すんけい ぶろぐ

雑感や書評など

三島由紀夫「愛の渇き」

2005-06-26 08:48:57 | 書評
輪廻転生の話は盛り込まれないだろうなぁ(盛り込むと、恋愛映画がぼやけちゃうだろうし)


本屋で、新潮文庫の「豊饒の海」に「映画化」という帯がかかっているのを見たときは、
「いったい何時間の映画にする気だ?」
と不思議でしたが、四部作の最初である「春の雪」だけを切り取って映画にするらしいです。

監督は「世界の中心で、愛をさけぶ」の行定勲。なぁーる。単純に、悲恋の題材が欲しかったのね…………。

個人的には、理想を高くかかげた青年(少年?)が、その純真さゆえにテロリストとなっていく第二部「奔馬」や、美しい異国の少女をたぶらかそうと、地位も名誉もある中年男性が悪戦苦闘する第三部「暁の寺」の方が、面白いんだけどなぁ。

まぁ…………映画は個人の趣味でやれるほど、安上がりなもんじゃないですからね。
客が入りそうなものに手がつくのは、仕方ないでしょうね。

きっと、ふつーの恋愛映画になるんだろうなぁ。
二時間前後で収めるには、それでいんだろうけどね。


で、最近読んだのが三島由紀夫「愛の渇き」。

病気で旦那を亡くした寡婦の悦子は、田舎に引っこんでいる舅のもとに身を寄せます。
そこで、悦子は義理の父に体を委ねることになるのですが、一方でその家で雇われている園丁の三郎に懸想してしまう。
しかし、三郎には女中の美代という恋人がいて……………。

例によって、上流階級の生活を、甘い腐臭を漂わせて書いております。その人物造形や背景描写には、いつもながらリアルなのですが、その反面、主人公の複雑な有り様は、いつもながらリアルではありません。

 この瞬間における悦子の諦念を、もしくは単なる自堕落を、安逸を、どう解釈すべきであろう。渇いた人が鉄錆の浮いた濁った水をも呑むように、悦子はこれを受け入れたのであろうか。そんな筈はない。悦子は渇いてなぞいはしなかった。何も希わないことが夙に悦子の持前になっていた。彼女は避病院、あの伝染病というおそろしい自己満足の根拠地を再び求めて、米殿村へ来たようなものである。……多分、悦子は、澱れる人が心ならずも飲む海水のように、自然の法則にしたがってそれを飲んだにすぎぬのであろう。何も望まないということは、取捨選択の権限を失うことだ。そう言った手前、飲み干さねばならぬ。海水であろうと……。
 ……ところがその後の悦子にも、溺死する女の苦渋の表情は見られなかった。死の瞬間まで、彼女の溺死は人に気附かれずにすぎるのかもしれなかった。彼女は叫ばない。われとわが手で猿轡をはめたこの女は。
三島由紀夫「愛の渇き」68頁 新潮文庫
以上は、悦子が最初に舅に抱かれたシーンです。
「われとわが手で猿轡をはめたこの女は」です。まったく、どんな女なのでしょう? 普通なら、「はぁ?」と思えるのですが、三島由紀夫の小説の中ですと、頭の中でしっかりと一人の人間として思い描けるから、不思議なものです。

自分としては、「成就できないことに喜びを見出す女」という風に理解したのですが、極論なのかなぁ(こんな紋切り型の簡略化は、三島由紀夫が最も憎んだであろう「俗化」の最たるものでしょうけど)。


悦子と亡夫との生活は、彼の浮気によって、破綻していました。彼女は嫉妬に悩み、眠れる夜を過ごしていました。が、そこで、単純に苦しめられないところが、三島由紀夫の愉快なところ。
悦子は、その嫉妬を嫉妬として、第三者のように楽しむようになります。

