羽花山人日記

徒然なるままに

つるし柿

2021-10-31 17:14:38 | 日記

つるし柿

菜園の地主のおばあさんから,つるし柿のおすそ分にあずかった。熟成が楽しみである。

この地主さん,年齢はわたしより一つ上だが,元気そのもの,野良仕事に精を出し,真夏の草刈りも厭わない。

柿を頂戴した時の会話の中で意見が一致したこと:議員報酬を三分の一以下にすれば,私利私欲でなく,本気で世の中を良くしたい議員が増えるかもしれない。

 

天皇賞

テレビ画面を撮影

三連複5枚のうちの一つが見事的中。ただし,余りにも順当な結果で,トータルではマイナスだった。次はジャパンカップ,そして有馬記念で今年も暮れる。

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鹿島アントラーズ

2021-10-30 17:39:44 | 日記

鹿島アントラーズ

今年は鹿島アントラーズ創設30周年で,地元ではいろいろな行事が行われている。昨夜は,テレビの地域番組で,特集が放映された。

わたし自身は,鹿島アントラーズという名前を聞いた時,あんな田舎に(失礼)プロのサッカーチームが存続できるのかと疑問に感じ,それが,通算チャンピオンシップ29を誇る,「王者アントラーズ」になるとは思いもしなかった。

番組にはJリーグ開幕当時,アントラーズ躍進の原動力となったジーコさんも出演し,創設時の秘話が語られていた。

テレビ画面を撮影

当時,「コンビナート砂漠」と呼ばれていた鹿島の地域振興を図るべく,当時のJリーグ準備室長川渕三郎氏に話をもっていったところ,99.9999%不可能だから止めるように言われた。川渕氏は,100%駄目と言えば身も蓋もないので,99.9999%と言ったという。

しかし,準備チームはあきらめなかった。

東京から離れた田舎町には,観客動員能力がないという指摘に対しては,チームスポンサーの住友金属の,チーム名に社名を入れないという決断から,地元企業の協力が得られ,26万名の賛同署名を集めた。

屋根付きの1万5千人を収容する,サッカー専用のスタジアムが必要という指摘には,通常4年はかかるところを,工法を工夫して15ヶ月で建設した。建設費は茨城県が全額負担した。なお,このことについて聞いた話では,当時の建設省出身の県知事が,県議会の議を経ることなく予算を決め,事後承諾で押し通したという。

かくして,Jリーグ発足時の10チームに鹿島アントラーズは名を連ねたのである。

わたしは,リーグ開始後2年くらいの時に,鹿島スタジアムでアントラーズの試合を見た。スタジアムに行く前に,所用でタバコ屋のおばあさんと話していて,わたしが「試合開始」と言ったら,おばあさんが「キックオフ」と言ったのでびっくりした。スタジアムでのアントラーズの応援も,垢抜けして堂々たるものだった。まさに地域密着である。

今年は,ちょっと振るわないようだが,鹿島アントラーズには,王者の風格で勝ち進んで欲しい。

ところで,一時はブームを呼んだわが故郷の松本山雅は,最近J2に居ついてしまったようだ。先日松本に行った時もひところの熱気が感じられなかった。彼の地の人たちは熱しやすくて,冷めやすいのか。

 

華厳の滝遠望

2007年10月撮影。かなりぼけた写真になってしまった。

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さようならモネ

2021-10-29 17:23:59 | 日記

テレビ画面を撮影

朝ドラの『おかえりモネ』が終わった。中学のブラスバンドの仲間を中心とする登場人物が,みんな良い子,良い人ばかりだったが,東日本大震災を背景とする内容の濃いドラマだった。

テレビ画面を撮影

わたしは,このドラマから,「現場」,「当事者」,「故郷」の三つのテーマについて考えさせられた。はじめの二つについては,7月16日と10月17日のブログで取り上げた。

登場する気仙沼の若者たちは,故郷に留まるもの,一旦故郷を出て戻るもの,故郷から別天地に旅立つものの,三つに分類される。いずれもルーツを共通にしているが,故郷に対する感慨は異なっていると思う。どれが正しく,どれが間違っているということではない。それぞれが置かれている状況で決めたものだ。

昨日の場面で,モネが大学への進学を決めた妹の未知に,「行ってらっしゃい,いつでも帰っておいで。」というシーンがあった。きれいな言葉だが,故郷とはそんなに単純なものではないとも感じた。

わたしは,2012年に,故郷にあった家屋敷を整理し,本籍地を茨城県に移した。わたしは男の兄弟はなく,姉妹は他家に嫁いで一家をなしているので,両親が居住しなくなってからの生家の管理は,わたし一人の責任になった。

