SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

Ex-Scriptionのエージェント その1

2010年02月15日 | Weblog


>特定のキャラクターに「萌える」という消費行動には、盲目的な没入とともに、その対象を萌え要素に分解し、データベースのなかで相対化してしまうような奇妙に冷静な側面が隠されている。(東浩紀著『動物化するポストモダン』76ページより抜粋)

 秋葉原無差別殺傷事件では、加藤の「誰でもよかった」という匿名的な殺意が、しかし自分自身にも向けられていたという。斉藤環いわく、そこでは他殺と自殺は限りなく等しい。この意見に同意する東浩紀の「ついに起きたか」という第一印象も、後出しでも何でもなく、理論的な根拠があってのことである。2005年にはミヒャエル・ハネケが、そして2006年にはディヴィッド・リンチが、秋葉原事件とほぼ同様の事態を、それぞれの作品のなかに描き出しているのだ。ハネケの『隠された記憶』では、大きな鼻をもつ主人公の前で、犯人と目される男が突然に自殺する(このシーンはYouTubeでも見られるがリンクはしない)。そしてリンチの『インランド・エンパイア』では、この女が怯えた表情で見ているのが、刑事の眼ではなく鼻なのである。そう、千葉雅也のツイットいわくの「非ファルス的にもっこりするもの」としての「鼻」なのである。このとき刑事は何かに「萌えて」いるのだ。(続く)