羽花山人日記

徒然なるままに

多様性

2021-09-30 17:23:40 | 日記

大変不明のことだが,AERA ’21.No.42の記事を読むまで,日本の大学にアフリカ出身の学長がいることを,わたしは知らなかった。

京都精華大学学長のウスビ・サコさんである。1966年生まれで,アフリカのマリ共和国出身。中国に留学し,大学・大学院で建築学を学んで来日し,京都大学の研究生を経て大学院工学研究科に入学する。博士課程を修了して学位を取得し,2001年京都精華大学の教員となる。同学人文学部長を経て,2018年に学長に就任した。この間に日本女性と結婚し,日本国籍を取得している。

サコさんは自らの経験を踏まえて,大学で学ぶことは,自分自身を変化させ,本当の自分に出会い,気づくための場である,と学生に教え,世界に向けて羽ばたかせている。一つの国に複数の文化が共存してまじりあい,認め合うことが,真のグローバル社会に生きる上で非常に重要だと考え,京都精華大学を真の共生を学べる大学にしたいという。

サコさんは,自身を「私はマリ人であり,マリ文化を持った日本国籍の人間であることを自覚している。日本の多様化を体現する例として私がいると自覚している。」と語っている。

今,労組総連合の会長に芳野友子さんが就任することが話題になっている。外国人の学長や,女性の労組トップが珍しがられるようでは,日本における多様性や男女共同参画はまだまだということだろう。

前に引用した,生まれつき両手のないスウェーデンのゴスペル歌手レーナ・マリアさんのことば「障害者が頑張っているのを当たり前の日常だと思うようになることが,障碍者差別のない社会である。」の,障害者を外国人あるいは女性に置き換えてみればいい。

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コシヒカリ

2021-09-29 16:58:33 | 日記

コシヒカリ

8月阿見町にて撮影

わが家は,今月に入って新米を食べている。茨城県産のコシヒカリ。値段が手ごろで,コシヒカリであれば,ほぼ間違いなくおいしいご飯が炊けるので,カミさんが選んで買ってきた。

コシヒカリは,二重の意味で奇跡のコメである。ひとつは半世紀近くにわたって,水稲作付面積日本一の座を占め続けていることである。もうひとつは,世に出た過程が,奇跡としか言いようがないことである。

1944年,水稲農林22号×農林1号の交配が,新潟県農事試験場で行われた。狙いは,当時新潟県のリーディング品種であった早生の農林1号の欠点である,いもち病に弱い性質を克服することであった。

1947年に,福井県農事改良実験所で水稲の育種が開始されることになり,各育種試験地に余っている雑種種子を福井県に譲渡するよう要請があった。新潟県は捨てるつもりだった,上の交配から得られた雑種第二代の20個体を,福井県に送った。

福井で育種を担当したのは石墨慶一郎氏で,彼はもともと農芸化学の出身で,育種は専門外であった。教科書通りに,譲り受けた20個体から世代を進め,1950年に雑種第五世代の5系統を選抜した。

その中の1系統は,交雑当初の目標通り,いもち病に強い早生で,たちまち農林番号(農林省が国の品種と認めて付与する番号)と,ホウネンワセという品種名をもらい,広く栽培されるようになった。

残りの4系統のうち,石墨氏がなんとなく残した1系統は,いもち病には弱く,中生で,倒れやすいという,芳しくない性質を示していたが,穂の熟れ上りがきれいで,ほかに材料がなかったので,1953年にこの種子を他県の試験場に配布し,検討を依頼することにした。

結果はさんざんで,最低の評価しか得られなかったが,新潟県と千葉県だけはこれを奨励品種に採用し,その結果,反対の声もあったが,1956年に水稲農林100号という番号をもらい,コシヒカリと命名された。農林1号から数えて国が育成した100番目の水稲品種である。

その後も,コシヒカリの評判はさんざんで,辛うじてほかに適当な品種がない地域で,細々と栽培が続けられた。そして,米余り,自主流通米制度の登場,米自由化という時代の流れの中で,その味の良さが,業者や消費者に認められるようになり,1979年,品種として名前をもらってから23年経過して,コシヒカリはようやく作付面積日本一の座を占めたのである。

コシヒカリは,早生でいもち病に強い品種をと交配された農林22号×農林1号から見れば,鬼っ子である。いもち病に弱く,中生で,草丈が高くて倒れやすく,なんでこんな品種が生き残ったのか。失礼な言い方だが,わたしには,育種を担当した石墨慶一郎氏が,素人だったからではないかと思われる。水稲育種の専門家の何人かから聞いたことだが,プロならばコシヒカリのような特性をもった系統は,絶対に選抜しないだろうということだ。