その時点ですでに,わたしはそこに戻って居を構えることはせずに,いずれは始末をつけなければと心に決めていた。家族はそれを望んでいた。郷里の村に,わたしたち夫婦の居場所を作ることは,周囲にとっても,わたしたちにとっても,かなりのストレスになることが予想できた。

にもかかわらず,それから10年余りにわたって,月にいっぺんは帰郷し,家の清掃と,屋敷の除草などを続けてきたのは,わたしの気持ちの中に,郷里と生家へのこだわりがあったからであることは否めない。そして,次の条件が満たされた時に,ようやく家屋敷を整理する決意をした。

周囲の関係者がそのことについて納得する。

片道300キロを車で走ってする管理が,肉体的に難しくなる。

家屋敷の引き受け手が現れる。

郷里を引き上げる時,わたしと同年代あるいはそれ以上の方々からは,残念で寂しいという言葉を聞いた。若い方々からは,あとに新しくて若い世帯が入ってくるから,と感謝の言葉を聞いた。

現在,屋敷跡には新しい家が立ち並び,児童が遊んでいる。それを見ると,心が和み,救われた気持ちになる。

故郷の風物はそこに変わりなく存在し。わたしはそれを見る。しかし,わたしにとっての故郷は,わたしの心の中の心象風景である。

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碌山美術館

2021-10-28 17:19:17 | 日記

墓参の余った時間を利用して,穂高の碌山美術館を訪ねた。

美術館入口。10月25日撮影。「鐘の鳴る岡」のモデルになったとされている。

安曇野にはたくさん美術館があるが,高橋節郎記念美術館と並んで,この美術館が一番好きだ。

明治12年(1879年)に,当時の南安曇郡穂高村で生まれ,30歳で夭折した天才彫刻家,荻原碌山の珠玉の作品が並べられている。

重要文化財の「北条虎吉像」も素晴らしいが,やはり,同じ重文の「女」に目が行き,そこから離れがたくなる。わたしの言葉ではその素晴らしさは表現できない。言葉にすると嘘っぽくなる。素晴らしい,の一言にすべてを籠めたい。

この作品は,新宿中村屋の創始者で碌山の理解者,相馬愛蔵の妻,黒光への思慕がモチーフと言われることがある。そのことについて,畏友にして画家/彫刻家のF・Y君に訊ねたところ,そんな邪念はどうでもよろしい,とたしなめられた。

荻原碌山(守衛)を含む,安曇野の青春群像は,臼井吉見『安曇野 1~5巻』(ちくま文庫)に,小説として描かれている。碌山美術館には,その小説から受ける明治の雰囲気を感じる。

労働者。碌山美術館にて10月25日撮影。

入場者案内パンフレットより

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学童集団疎開の碑

2021-10-27 17:20:03 | 日記

わが家の菩提寺,無極寺の山門の脇に,「学童集団疎開の碑」が建てられている。

2021年10月25日撮影。

1944年(昭和19年)8月,わたしの在学していた和田村立国民学校に,世田谷区立奥沢国民学校の3~6年生の生徒74名が,二人の訓導に引率されて,集団疎開してきた。

当時,わたしは3年生で,初めてまみえる「東京の子」たちは,まぶしかった。F・M 君はその中でも目立つ存在だった。後に,雑誌記者からその時の印象を訊ねられて,「明智小五郎の助手の小林少年のよう」と答えた記憶がある。

嬉しいことに彼とは親しくなることができた。日曜日にはわが家によく遊びに来てくれて,垢抜けした彼の話を聞くのが楽しかった。

F君は,1945年11月に疎開児童が東京に帰った後も,時々当時の恩師のお宅を訪ねて来て,たまにわたしと会うこともあった。

大学に入学して最初のクラスコンパの時に,話が疎開のことに及び,わたしの村に集団疎開の子供たちが来たことを口にしたら,同級生の一人から,「いじめたんだろう。」と難詰された。もちろん冗談交じりではあったが,やはりかなりのショックを受けた。

その数日後,F君から連絡があって,わたしの歓迎会をするので,彼の自宅に来て欲しいとのことだった。当日は,10人近くの元疎開児童が集まり,旧交を温めた。わたしはクラスコンパで受けたショックから,救われた思いがした。

F君はその後,疎開者で作る「奥沢和田会」の創設に参加し,東京の和田出身者や和田地区(旧和田村)との交流を続けてきた。和田近隣の小学校で,自身の疎開経験を講演し,その記録は教材として使われているという。残念ながら,F君は3年前に亡くなった。