ですから、旦那が不倫相手と病室で面会した際も、彼女は、こんな風に不安になります。
『もし良人が、もし良人がこの女を少しも愛していないのだったら、どうしよう。私の苦しみは皆無駄になる。良人と私はただ空しい遊戯の苦しめ合いをしていたにすぎなくなる。それでは私の過去はみんな空虚な独り角力になってしまう。良人の目の
なかに、今、どうしてもこの女への愛を見出さなければ、私は立ち行かない。もしかして、良人がこの女を、このほかの私が面会を断った三人の女のどれをも、愛していなかったとなれば、……ああ! 今さらそんな結果は怖ろしい!』
三島由紀夫「愛の渇き」54頁 新潮文庫
そして、夫は死んでしまいます。夫が死ぬことで、彼女は嫉妬から解放されます。それは、病院から夫の遺骸とともに外に出た際の「光」となって表現されています。
 あのとき雪崩れ込んで来た日光ほど感動的な夥しい日光を悦子は知らない。
 十一月のはじめのあの氾濫する日先、いたるところに満ちあふれる透明な出湯のような日光。避病院の裏口は、戦災に焼けつくされた平坦な盆地の町にむかっていた。彼方を中央線の末枯れた草に包まれた上手が斜めに走っていた。町の半ばは木組の新たな家や建てかけの家に埋まり、半ばはまだ草と瓦礫と芥に委ねられた焼跡であった。十一月の日光はこの町を領していた。その間をとおる明るい十間道路を、自転車のハンドルが光りながら走る。そればかりではない。焼跡の芥の堆積のなかからも、ビール壜の破片のようなものが眩しく目を射る。この光りが一挙に、柩と、これにつき随った悦子の上に、瀑布のように落ちかかったのだ。
三島由紀夫「愛の渇き」36~37頁 新潮文庫
こうして普通なら、苦しみから解放されて安堵を得られるはずなのですが、悦子は嫉妬を嫉妬として苦しむという楽しみを覚えてしまっています。夫からの解放は、嫉妬からの解放であると同時に、喪失でもあるのです。

そのため彼女は、敢えて好きでもない舅のもとに身を寄せるのです。つまりは「澱れる人が心ならずも飲む海水のように、自然の法則にしたがってそれを飲んだ」ということなのです。

しかし、老いた舅は既に悦子に嫉妬の喜びを与えてくれるだけの力はありません。その結果、三郎の登場です。彼女は、この階級的にも、年齢的にも相応しくない相手を想い、この不可能な愛をつくりあげることに喜びを見い出します。

作者は、三郎が参加している祭りに悦子が魅入られる場面を、以下のように描写しています。
 悦子の目は白張の多くの提灯がはげしくぶつかり合うあたりへ向けられていた。弥吉も謙輔夫婦も美代も、すでに彼女の意識には存在しない。この叫喚の本体、この狂乱の本体、このおそろしい激越な運動の本体……、悦子の直観は定かならぬ酩酊のために飛躍して、その本体こそは三郎であり、三郎であるべき筈だと考えた。この渦巻いている生命力の無益な濫費は、ほとんど光り輝くもののように悦子には思われ、彼女の意識はこの危険な混沌の上に置かれて、まるで焙恪の上に置かれた木片のように融けた。悦子は自分の顔が時折焚火や篝火の焔のために、容赦なく照らし出されるのを感じていた。それが、ゆくりなくも、良人の柩を運び出すためにあけた扉から、なだれ落ちて来たあの十一月の日光の夥しさを思い出させた。
三島由紀夫「愛の渇き」123~124頁 新潮文庫

こうして彼と愛を交わしたいと思う一方で、彼を手放してしまいたいという、異常に複雑な悦子の心理が設定されます。

で、最終的には「愛の渇き」を癒そうと、悦子は三郎に告白します。しかし、彼を手に入れることでも、彼を失うことでも、悦子の愛は満足させられません。その二つの思いに引き裂かれた彼女のとった行動は……………、まぁ、当然と言えば当然の帰結のようで、やはりちょっと無茶なオチでした。

要は三郎も、亡夫と同じ場所に追いやってしまうのです。こうすることで、彼を失いつつも、決して他の誰かにとられることはなく、嫉妬とは無縁でいることができるのです。


三島由紀夫の小説では、過剰な超人間心理を設定されて、それに「ついていけるか?」「ついていけないか?」が面白く読める境界線になることが多いですが、個人的には、これは面白く読めました。


愛の渇き

新潮社

このアイテムの詳細を見る