コシヒカリは選抜の過程で,品質/おいしさについては,全く検定されていない。作っている農家が自家飯米としておいしいので使い,卸売り業者が高く売れるので求めるようになったのである。

世界一おいしいコシヒカリは,幾重にも重なる奇跡を通ってわれわれの前にある。この奇跡に感謝しよう。

なお,コシヒカリの歴史には,ここに書かなかったいくつもの人間臭いドラマが絡んでいる。酒井義昭著『コシヒカリ物語 日本一うまい米の誕生』中公文庫(1997年)に,その経緯が詳しく述べられている。

 

新総裁

自民党の新総裁に,岸田文雄氏が選ばれた。阿部一強政治に訣別できるか,注目したい。

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二つの引退

2021-09-28 17:39:58 | 日記

二つの引退

メルケル首相

選挙の結果が多党化で,次期政権発足まで時間がかかりそうだが,ドイツ連邦首相メルケルさんの引退は確定している。

体から滲み出すゆったりした雰囲気,そして安定感から,カミさんもわたしも彼女のフアンだ。国際的にも重鎮で,会議の折に当時のトランプ大統領をたしなめる姿は,がき大将に説教する母親のようだった。

昨年3月13日の,新型コロナのパンデミックに際して国民に訴えた演説を読み直してみた。リンカーン大統領のゲティスバーグ演説を彷彿とさせる。

メルケルさん,16年間お疲れ様でした。コロナが収まったら,日本に遊びに来てください。

 

白鵬関

復帰に向けて粘りに粘ったようだが,矢折れ球尽きたのか,白鵬関が引退を表明した。さすがの大横綱も怪我には勝てなかった。だが,その名は燦然として残る。

張り手,かち上げの取り口は好きではなかったが,勝負に対するハングリー精神は,大関まで行って挫折することの多い,日本人力士に是非学んで欲しい。

それにしても,外国人のお相撲さんの日本語は,どうしてみんなあんなに上手なのだろう。

 

駄洒落

犬の訓練は,英語でするのがトレンドらしい。なるほどと思った。犬は「ひとつ」と言わずに「ワン」と鳴く。失礼!

 

夕焼け

ベランダから9月27日撮影

台風16号北上中。嵐の前の静けさ。

 

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認知症

2021-09-27 17:18:58 | 日記

認知症

テレビの認知症についての特集番組2本をビデオで見た。ひとつは,自らが認知症になってしまった認知症研究第一人者の医師の記録,もう一つは四国のある町にある,認知症の当事者あるいは家族がお互いに話し合う相談所の記録である。

幸いなことに,カミさんもわたしも,物忘れは多くなったが,認知症にはなっていない。そして,ならないように努力している。だから,自分のこととしてではなく,客観的にこの番組を見ていた。

しかし,印象に残った言葉がいくつかある。認知症の医師は,認知症になると,人生の余分なものがはぎとられるという。この医師は,現役時代に,家族の負担を減らすために認知症患者のデイケア制度を提唱し,自分の所属していた病院に施設を作った。自分が認知症になり,家族の負担を減らすために,デイケアに通うことを始める。しかし,すぐに行くのは嫌だ,つまらない,あそこでは孤独だと言い出し,止めてしまう。やはり,研究者・医師としての尊厳が残っていて,患者としての自分を客体視することを妨げているのではないだろうか。

もうひとつは,認知症患者はきついことを言われると,普通の人より,二倍も三倍もこたえるという,患者さんの告白である。患者さんには人格があり,ほかの人のことを気遣っている自分に対する歯がゆさがあるのだ。

実はこの番組を見ながら,母のことを思い出していた。わたしは晩年の母を手元に引き取り,一緒に暮らしていた。母は一人で生まれた家にいると頑張っていたが,ある日割烹着の袖に焼け焦げを見つけて,半ば強制的に連れてきた。生活環境の変化が,少しかかり始めていた認知症を進行させたようだ。やはり手のかかることが多くなり,カミさんの負担を減らすためにと,デイケアや,ショートステイを利用した。あまり聞き分けが無くて,わたしが声を荒げてしまうこともあった。

テレビを見終わって,あらためて心の痛みを覚えている。

 

