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392 昭和2年2月1日後の賢治(後編)

          《「書簡227a 高橋六助あて(昭2・〔4・4〕)」
           (『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より)》

 〝昭和2年2月1日後の賢治(前編)〟の続きである。
3. 昭和2年2月1日付岩手日報報道
 ついいままでは、昭和2年2月1日付(新聞題字の下の日付は1月31日)岩手日報のあの報道があったことにより、「羅須地人協会」の活動が社会主義教育の実践であると疑われていると賢治は認識したのだと思っていた。それゆえ、もしこの「思想問題」のことで協会員にその累が及び、そのことによって迷惑を掛けるわけにはいかないと危惧した賢治は即刻、下根子桜でのいままでのような活動を停止あるいは控えるようになっていったとばかり思っていた。
 ちなみに、『新潮日本文学アルバム宮沢賢治』によれば
 (この記事は)充分に好意的な記事であったが、文中の表現(《青年三十余名と共に羅須地人協会を組織し》など)が治安当局の目にとまり、また、前年十二月一日に発足した労農党稗貫支部に賢治が内々に協力したこともあって、花巻警察の取調べを受けるという事態になり、協会の集会活動は以後極めて表立たない形に変わる。
     <『新潮日本文学アルバム宮沢賢治』(天沢退二郎編、新潮社)より>
と、一方『年表作家読本宮沢賢治』では
 (この記事が出る。)このため社会主義教育を行っているのではないかとの疑いを持たれ、花巻警察署の事情聴取もあったという。この後オーケストラを一時解散し、集会も不定期になったという。
     <『年表作家読本宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社)より>
ということでもあるし。

4. 2月1日付の記事によって活動を停止したと言えるのか
 しかし『新校本 年譜』に新たに書き加えられた事柄等を踏まえればそうとばかり言えないような気もする。
 伊藤克己は「先生と私達―羅須地人協会時代―」で次のように語っている。
 そしてその前に私達にも悲しい日がきてゐた。それはこのオーケストラを一時解散すると云ふ事だつた。私達ヴァイオリンは先生の斡旋で木村さんの指導を受ける事になり、フリユートとクラリネットは當分獨習すると云う事だつた。そして集まりも不定期になつた。それは或日岩手日報の三面の中段に寫真入りで宮澤賢治が地方の年を集めて農業を指導して居ると報じたからである。その當時思想問題はやかましかつたのである。先生はその晩新聞を見せて重い口調で誤解を招いでは濟まないと云う事だつた。
          <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版)より>
と。まさしく「岩手日報の三面の中段に寫真入り」で報道されていたのが昭和2年2月1日のあの紙面である。したがって、この伊藤の語っているところが正しければ、賢治は新聞報道を受けて即座に、その日の晩に楽団(オーケストラ)を一時解散すると言い渡したということになる。2月1日付の記事によって活動を停止したと言えそうだ。 
 ところが一般には羅須地人協会としての集まりは、菊池忠二氏が言うように
 この近隣の青年たちの集まりとはべつに、羅須地人協会としての集まり、「集会案内」にもあるように大正十五年の末と、昭和二年一月から三月までの間にひらかれた。それは花巻近在の農学校や国民高等学校卒業の農村青年、そのほかの篤農青年達の集まりであった。持寄競売や物々交換会、エスペラント、農民芸術論の講義が行われたほかは、主として農業に必要な基礎化学、土壌学、植物生理学等の学習が中心であった。
         <『私の賢治散歩(下巻)』(菊池忠二著)より>
というようなものだったから、『校本 年譜』の段階でもこれらは即座に停止あるいは控えるようになっていったとは言い切れないと思っていた。なぜならここで菊池氏が指摘するように協会としての集まりは2月1日以降もしばらく(約2ヶ月間?)開かれていたからである。
 そのうえ、ここに至って新たに知った『新校本 年譜』の中に書き加えられた事柄
・2月27日
・3月 4日
・4月10日
の内容、及び新たに見つかった
・昭和2年4月4日消印の高橋六助宛の集会案内葉書
の内容からは、あの2月1日以降も集会案内をして積極的に参加を呼びかけていたし、期間も3月までではなくて4月に入ってもそのような集まりを開催していたといえそうだ。
 これでは2月1日以降「集会活動は以後極めて表立たない形」になったとはいえず、謄写版刷りの郵便葉書で案内をしているという事実から、賢治は大っぴらに多くの人に羅須地人協会としての集まりへの参加を呼びかけていたということになるのではなかろうか。それも協会員以外の農民にも。なぜなら、2月27日付案内葉書の宛名の人物佐々木実も、4月4日付案内葉書の宛名の人物高橋六助もともに羅須地人協会の会員ではなかったはずだからである。

