goo

310 「下ノ畑ニ居リマス」の秘密

     <『賢治先生の家(花巻農学校敷地内に移築された羅須地人協会の建物)』
                              (平成20年12月12日撮影)>

 今回は 「下ノ畑ニ居リマス」の秘密について報告したい。
1.賢治からの「最後の手紙」
 そのために先ず次のような書簡を引用し、その準備を整えたい。良く知られていることなのだそうだが(私は知らなかったけれど)、賢治が亡くなる直前に書いた最後の手紙は稗貫郡の亀ヶ森小学校の教員・柳原昌悦宛のもだったのだそうだ。
 『校本 宮澤賢治全集 第十三巻』によればその内容は以下のとおりである。
 八月廿九日附お手紙ありがたく拝誦いたしました。あなたはいよいよご元気なやうで実に何よりです。私もお蔭で大分癒っては居りますが、どうも今度は前とちがってラッセル音容易に除こらず、咳がはじまると仕事も何も手につかずまる二時間も続いたり、或は夜中胸がぴうぴう鳴って眠られなかったり、仲々もう全い健康は得られさうもありません。けれども咳のないときはとにかく人並に机に座って切れ切れながら七八時間は何かしてゐられるやうなりました。あなたがいろいろ想ひ出して書かれたやうなことは最早二度と出来さうもありませんがそれに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります。しかも心持ばかり焦ってつまづいてばかりゐるやうな訳です。私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものででもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かゞ空しく過ぎて漸く自分の築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。あなたは賢いしかういふ過りはなさらないでせうが、しかし何といっても時代が時代ですから充分にご戒心下さい。風のなかを自由にあるけるとか、はっきりした声で何時間も話ができるとか、じぶんの兄弟のために何円かを手伝へるとかいうようなことはできないものから見れば神の業にも均しいものです。そんなことはもう人間の当然の権利だなどというような考えでは、本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんで生きて行きませう。いろいろ生意気なことを書きました。病苦に免じて赦して下さい。それでも今年は心配したやうでなしに作もよくて実にお互心強いではありませんか。また書きます。
     <『校本 宮澤賢治全集 第十三巻』(筑摩書房)より>

2.死期を悟っていた賢治
 この書簡の面内容からは、賢治はもうかつてのような自身の健康は取り戻せないという覚悟はあるもののまだまだ自棄になっていたわけではなく、新たな何かをやるつもりになっていたようだ。一体何をやる積もりだったんだろう。そのヒントを与えてくれるのが柳原からもらった「八月廿九日附の手紙」だと思う。
 ところが何故なんだろう。『校本 宮沢賢治全集 第十三巻』(筑摩書房)には賢治から出された膨大な数の書簡が載っているのに、賢治がもらった書簡が明らかにされていないのは。おそらく、賢治が出した書簡の下書きでさえも保管されているのだから、賢治が受け取った書簡も少なからず保管されてあるはずである。そのような書簡が明らかになれば賢治の研究はさらに深まると思うのだが…。
 それとも、柳原からの「八月廿九日附の手紙」なども含めた、賢治が他人からもらった書簡集はもう既に発行されているものなのだろうか。私が知らないだけ…かな。

 さて、それにつけてもこの柳原宛の書簡の中に、賢治が『私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。…じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲り、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みへ引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、…たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です』としたためてあったということを知って、かなり驚いた。そして、やはり賢治の心のうちにはまさしく「修羅の賢治」も棲んでいたのだと思った。

 ところでこの手紙は賢治の死の10日前、9月11日に書かれているという。この書簡を読んでみて私は、この当時の賢治はもしかすると死が刻々と近づいているかも知れないという自覚と覚悟<*1>があったかも知れない、と想像された。しかし教え子にはそんな素振りを見せるわけにはいかないから『それに代ることはきっとやる積りで毎日やっきとなって居ります』と書いているのではなかろうか。
 されど、『私のかういふ惨めな失敗は…たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です』の部分は、死が間近だと悟った賢治が、来し方を振り返って教え子に正直に我が想いを吐露したとのではなかろうか、そしてそれをなさしめたのは死期を悟った賢治の「誠実さ」ではなかったのではなかろうかと私は直感した。

