SUPER FLAT 2

非ファルス的にもっこりするものを肯定せよ!(神の性的不器用あるいはその性的悪戯に由来するもの達について)

日展、動く。

2007年03月16日 | Weblog
>この「動く」という文字は単に上野から六本木へという地理的な移動に止(とど)まらず、歴史と伝統にのみ負(おんぶ)された日展を脱し、常にこれらに裏打ちされながら時代と共に呼吸し続ける日展の姿勢をシンボリックに表した「動く」であると考えます。(日展理事長のご挨拶より抜粋)

 だが良いほうへ「動く」とは限らないのである。本展覧会場の上野から六本木への移動に伴ない、これからの日展はおそらく本格的にヤンキー化する。時代と共に呼吸するその空気が「郊外」から寒く吹いてきている以上、国立新美術館は早晩ジャスコ化するのだ。そもそも国立新美術館は、公募展の出展者数が殖(ふ)えすぎて東京都美術館だけでは捌ききれなくなったため新設されたのである。ジョージ・A・ロメロの映画『ゾンビ』では、満員の天国から溢れ出た大量の死者達が、郊外のショッピング・センターのドアをガンガンと叩いていた。同様に「上野の杜」は、殖えるだけ殖えた公募展の美術家達でもう満杯なのだ。「歴史と伝統」から溢れ出てヤンキー化した美術家達が六本木という「都心内郊外」へと流れ、国立新美術館の傘立てをガンガンと蹴っている様子が目に浮かぶ。芸術精神はすでに死んでいるが、中央画壇への欲望の記憶だけが微かに残っているのだ。日展(とりわけ洋画部門)の芸術がいまより悪くなるとは考えにくいが、もし「動く」とすれば、そんなふうに時代と共に「郊外化」することになるだろう。なんのこっちゃ。