5.現時点での結論
 したがって私の現時点での結論は
 昭和2年2月1日付岩手日報の報道を受けて賢治が止めたことは楽団活動だけであり、それ以外の羅須地人協会としての集まりはしばらく止めなかった。
である。
(1) 楽団活動中止の訳
 ではなぜ、2月1日の新聞報道を受けて楽団活動だけは即座に賢治は止めたのだろうか。
 翻ってみると当時稗貫の隣、紫波郡の赤石村・古館村・不動村・志和村等の各村々は前年(大正15年)の大干魃のために飢饉一歩手前の状態にあり、旧正月を目の前にしてお餅の準備どころか日々の食事が満足に摂れなくて、「カテメシ」さえも満足に食べられないような惨状に陥っていて、そのような報道が連日紙面を埋めていた
 そこへもってきて、「田園生活の愉快を一層味はしめ」とか「農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行く」と書き立てられ、その上見出しに「自然生活に立返る」と書かれたこの2月1日の岩手日報の記事はあまりにも対極的な報道である。
 隣の村々が窮状にあるというのに賢治は若者達を集めて何を暢気なことをしているのか、今はそんなことをしている時勢にはないだろう。多くの若者たちがこの惨状を何とかしようとしてボランティア活動のために駆けずり回っているのに、夜な夜な下根子桜の宮澤家の別荘に「いい若者たち」が集ってギコギコ音を立てながら音楽活動をやっているとは情けない。そんなことをしている金と暇があるならばならば少しは隣村のために何か支援活動をしろ。おそらく、この新聞報道を切っ掛けとして賢治たちの活動内容が公となったがためにこのような誹りを受けかねないと賢治は察知したのではなかろうか。そういう訳で賢治は楽団活動だけは即刻止めてしまった。
(2) 楽団活動以外の活動は止めなかった理由
 一方それ以外の下根子桜でそれまで行われてきた近隣の農民のための活動はそれほど非難の対象になるべきものではないと賢治は判断したとは考えられないだろうか。実際、大正末期から昭和初期にかけては、全国的に農民のための私塾や各種の学校が数多くつくられていた時代(菊池忠二著『私の賢治散歩(下巻)』より)でもあり、下根子桜での楽団活動以外の活動はその流れの中にあるから世間から指弾される対象にはないと判断していたのではなかろうか。これが楽団活動以外の活動は止めなかった理由だろう。
 だからこそ賢治は〝大正15年11月22日付集会案内〟と同じ様な内容の〝昭和2年2月27日付集会案内〟を、2月1日の新聞報道後に、それもわざわざ葉書でもしているのではなかろうか。さらには、4月4日頃には〝羅須地人協会〟という名称が入った案内葉書を少なからぬ人々に発送した。そしてそれを受けて4月10日には羅須地人協会で学習会を開いていたと見られる。

 したがって、新たに見つかった資料からは巷間言われてきた
 2月1日の新聞報道を受けて協会の集会活動は以後極めて表立たない形に変わった。
ということではなかったのではなかろうか、とは言えないだろうか。
 なぜならくどくなるが、2月1日後も相変わらず案内葉書には〝地人學会〟とか〝羅須地人協会〟という名称が使われており、その新聞報道から2ヶ月以上経っても相変わらず羅須地人協会で集会が開かれていたとみられるからである。
 よってこのことに関する現時点での私の結論は
 昭和2年2月1日の新聞報道後も、下根子桜におけるそれまでのような集会活動は楽団活動を除いては相変わらず広く案内され、少なくとも4月10日までは堂々と行われていた。
である。
 もちろん、4月10日以降に協会の集会活動は以後極めて表立たない形に変わったのならばそれは2月1日の新聞報道が直接の原因とは思えない。別の新たな理由があったはずである、ということでもある。

 以上のようなことが、論理的には考えられないこともない。~なんちゃって。

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