 それにつけても、賢治が辞世に詠んだ歌の一つ
   方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる
と同様、この手紙の末尾
   『今年は心配したやうでなしに作もよくて実にお互心強いではありませんか』
からも、病の床につきながらも常に稲作のこと、作柄のこと、農民のことなどを賢治が如何に案じていたかがしみじみと伝わってくる。

<註*1>:古谷綱武が、賢治は『自殺的な生き方に見えてしかたがない』と言っているが、私も同様、賢治が東北砕石工場の猛烈サラリーマンをとなったのは”死に急ごう”と思ったからではなかろうかと常々感じている。

3.「下ノ畑ニ居リマス」の秘密
 さて、今回の投稿の目的は 「下ノ畑ニ居リマス」の秘密を報告することであった。回り道をしすぎた。この秘密を明かしてくれるのが柳原昌悦である。それが、つぎのような彼の追想である。
   羅須地人 
 大正十五年(一九二六)三月三十一日、軍隊に入っていた弟清六が除隊になり、父政次郎の家業を継ぐために帰宅したこの日、賢治は五十二ヶ月勤めた花巻農学校を退職し、家から約三キロほどはなれたところ、下根子桜の高台に農耕自活の旗印をかかげた。
 ここには賢治の祖父喜助が別宅として養生しまた妹トシが療養生活を送った二階建ての家がある。賢治は一月、祖父が建てたこの家に大工を入れて改造し、塾の様にした。
 「下ノ畑」のそばは北上川が流れて、目をあげれば早池峰山がのぞまれた。家のまわたべてかりと少しはなれた森の中の荒れ地を開墾した。
   「下ノ畑ニ居リマス」
 これは下根子桜の羅須地人協会の玄関わきにある黒板に書かれていた言葉です。実はそれには内緒話があったのです。先生は畑に行って家は留守にしているがおやつはそこに置いてあるよというやさしい心ず(ママ)かいの意がかくされてあったのです。
 私たちは学校の帰り先生の家を訪ねては、おやつ捜しに入り、それをかってに取り出しては食べて帰るというのがなんとも楽しくて、あんな遠い所までしばしばまわり道をして行ったものでした。せんせいはそのような気くばりようをされましたし、そこまで考えて戴いたことに非常に有り難さを覚えています。
                                    (柳原 昌悦)

      <『宮沢賢治の五十二箇月』(佐藤成著、川島印刷(株))より>

 あっ、そういうことだったんだ。そういう秘密のサインだったのか。賢治と教え子柳原たちとの信頼関係や賢治の心遣いなどがそこにはあったんだ 

 続き
 ”リヤカーを引く宮澤賢治”のTOPへ移る。
 前の
 ”賢治の肥料相談・設計の考察(続き)”のTOPに戻る
 ”宮澤賢治の里より”のトップへ戻る。
目次(続き)”へ移動する。
目次”へ移動する。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )
« 309 賢治の肥... 311 リヤカー... »
 
コメント
 
 
 
Unknown (ひかり)
2013-10-19 17:19:33
「下の畑におります」の書かれ方を知りたくて検索していたら、このページにきました。

「おやつ」のエピソード、イイ話しですね。
始めて知りました。  どうも、ありがとう。
 
 
 
ご訪問ありがとうございます (鈴木 守)
2013-10-20 10:31:58
 ひかり 様
 今日は。
 この度はご訪問いただきありがとうございます。
 
 特に柳原と澤里武治は賢治から愛されたようですね。
 ところがある時期から、彼等は賢治に関してぷっつりと語らなくなったような気がしてなりません。

 これからもお暇なときはどうぞお立ち寄り下さい。


 
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。
数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。
 
この記事のトラックバック Ping-URL
 
 
※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。