”「経埋ムベキ山」のまとめ”のTOPに移る。
”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
”目次”へ移動する。
宮沢賢治は次の短歌
雲みだれ
薄明穹も落ちんとて
毒ヶ森よりあやしき聲あり
<『宮沢賢治全集 一』 公園二首 (筑摩書房)より>
で毒ヶ森を登場させている。
”公園二首”と添え書きがあるから、盛岡城跡公園あたりから毒ヶ森を望んで詠んだのでもあろうか。
因みに、盛岡(岩山展望台)から望んだ毒ヶ森は次のとおりで、その頂が真ん中にほんのちょこんと見える。
《1 夕暮れの中の毒ヶ森》(平成20年10月18日撮影)
さて、毒ヶ森に何とか登ることが出来たことに満足してあとは”矢巾西安庭線”南昌山5合目まで戻ることになる。
ただし、”#31プレート~林道出会い”間は往路を戻るだけだから報告は省略し、
《41 林道との出会い》(平成20年7月19日撮影)
から報告を開始する。
さて、林道は荒れ放題である。もちろん車など通った形跡など微塵もない。道沿いには
《1 ヤマブキショウマ》(平成20年7月19日撮影)
花が地味だから多分雌株だろう。
一方、このヒヨドリは色が濃いから
《2 サワヒヨドリ?》(平成20年7月19日撮影)
《3 〃 》(平成20年7月19日撮影)
なのだろうか。
振り返れば
《4 毒ヶ森》(平成20年7月19日撮影)
《5 進行方向の(かつては)林道》(平成20年7月19日撮影)
というわけで、林道とは云ってもかつての林道であり、いまは林道の体を為していない。草はぼうぼう道は荒れ放題である。まあ、その方が自然が戻るだろうからいいのかもしれないが、あちこちの山が林道でずたずたにされ、造った挙げ句ほったらかす。人間の身勝手さを恥じるだけだ。
道の脇には、ここでは花が咲いている
《6 ミヤマヤブタバコ》(平成20年7月19日撮影)
《7 〃の花》(平成20年7月19日撮影)
《8 アマニュウ》(平成20年7月19日撮影)
《9 〃 》(平成20年7月19日撮影)
だと思う。まるで打ち上げ花火のようだ。
《10 オカトラノオ》(平成20年7月19日撮影)
《11 〃 》(平成20年7月19日撮影)
道の両脇に何かいわれのありそうな
《12 でかい松》(平成20年7月19日撮影)
《13 〃》(平成20年7月19日撮影)
が数本あった。
《14 ウツボグサの花叢》(平成20年7月19日撮影)
もある。荒れ果てた林道には
《15 ヤマハギ》(平成20年7月19日撮影)
がもう咲いている。この花に出会うと、心なしか秋が近づいきているように思えてしまう。
《16 〃 》(平成20年7月19日撮影)
《17 ミゾソバ》(平成20年7月19日撮影)
《18 〃の花》(平成20年7月19日撮影)
《19 〃 》(平成20年7月19日撮影)
《20 ダイコンソウ》(平成20年7月19日撮影)
《21 〃の花》(平成20年7月19日撮影)
ここに至って、前に道がない、あるのは深い沢のみ。道が寸断されているのだ。
そういえば、春先に南昌山に行こうと思った際に通行止めに遭ったことがあるが、それは昨年の9月の集中豪雨で道路が土砂崩れ等を起こしたせいだった。そのときにこの道も寸断されたのだろうか。
深くえぐっている沢を横切ってなんとか再び道に戻れた。
《22 ヌスビトハギ》(平成20年7月19日撮影)
《23 〃の花》(平成20年7月19日撮影)
《24 〃 》(平成20年7月19日撮影)
《25 ヤマブキショウマ》(平成20年7月19日撮影)
ヤマブキショウマの雌株よりは花の咲き方が派手だから雄株だろうか。
道の脇に、遠くから見たときは”クガイソウ”かなと一瞬思った花が咲いていた。が、近づいてみると全く異なる
《26 フジウツギ》(平成20年7月19日撮影)
