上の写真は厳原中心街の対馬市交流センター2階にある外国人向けお土産店です。もちろん知ってはいましたが、対馬には韓国からの観光客が大勢います。明らかに日本人観光客より多いのではないかと思います。上のお土産店は主に韓国人観光客向けに日本全国の工芸品やお菓子を販売しています。韓国の人々はどこに行っても楽しそうです。対馬の何が彼らを引き付けるのでしょうか。韓国から最も近くて船で気軽に渡航できる外国。環境 . . . 本文を読む
宗氏の第20代当主の宗義智は天正15年(1587年)5月に、豊臣秀吉から李氏朝鮮に「唐入り(明朝つまり中国侵略)」のための道案内をさせるよう交渉せよという想像を絶する途方もない無理難題を命ぜられます。義智は涙ぐましい努力(本当に涙ぐましい努力をしています)で朝鮮との開戦を回避しようとしましたが、遂に開戦となります。開戦すると義父である小西行長軍に、5000人の兵を率いて参戦し、朝鮮軍を破って半島 . . . 本文を読む
幕末の文久元年(1861年)3月14日、対馬の上島と下島を分かつ浅茅湾(上の写真です)に、ロシア軍艦ポサドニック号(ニコライ・ビリリョフ艦長)が来航します。当時の藩主宗義和はビリリョフ艦長に退去を求めますが、艦長は船が嵐で損傷したため、浅野湾で修理させてほしいと言ってきます。実際には、ロシアの極東地域への入口にある対馬に拠点を設けることが目的でした。間もなく乗員らが上陸してきて兵舎や工場を勝手に . . . 本文を読む
宗氏の800年は、かなり波乱に満ちています。宗氏が対馬の領主となって2代目当主宗助国の代には元寇に直面し、助国は元軍との戦闘で戦死しています。島は占領され多くの住民が殺され、あるいは奴隷にされています。元軍が撃退されたのちも、国境の最前線として緊張を強いられます。室町時代には幕府から海賊集団である倭寇の取締りをさせられます。豊臣秀吉の文禄慶長の役では侵略軍の先鋒に立たされ、かつ朝鮮側との交渉もさ . . . 本文を読む
昨日、対馬の宗氏は800年にわたって、対馬の領主であり続けた件をご紹介しました。日本で大名という制度の原型が成立するのは、中学高校の日本史で習った通り、鎌倉幕府による守護・地頭制度の導入からです。鎌倉幕府によって守護に任じられて、幕末まで存続した大名は、薩摩の島津氏、長州の毛利氏、東北の伊達氏などが知られていますが、やはり多いとはいえないですね。大名は江戸期には300諸侯がいたわけですから。長期 . . . 本文を読む