さらば塩川喜信君
塩川喜信・啓子夫妻の散骨に行ってきた。今年は喜信君の死後7年目,啓子さんの七回忌に当たるそうで,もうそんなに経つのかと思った。喜信君は生きていれば,米寿を迎えたはずである。
在りし日の塩川夫妻(2016年1月撮影)
ご遺族の許可を得て掲載
散骨の前日は喜信君の命日にあたっていて,夫妻をしのんで参列者が夕食を共にした。4人のお子さん始め,ご遺族の皆さんが,夫妻の思い出をそれぞれ大切に心に温められていることを知り,とてもうれしい気持ちにさせられた。
以下,塩川喜信君の思い出を記して,あらためて彼を追悼したい。
彼を初めて間近に見たのは,1958年大学4年の時,東大の銀杏並木の集会で演説をしている時だった。ダンディーでおしゃれな彼は,「ダブルの背広の全学連委員長」と言われていたが,その時もダブルのスーツできめていた。アジテーション演説ではあったが,極めて論理的で,引用する話が状況にぴったりで説得力があり,学生運動家の絶叫型とは大きな違いがあった。
その後,何回も彼の演説を聞いたが,「すべての論理はアジテーションである」といった羽仁五郎の言葉を,いつも彷彿とさせるものだった。
彼は,文学部の東洋史学科から,農学部の農業経済学科の大学院に進学した。この学科には,わたしが親しくしていた友人が何人もいたので,彼らを通じて塩川君と言葉を交わすようになった。わたしにとって彼は伝説上の人物で,はじめはやや腰が引けたが,その気さくさにすぐ打ち解けることができた。
ほぼ同時期に助手となり,1960年代末から70年代にかけての大学の激動期に,苦楽を共にすることになった。
確固たる信念に基づく明晰な状況判断で,彼は常にリーダーだった。共通の友人の一人が,「生まれながらにして将たる器」と彼を評していたが,至言である。
しかし,彼は好んで人の上に立とうとせず,泥臭さに徹しようとしていた。ある時彼に,「君は器用さを承知しながら不器用に振舞っているんだね」といったら,「分かってくれるか」と答えた。
彼の大きな特徴の一つは,包容力である。論敵であろうと,失礼なことをいう相手であろうと,決して拒絶せず,相手の立場を認めて包み込んでいた。
その包容力と識見から学生たちにも慕われ,彼の自宅はいつも訪問者であふれていた。啓子夫人はそれに決して嫌な顔を見せなかった。わたしも彼の家で夜を徹し,朝飯をご馳走になったことが何度かある。
60代になって,彼は何度も病魔に見舞われた。しかし,生来の明るさから,それを克服した。舌癌に罹って,放射性のコバルト60の針を舌に刺し,隔離されたことがある。「これで本当の危険人物になったね」と冷やかした。
最後は,間質性肺炎で力つきた。彼の温かい友情で,わたしは何度救われたことか。
散骨の後,心をこめて「コンドルは飛んで行く」をコカリナで吹いた。
君を友として持てたことは,わたしにとって得難く,そして大きな誇りである。
さらば塩川喜信君。「あの世」というものがあるなら,また会おう。
STOP WAR!