ガリレオ温度計の球が一つ上がった。

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うたコン

2021-09-26 15:11:07 | 日記

コカリナコンサートには欠かせないボーカリスト,矢口周美さんの「うたコンサート」が昨日開かれた。ちょっと迷ったが,東京都,千葉県の両知事のお目こぼしを願い,二つの県境をまたいで,思い切って参加した。

不織布のマスクをもう一枚で覆う二重マスクをつけ,常磐線の往復はグリーン車を奮発し,駅で降りるたびにトイレで手洗いをした。東京,四谷間の中央線が怖かったが,幸いにも優先席に一人で座ることができた。

会場の紀尾井会館は,徹底したコロナ感染対策で,一つ置きの座席はほぼ満席になった。聴衆の大部分はコカリナ愛好家で,会場にはファミリア―な雰囲気が流れていた。

夫君のコカリナ奏者,黒坂黒太郎氏を従えて登場した周美さんは,先ず『上を向いて歩こう』,『夜明けの歌』と馴染みやすい曲で,たちまち歌の世界にわたしをいざなってくれた。

後半には,コカリナ協会公認講師によるアンサンブルが登場し,舞台を盛り上げた。中でも,パブロ・カザルスが編曲し,国連総会で演奏して世界を魅了した,カタロニア地方のクリスマスキャロル,『鳥の歌』は圧巻だった。低音のバスコカリナのメロディーのユニゾンに始まり,その和音をバックに黒坂氏の奏でるソプラノコカリナをまじえた,周美さんの歌声はいつにも増して素晴らしかった。

最後の曲は周美さん十八番の『一本の木』。普段なら聴衆も和して歌うのだが,コロナ感染予防で声は出さず,周美さんに合わせて,出来る人は手話で和していた。

周美さんの笑顔に見送られて会場を出た。頬に当たる風は秋風だった。

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オードリー・ヘップバーン

2021-09-25 10:38:13 | 日記

久しぶりに『ローマの休日』をビデオで観た。オードリー・ヘップバーンの映画は十数本観ているが,楽しさではこれが最高だ。グレゴリー・ペックの相手役として,オードリーは1953年にハリウッド映画に初登場し,その年のアカデミー賞主演女優賞を獲得した。

ウイリアム・ワイラー監督が得意とする,大人の童話のロマンティックコメディーで,随所に見られるちょっとしたしぐさが笑わせる。ローマに旅行した時は,カミさんと二人で,トレビの泉でジェラートを食べた。

オードリーは,ハリウッドの名だたる男優をほぼ総なめにしている。ゲイリー・クーパー,ケイリー・グラント,ハンフリー・ボガード,ヘンリー・フォンダ,ウィリアム・ホールデン,メル・ファーら―,バート・ランカスター,フレッド・アステア,等々。わたしには,これらの超スターたちが,彼女と共演して,さらに箔をつけたように見えるが,これは身びいきであろう。

彼女は少女時代,ナチスドイツ占領下のオランダで,苦しい生活を強いられた。『アンネの日記』の主演を振られた時は,戦争時代を思い出したくない,アンネの一生でギャラをもらうわけにはいかないと,断っている。晩年になって,ユニセフの活動に力を入れ,親善大使として世界の紛争地域を訪れている。

“魅力的な唇になるために、優しい言葉を話しなさい

愛らしい瞳を持つためには、人の良いところを探しなさい

スリムな体型のためには、お腹を空かした人に食べ物を分けてあげなさい”

1993年1月,63歳で亡くなったオードリーが,死の床で息子に読み聞かせたといわれる,詩の一片である。

机の横の壁にいつも貼り付けているオードリーのピナップ。マリリン・モンローも一緒だ。娘からの60歳の誕生祝い。

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男女共同参画

2021-09-24 17:39:23 | 日記

男女共同参画

わたしは日本育種学会に所属している。学会では,新しい代議員の選挙が行われていて,それに関連して,男女共同参画推進委員会から会員宛に,次の要旨のメールが届いている。

「育種学会の一般会員の女性比率は14.1%であるのに,代議員は7.5%しか女性がおらず,この比率は他の学会と比較して高いといえず,せめて一般会員の女性比率と同等かあるいはそれ以上にしたい。選挙に当たってはその点をご理解願いたい。」