「学童集団疎開の碑」は,奥沢和田会によって,1987年12月に建立された。両親から離れ,寺の本堂を宿舎として,信州の厳しい冬をまたいだ1年3ヶ月の生活は,筆舌に尽くせない厳しいものだったろう。にもかかわらず,和田を第二の故郷と言ってくださる気持ちを,わたしは尊いものだと感じる。

「学童集団疎開の碑」に込められた思いを受け止め,このようなことが2度と起こらないように心しなければならない。

碑の裏面には,疎開してきた児童と訓導,全員の名前が記されている。2021年10月25日撮影。

無極寺本堂。疎開児童の宿舎だった。2021年10月25日撮影。

 

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故郷

2021-10-26 16:33:12 | 日記

一昨日から,一泊二日で松本に行ってきた。

常磐線,北陸新幹線,篠ノ井線と乗り継いで,松本着。その晩は浅間温泉の「梅の湯」に投宿して,二年ぶりに会った姉妹と,深夜まで四方山話に花を咲かせた。

翌日は早朝宿を出て,霧雨の中,二年ぶりに両親の墓に詣で,菩提寺の「和上山無極寺」で,住職に母の二十三回忌の回向をしていただき,来た時と同じ経路で帰宅した。

気になっていたことの一つを片付けることができた。

列車は20%程度の混み方で,宿は家族連れなどで結構にぎわっていた。

松本駅のホームに吹く風は冷たかった。

浅間温泉から西方を望む。谷間の奥に,かすかに乗鞍岳が見える。10月25日撮影。

生まれ育った村から東方を望む。美ヶ原が霞んで見える。10月25日撮影。

南無阿弥陀仏。無極寺にて,10月25日撮影。

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記憶喪失

2021-10-23 17:08:44 | 日記

記憶喪失

今週の『おんがく交差点』で,ゲストの芹洋子さんが記憶喪失になった話を聞いて,自分の経験を思い出していた。

大学1年生の3月に,白馬山麓のスキー場に友達と出かけた。ゲレンデの一番上から滑り出し,左に曲がって右に曲がりかけたところまでは覚えている。そこから記憶が切れる。友達の呼ぶ声が聞こえて,霧が晴れるように視野が広がり,心配そうにのぞき込んでいる友達の顔が見えた。

友達の話では,わたしの姿が見えなくなったので探していたら,ゲレンデの木の下で,スキーを横にたてて,「俺は誰だろう。どこにいるのだろう。」と,ぶつぶつ言っているわたしを発見したそうだ。顔にけがをしていた。多分人にぶつかって転倒し,誰かが安全な木の下まで連れて来てくれたのだろう。

友達が早く発見して,名前を呼んでくれたから記憶が戻ったのだろう。あのまま記憶を喪失していたらどうなっていたかと,ぞっとする。

どうでもいい話だが,芹さんの持ち歌「四季の歌」の歌詞の「秋」のところに,「ハイネのような僕の恋人」というフレーズが出てくる。ハイネは男性なのに,なぜ「僕」の恋人なのか,いつも不思議に思っている。

 

墓参り

コロナ感染者数の谷間を縫って,明日から郷里の墓参りに行ってくる。

安曇野から常念岳を望む。2018年撮影。

 

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ピアニスト

2021-10-22 17:04:18 | 日記

ピアニスト

ョパン国際ピアノ国際コンクールで,反田恭平さんが2位,小林愛実さんが4位にそれぞれ入賞した。快挙だ。お二人とも,テレビの音楽番組で時々拝見・拝聴し,親しみを覚えていたので,とても嬉しい。

ピアノのコンクールについての本は,記憶の範囲で,中村紘子さんの『チャイコフスキー・コンクール ピアニストが聴く現代』(中央公論1988)と恩田 陸さんの『蜜蜂と遠雷』(幻冬舎 2016)の2冊がある。

中村さんは,ご自身がチャイコフスキー国際コンクールの審査員を務めていただけあって,貴重な裏話について,エッセイストとしての健筆が揮われていて,興味深く,面白く読んだ。特に,第1回優勝者のヴァン・クライバーンについて,アメリカンドリームの栄光と挫折というような論調で紹介していたのが印象に残っている。

恩田さんの小説は,5年間の徹底的な取材と,自分もピアノに挑戦したという努力の裏付けがあったとのことで,それぞれのコンクールの場面が迫真の筆で描かれ,圧倒された。登場するピアニストたちの演奏についての描写が,全くの空想か,それとも実際のテクニックに根差しているものか,わたしにはわからず,クラシックとジャズの二人のプロピアニストに読んでもらい,感想をうかがったところ,二人とも絶賛されていた。

