<『宮澤賢治 愛のうた』(澤口たまみ著、もりおか文庫)>
このブログ゛の先頭に掲げた『宮澤賢治 愛のうた』の「はじめに」には次のようなことが述べられていた。
その恋が意図的に隠されたことは、『春と修羅』が書かれ始めた大正十一(一九二二)年から、印刷出版された大正十三年まで、まる三年もの賢治の書簡が、大正十一年の賀状一枚を除いては、ただの一通も残されていないことからも、容易に想像できます。
とあった。
書簡に関しては私も以前、〝「下ノ畑ニ居リマス」の秘密〟の「2.死期を悟っていた賢治」で
しかし何故なんだろう。『校本 宮沢賢治全集 第十三巻』(筑摩書房)には賢治から出された膨大な数の書簡が載っているのに、賢治がもらった書簡が明らかにされていないのは。おそらく、賢治が出した書簡の下書きでさえも保管されているのだから、賢治が受け取った書簡も少なからず保管されてあるはずである。そのような書簡が明らかになれば賢治の研究はさらに深まると思うのだが…。
という疑問を呈したことがあったが、澤口たまみ氏のこの著書を見て、同じ様な疑問と驚きを抱いた。たしかに、当該の校本を見てみると澤口氏の言うとおりであった。
そこへもってきて、たまたま読んだ『詩友国境を越えて』の中には次のように書かれていた。それは昭和8年9月26日、宮澤賢治の初七日に合せて花巻に向かった草野心平が、夕刻花巻に着きその足で宮澤商会を訪れ、そこで賢治の遺品と遺作に対面したときのことに関してである。
蓄音機やレコードはもちろん、山登りの道具、採取した岩石も整理、保管されていた。
しかし、中でも心平の興味を引いたのは、うずたかく積まれた原稿の山であった。
原稿用紙は、横線のない朱色の縦線だけの自家製であり、眼の前にある賢治の遺稿は、綿密な整理がほどかされ、ゆきとどいた保存がおこなわれていた。
そこには、心平に出されるはずであった手紙やハガキの反故が十枚ほどあった。
心平への宛名だけの封筒、心平宛のハガキで一行だけのもの、このように書き損じも捨てずに保存されている。
賢治自身が、それらを捨てなかったのはもちろんであるが、誰かがそれらを丁寧に保存していたことは確かである。次第に分かってきたが、この見事な保存と整理は弟清六によっておこなわれているのである。
心平が初七日に来るというので、清六が、心平の反古を取り出しておいたのである。賢治が反古にした手紙は山ほどあるはずで、その中から草野心平への反古の手紙をより分けておくことが短期間でできるのは、日頃から保存と整理が日常化していたからに違いない。
心平は、その保存と整理ぶりに驚嘆した。
<『詩友国境を越えて』(北条常久著、風濤社)より>
もし歴史的事実がこのとおりであるとするならば、澤口氏の抱く疑問も当然であろう。
さらに私は、宮澤家宛(父政次郎宛や母イチ宛)の書簡もしっかり残っているのだから、賢治宛の書簡も同様大切に保管・整理されていると思いたくなる。書き損じの下書き、反故さえも沢山残っているのだから、当然賢治が受け取った書簡も残っていて、それらも反故同様見事な保存と整理が清六によってなされていたとしか考えられない。
そこで声を高くして天にお願いしたい。
清六さん、賢治が受け取った書簡を見てみたいです。そろそろ公開してもいい頃では…。
と。一般に書簡とは本来遣り取りしあうもの、その両方があれば賢治の研究がもっともっと深まり、賢治のことをより正しく理解できると思うからである。賢治が出した書簡及びその下書きだけを公にしているという現状は、要らぬ誤解を招く懼れがあるからである。
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その恋が意図的に隠されたことは、『春と修羅』が書かれ始めた大正十一(一九二二)年から、印刷出版された大正十三年まで、まる三年もの賢治の書簡が、大正十一年の賀状一枚を除いては、ただの一通も残されていないことからも、容易に想像できます。
とあった。
書簡に関しては私も以前、〝「下ノ畑ニ居リマス」の秘密〟の「2.死期を悟っていた賢治」で
しかし何故なんだろう。『校本 宮沢賢治全集 第十三巻』(筑摩書房)には賢治から出された膨大な数の書簡が載っているのに、賢治がもらった書簡が明らかにされていないのは。おそらく、賢治が出した書簡の下書きでさえも保管されているのだから、賢治が受け取った書簡も少なからず保管されてあるはずである。そのような書簡が明らかになれば賢治の研究はさらに深まると思うのだが…。
という疑問を呈したことがあったが、澤口たまみ氏のこの著書を見て、同じ様な疑問と驚きを抱いた。たしかに、当該の校本を見てみると澤口氏の言うとおりであった。
そこへもってきて、たまたま読んだ『詩友国境を越えて』の中には次のように書かれていた。それは昭和8年9月26日、宮澤賢治の初七日に合せて花巻に向かった草野心平が、夕刻花巻に着きその足で宮澤商会を訪れ、そこで賢治の遺品と遺作に対面したときのことに関してである。
蓄音機やレコードはもちろん、山登りの道具、採取した岩石も整理、保管されていた。
しかし、中でも心平の興味を引いたのは、うずたかく積まれた原稿の山であった。
原稿用紙は、横線のない朱色の縦線だけの自家製であり、眼の前にある賢治の遺稿は、綿密な整理がほどかされ、ゆきとどいた保存がおこなわれていた。
そこには、心平に出されるはずであった手紙やハガキの反故が十枚ほどあった。
心平への宛名だけの封筒、心平宛のハガキで一行だけのもの、このように書き損じも捨てずに保存されている。
賢治自身が、それらを捨てなかったのはもちろんであるが、誰かがそれらを丁寧に保存していたことは確かである。次第に分かってきたが、この見事な保存と整理は弟清六によっておこなわれているのである。
心平が初七日に来るというので、清六が、心平の反古を取り出しておいたのである。賢治が反古にした手紙は山ほどあるはずで、その中から草野心平への反古の手紙をより分けておくことが短期間でできるのは、日頃から保存と整理が日常化していたからに違いない。
心平は、その保存と整理ぶりに驚嘆した。
<『詩友国境を越えて』(北条常久著、風濤社)より>
もし歴史的事実がこのとおりであるとするならば、澤口氏の抱く疑問も当然であろう。
さらに私は、宮澤家宛(父政次郎宛や母イチ宛)の書簡もしっかり残っているのだから、賢治宛の書簡も同様大切に保管・整理されていると思いたくなる。書き損じの下書き、反故さえも沢山残っているのだから、当然賢治が受け取った書簡も残っていて、それらも反故同様見事な保存と整理が清六によってなされていたとしか考えられない。
そこで声を高くして天にお願いしたい。
清六さん、賢治が受け取った書簡を見てみたいです。そろそろ公開してもいい頃では…。
と。一般に書簡とは本来遣り取りしあうもの、その両方があれば賢治の研究がもっともっと深まり、賢治のことをより正しく理解できると思うからである。賢治が出した書簡及びその下書きだけを公にしているという現状は、要らぬ誤解を招く懼れがあるからである。
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