この数か月で15冊以上の現代作家の小説を読んでいる。 今読んでいる小説も残り20ページほどで読破する。 百田尚樹「フォルツッナの瞳」。 ある青年が死に近づいた人を見ると身体が透明に見えてしまう能力を持ち、その人の死を望まずに何かを加えて死を回避させると本人にその代償が与えられる。 この青年は幼い頃に両親を含めた家族全員を無くしていて、彼独り生き残った事もあり、施設で育てられ、車を磨く職人として独り立ちまでする。 その過程である携帯ショップの店員の死が近づいていることを知ると、その店員を誘って死を回避させた。 後日、その店員と付き合うことになるのだけど、果たしてその結末は・・・。 まだ最後まで読んでいないので、結末がどうなるのか分からないけど、この死に近づいている人を見ることが出来る瞳が「フォルツッナの瞳」と呼ばれている。 これを教えたのは同じ能力を持っている医師で有ったが、3度目にこの医師に面会した時にはすでにこの医師は死んでいた。 この未来の死を見ることが出来る能力である人の未来を書き換えると、自らの身体に負担を与えて、それが度重なると死に至るほどに身体を犯すことになるのだ。 この医師も誰かのために死に向かったのだろうか? 絶対に誰かの未来に関わることには拒否すると言っていた医師もそれを知るまではやはりこの主人公と同じように誰かの死を回避させていたのだ。
さて、こうして小説を読んでいると若い頃に読んでいた小説(夏目漱石、志賀直哉、谷崎潤一郎、太宰治などなど・・・)との違いを感じる。 もちろん、物語の背景自体が違っているのはもちろんだろう。 今の小説には携帯電話やスマホ、タブレット、PCなどは当たり前に登場する。 それだけでも感覚は全然違っている。 若い頃には現代作家の本を読むことはほとんどなく、近代作家の著名な作品を読んでいた。 最近になって、現代作家の本を読むようになり、改めて面白いな~~と思っている。 ただ、確かに面白い。 でも・・。 何となく、作家が言わんとするその奥底にある何か人間的な根源的な言葉に出来ない深い深層世界的な・・・物が足りていない。 確かに物語としては面白い。 東野圭吾、松本清張などの推理作家の展開の面白さはもちろんあるけど。 何かが足りていないと言う感覚はどうしても読んだ後に味わう物足りなさを実感してしまうのは私だけ?だろうか? 夏目漱石や太宰治などの小説のストーリー自体はとてもシンプルで特に次にどうなるのだろう?という期待感を抱かせることもない。 淡々と物語が進み、淡々と最後が終わるのである。 でも、読み終えた後に心の中に残るのもは深い場所まで滲み込んでいて、それがずっと余韻のように、或いは心の深層へと静かに沈み込むような感覚を覚えるのである。 この違いはなんだろう? 何かがやはり足りていないような気持にさせられる。 加納朋子も数冊読み終えて、確かに心に沈み込んでくる物を感じることが出来る作品だと実感できるのだ。 しかし、まだ何かどうしてもその奥底にある、小説の文面の行と行との隙間にある言葉に出来ない余韻が足りていないことを感じる。 それはなんだろうか? 物語はたしかに面白い展開だ。 特に池井戸潤の小説はその展開こそが醍醐味であるような小説だろう。 正当な逆襲という展開は読んでいる側にとっては楽しい展開である。 ある種の定番の時代劇風である。 最後には正義が勝つという展開はたしかに気持ちいいし、スカッとするかもしれない。でもだ、で、何なんだ? だからなんだろう? 読み終えた後にはその感想以外にはないのである。
これからも、現代作家をどんどん読んでみたいし、今の仕事には本は最高の時間潰である。 だから読んでいるとも言っていいのだけど。 時折は近代作家の本も読み直してみたいと思う気持ちが湧いてきている。 果たして、若い頃に読んだ時と同じ感覚は今でも私にあるだろうか? それとも、現代作家と同じような感覚を抱くのだろうか? まだ数冊、数十冊を読んでから、ひとまずもう一度、阿部公房や江戸川乱歩や、太宰治でも読んでみようかなと・・・。 谷崎潤一郎や吉行淳之介ももう一度読んでみたいな~なんて思っている。
さて、今日は夜勤明け日で早朝の6時前には帰宅した。 シャワーを浴びることもなく、即ビール、焼酎を飲みながら食事を済ませるとベッドに入り、3時間弱で目が覚めた。 朝から雨がパラついている天気では何もすることが出来ない。 バイクはもちろん乗れないし、ジムも月曜日なので休みだ。 洗濯も出来ないし、昨日中には洗濯はしっかり終わらせてあるので、今日は部屋にぶら下っている洗濯物を畳んで片付けることにする。 それ以外にはなにもなし。 出かける用事もないし、まだ頭もすっきりとしていない。 もうしばらくベッドに横になって寝転がって静かに過ごすことになるけど、それでも夜までには時間はたっぷりと残されているので、何をすることもなくTVでもぼんやりと眺めているだけだろうか・・・。 明日は図書館も開いているので、次に読みたい作家の本を3冊借りてくることにしている。 それ以外には仕事や絶対にしなといけない用事以外には特にはないのである。 自由な時間を持つことがこれほど退屈だとも思わなかったけど、それでも仕事に追われるような日々を過ごすよりはいいだろう。 こうしていろんなことを考えたり、想像したり、妄想したりする時間も時にはこれから生きることへの推進力になる場合もあるのだ。 一旦、立ち止まって辺りを見渡すことも人生には大切な要素である。 何もすることが無いのもある意味では大切な時間なのだと言う事はずっと昔から理解していた。 それでも、煩悩はそうした何もない時間を持て余すのである。 それが人間の嵯峨だろうか? 人生を達観することは理解できる。 ただ、煩悩はそうした時間を無駄と思い違いをするのだろう。 勿体ない・・・などと思ってしまうのはやはり人間が未熟なんだろうと知らさせる。