国際コンクールでの競い合いは,想像を絶する壮烈なものであろう。あらためて,反田さんと小林さんに,おめでとうと申し上げたい。

 

秋そば

そば畑の向こうに筑波山を望む。10月22日真壁にて撮影。

秋そばが稔りの時期を迎えている。茨城は,全国屈指のそば産地で,そば好きのわたしは幸せである。いろいろな品種が栽培されているが,「常陸秋そば」は,茨城県農試が育成し,1978年に発表した品種で,20年余りの間,独自のそば品種を持つ全国唯一の県として,自慢のたねであった。

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ミミズ農法

2021-10-21 17:20:04 | 日記

キューバのミミズ農法

昨日に続いてキューバの話を書く。

2009年に,メキシコ経由でキューバに観光旅行に行った。行く前に,吉田太郎著『200万都市が有機野菜で自給できるわけ 都市農業大国キューバ・リポート』(築地書館 2002年)を読んで,キューバが有機農業先進国であることを知り,現場を見学したいと思った。

1991年のソ連崩壊に伴い,キューバは輸入に頼っていた燃料,農薬,化学肥料が不足になり,食糧危機に陥った。それを克服する一環として,都市近郊に有機農業による菜園を展開し,消費者に野菜を供給してきたという。その有機農業の主役がミミズ農法である。

現地ガイドさんにお願いして,半日を割いて,ハバナ近郊にある農園を見学した。

農園の入口。聞きそこなったが,多分農協組織になっていると思う。高品質の野菜,果実などの農産物が宣伝されている。

土が盛られたコンクリート枠が並んでいて,この中でミミズを繁殖させる。

土には,砂糖の搾りかすなどの有機廃棄物が混ぜられ,ミミズの餌にする。

ミミズが十分繁殖したら,その土壌を畑に運んで肥料とする。

農園では,立派な葉菜が育てられていた。

詳しいデータを聞くことができなかったが,見学したところは,実に見事に管理されていた。

ネットで調べてみると,キューバの有機農業は,礼賛され過ぎているという批判的意見もあるが,都市近郊の空き地を利用して,ユニークな農法を開発し,食糧危機を克服しようとした意気込みは立派だと思う。

自信に満ちたリーダーの話し方と,働いている人たちの明るさが印象に残った。

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ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ(映画)

2021-10-20 17:39:54 | 日記

テレビの画面を撮影

Buena vista social club (BVSC)の映画を観た。何回観ても面白い。

アメリカの作曲家・ギタリスト・音楽プロヂューサーのライ・クーガーが,キューバと北アフリカのアーティストのセッションを計画したが,アフリカのメンバーが来られなくなり,代わりに,もう引退して忘れられかけているキューバのミュージシャンを招集して,Buena vista social clubと名付けてアルバムをリリースしたところ,これが大ヒットし,1997年のグラミー賞を獲得する。そして,ワールドツアーに出かけ,ついにはアメリカのカーネギーホールで演奏する。映画は,CD録音,1998年4月のアムステルダム公演,そして,同年7月のカーネギーホール公演の模様のドキュメントである。

BVSCのメンバーの年齢は60~90歳。わたしはこの映画で初めて名前を知ったが,90歳のギタリストコンバイ・セグンド,80歳のピアニストルーベン・ゴンザレス,ボーカルのオマーラ・ポルトゥオンド(65歳),エリアーデス・オチョアなど,歳を感じさせない見事な演奏を聴かせてくれる。

映画にはところどころにハバナの街角や,メンバーのニューヨークを散歩する姿などがはさまれ,メンバーの個人史も紹介される。特別の教育を受けず,育った環境の中で身につけたリズムやメロディーが,体からほとばしり出るような年季を経た演奏で,それが共鳴し合い,ソン,ボレロ,サルサの,これぞキューバという音楽が全編を通じて流れている。

あの時代に,キューバ人がアメリカのビザを取得するのは大変だったと思うが,カーネギーホールの最上階まで埋め尽くした聴衆を前に, ¡ Qué linda Cuba!(キューバは何て素晴らしい)と歌い上げ,スタンディングオベーションを何回も受ける。そして,最後には舞台でキューバ国旗を,堂々と掲げる。

舞台と聴衆との間に生まれる熱狂は,アメリカとキューバの外交関係などどこかに吹き飛んだ,爽快感を覚える。音楽はやっぱりすごい。

 

 

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