《27 〃 》(平成20年7月19日撮影)
《28 〃 》(平成20年7月19日撮影)
《29 マルバキンレイカ》(平成20年7月19日撮影)
《30 〃 》(平成20年7月19日撮影)
まもなく今日のスタート地点五合目に着きそうだと思ったときに大変なことに気がつく。目の前にテープが張られてあって、飛び越して振り返って見てみるとそこに書いてあるのは”通行禁止”という文字だったからだ。
スタート地点の五合目からこの道に入るのであれば気がつけるが、私の場合は逆コースだったからそのことに気がつけるはずはない。とはいっても、多少後ろめたさを感ぜざるを得なかった。
到着した地点には沢山の
《31 ヤマブキショウマ》(平成20年7月19日撮影)
が咲いていた。
これで南昌山~毒ヶ森の縦走は終わったのだが、近くの煙山に”水辺の里というところがあってそこに賢治の碑があるというので寄ってみた。
この煙山に関しては、
「煙山にエレッキのやなぎの木があるよ。」
藤原慶次郎がだしぬけに私に云いました。私たちがみんな教室に入って、机に座り、先生はまだ教員室寄っている間でした。尋常四年の二学期の初めの頃だったと思います。
で始まる賢治の作品『鳥をとるやなぎ』がある。
そして、この中に
権兵衛茶屋のわきから蕎麦ばたけや松林を通って、煙山の野原に出ましたら、
向うには毒ヶ森や南晶山が、たいへん暗くそびえ、その上を雲がぎらぎら光って、処々には竜の形の黒雲もあって、どんどん北の方へ飛び、野原はひっそりとして人も馬も居ず、草には穂が一杯に出ていました。
「どっちへ行こう。」
「さきに川原へ行って見ようよ。あそこには古い木がたくさんあるから。」
私たちはだんだん河の方へ行きました。
けむりのような草の穂をふんで、一生けん命急いだのです。
向うに毒ヶ森から出て来る小さな川の白い石原が見えて来ました。その川は、ふだんは水も大へんに少くて、大抵の処なら着物を脱がなくても渉れる位だったのですが、一ぺん水が出ると、まるで川幅が二十間位にもなって恐ろしく濁り、ごうごう流れるのでした。ですから川原は割合に広く、まっ白な砂利でできていて、処々にはひめははこぐさやすぎなやねむなどが生えていたのでしたが、少し上流の方には、川に添って大きな楊の木が、何本も何本もならんで立っていたのです。私たちはその上流の方の青い楊の木立を見ました。
とか
「他へ行ってみよう。野原のうちの、どこか外の処だよ。外へ行ってみよう。」私は云いました。慶次郎も黙って歩き出し私たちは河原から岸の草はらの方へ出ました。
それから毒ヶ森の麓の黒い松林の方へ向いて、きつねのしっぽのような茶いろの草の穂をふんで歩いていきました。
<『イーハトーボ農学校の春』(角川文庫)より>
のように毒ヶ森を登場させている。
もちろん、”処々には竜の形の黒雲も”とあるのは『南昌山の洞窟には水神・白竜(雨竜)が住んでおり、時折、毒気を出して雲を起こし、峰を覆った』という言い伝えを踏まえたものだろう。
また、藤原慶次郎は藤原健次郎をモデルにしていると思われる。この健次郎とは賢治が盛岡中学校に入学したとき寄宿した『自彊寮』で同室だった藤原健次郎のことである。健次郎は南昌山の麓の矢巾村不動の出身だったから、2人は週末には南昌山麓で一緒に「水晶」や「のろぎ石(ろう石)」などを拾ったり南昌山に登ったりしては、健次郎の家に泊まることも多かったようだ。
水辺の里というだけあって、小川が流れておりその川辺には
《32 サワグルミの木》(平成20年7月19日撮影)
がたわわに実を付けていた。
遊歩道を歩いて行くと
《33 宮沢賢治の標識》(平成20年7月19日撮影)
があり、そこにいわゆる
《34 「南昌山」歌碑》(平成20年7月19日撮影)
が建ててあった。歌碑の短歌は
まくろなる
石をくだけば
なほもさびし
夕日は落ちぬ
山の石原
毒ヶ森
南昌山の一つらは
ふとおどりたちて
わがぬかに來る
の二首であり、傍には、次のような説明がしてあった。
『宮澤賢治の歌碑について』
詩人、童話作家、科学者等色々な顔を持ち、農業指導者として農民の生活向上に半生を捧げた宮澤賢治(明治二十九年~昭和八年)は、盛岡中学、盛岡高等農林学校の学生時代に、霊山として知られる南昌山の神秘さと、その姿の美しさに魅せられ、度々この周辺を訪ね短歌、詩、童話の作品を遺している。
この一連の短歌は、大正四年、高等農林一年の時に当地を訪れ南昌山より流れ出た石原を調査した際に詠われた作品である。
ただし、残念ながらこの歌碑のある場所から”毒ヶ森 南昌山の一つらは”の一連は見えなかったが
《35 南昌山》(平成20年7月19日撮影)
だけは眼前にあった。
また、そこには
《36 キツリフネ》(平成20年7月19日撮影)
が咲いていた。
そして、蜩蝉も鳴いていた。
さて、毒ヶ森に登ってみて、「経埋ムベキ山」としての典型的な属性と私は考えている”頂上に祠や石塔がある”、”三角点がある”、”花巻から望むことが出来る”のいずれにも欠ける毒ヶ森であることがこれで判った。
多少肩すかしをくらった感じもするが、賢治の大好きな毒ヶ森も岩頸でもあるし、上の『鳥をとるやなぎ』にも出てくるように親友藤原健次郎と跋渉したであろう毒ヶ森の麓であるから、毒ヶ森(782m)が「経埋ムベキ山」に選ばれていることに違和感はない。
なお、藤原健次郎あての手紙の中で
君の今度の成績はどうだぁね
僕は百番近く、まづ操行丙。体操丙。博物丙。算術丙。歴史丁。といふあんばいだね。
舎監諸子の信用も何もないね。チュケァン。奴。来学期は生かしておかない。
なますにしてくってしまはなくちぁ腹の虫が気がすまねぇだ。
なんて云ふとゴロツキ見たいだがね。まぁともかく僕は僕自身謹んで吊意を表すらぁ。
もれ聞く所によると君もよくないってね。僕だって学校のぎせいになるんだらむしろ喜ぶね。
そして君は学校の真のぎせいに成り終へたんだも ぼくは吊意は表すまい むしろ祝意を表するね。
まだつかれて君のようなエレハントの事だからグーグーねてるだらう。
目がさめたかね。
この間旧佐藤テーチャーと湊テーチャーとに会った。
すましてたよ。
僕はもう成績などの話は聞きたくもない。
僕は来学期も僕独特の活動をしやうと思ってる。
大仏さんは又腹が空ってるだらうな。腹といふものは昔から空るもんだなっんて云っる。
こゝからも南晶山も見える 巖手も見える 早池峰も見える どれをこの夏休みに登らうと考へてる 他分早池峰にするだらう。
だんだん涼しくもなる。
あまりうりを二十だなんて食はんようにし給へ。
<明治43年9月19日付け 藤原健次郎あて書簡(新修宮沢賢治全集第十六巻)より>
とあけすけな調子で表現している部分のあるものがあり、やんちゃな賢治の一面が窺えて微笑ましいが、なんと健次郎はこの10日後の9月29日に腸チフスのために急逝した。なおさら、賢治が毒ヶ森を「経埋ムベキ山」の一つに入れたことを納得した。
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« 52 (26) 毒ヶ... | 54 (27) 岩山 » |
実は今日、南昌山から毒ケ森方面に足を伸ばしたのですが、それらしいピークはあるものの標識は無いし道は途中で消えてるしで上らずにそのまま戻ってきてしまいました(苦笑)
このブログを検索で見つけ、毒ケ森の状況とあの林道が南昌山五合目登山口に繋がっていることが確認できましたので、いつかリベンジしに行きたいと思います(毒ケ森に直行するなら、南昌山に上らずに崩壊林道をトラバースするほうが楽そう)。
そんなわけで、ありがとうございました。
次回のリベンジの成功を願っております。