わたしは,学会内で男女共同参画を図ることは大変結構だし,委員会のご努力は多とするが,このメールにはいささか違和感を覚える。

政府の肝煎りで進められている男女共同参画の趣旨は,いろいろな事業や場面において,性の違いによらず,能力に応じて平等に参画できるように環境を整え,それを推進するということであろう。確かに,事業への参画における性比は,共同参画実現のメルクマールになるかもしれないが,それは結果であって,数を合わせればいいという問題ではない。

わたしが今回のメールで知って,もっと重要だと思ったことは,女性の学生会員比率が28%であるのに,一般会員になるとそれが半減していることである。大学院を終えて研究職になるチャンスが,女性に不利になっていることを示しているのではないだろうか。また,一般会員でも,女性は代議員候補にふさわしいと考えられる年齢まで,研究を続ける機会が制限され,その結果女性代議員の比率が落ちているのではないだろうか。

いろいろなところで行われている男女共同参画事業において,数合わせだけに腐心し,それがかえって,組織や事業をゆがめることにならないことを願う。

 

エアコン

10年以上使っていたエアコンにガタが来たので,思い切って新品に取り換えた。リモコンにに,「AIおまかせと」いうチョイスがあるのが目新しい。耐用年数は10年から15年。わたしより長生きしそうである。

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ブラックボックス

2021-09-23 17:19:01 | 日記

ブラックボックス

銀行のATMシステムや,原子力発電所のセキュリティ対策の,不具合や不備が報道されている。

恐らく,こうした複雑で巨大なシステムは,外部への委託あるいは発注によって構築されているだろう。発注した側にとっては,どのような構造・仕組みによって,システムが機能しているかを,詳細に理解することは恐らく不可能だろう。極端に言えば,納入されたシステムのインプットとアウトプットが注文通りに機能していることを確認すれば,それでよしとするしかない。その過程は,いわばブラックボックスである。

十数年前に,わたしはマンションの大規模修繕委員会の委員長を委託された。管理組合は,担当業者を入札で決めるように決議していた。どんな手続きで実施するのか,わたしも委員のみんなも初めての経験であった。結局,管理会社の助言でことを進め,入札公募のための仕様書も管理会社に委託した。入札の結果,管理会社が落札し,工事が行われ,無事終了した。この過程での管理組合と管理会社との間にある,信頼関係が重要だったと,わたしは思っている。

不具合や不備がおきたシステムにおける,発注者と受注者との関係はどうだったのだろうか。わたしたちの周りに,ブラックボックスのシステムはたくさんある。今使っているパソコンもそうである。メーカーを信頼して購入し,利用している。

しかし,そうした信頼が虚構だったり,悪用されたりしたらどうなるだろう。時々ぞっとした思いに駆られることがある。

 

秋茄子

9月23日阿見町にて撮影

8月に剪定した木から新しい枝が伸び,秋茄子が実を結び始めた。

「秋茄子を嫁に食わすな。」の含意は,二通り聞いている。「こんなうまいものを食べさせてはいけない。」「気温が下がって,果実に種が少ないので,子ができなくなる。」どちらも,女性にとっては屈辱的である。

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松茸

2021-09-22 17:35:17 | 日記

松   茸

本物である。松茸山の入会権を持つ姉が送ってくれた。ラッキーである。今年は豊作とか。松茸は多雨で稲のできが悪い年が当たりなので,「不作ぼっこ」と言われる。

子どものころ,松茸はおやつだった。濡れた和紙に包んで,いろりで蒸し焼きにするのが好きだった。

花崗岩を母岩とする山の,アカマツ林が松茸の適地とのことである。松林の減少に加え,落ち葉かきなどの林床の手入れが悪くなり,生産量が減って貴重品となった。

シイタケやエノキダケとちがって,松茸は生きた松の根に菌根菌を伸ばすいわゆる活物寄生なので,人工培養が難しく,菌糸の培養は出来ても,子実体(キノコ)が形成されないらしい。以前,盆栽の松の根から松茸が一本出ている写真を新聞で見たことがあるが,人工培養というには無理だった。

培養が成功し,松茸がシイタケ並みの値段に早くなって欲しいが,生きている間は無理かもしれない。

 

秋の空

9月22日,阿見町にて撮影

男心?女心?「男心と秋の空」が江戸時代に先行して,「女心と秋の空」が,明治・大正・昭和と,女権拡張に連れて定着したらしい。

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思い出の友

2021-09-21 20:40:35 | 日記

思い出の友

K・W君のことをふと思い出した。

彼がわたしの村に転入したのは,中学1年の時だったと思う。両親が亡くなり,天涯孤独となって,叔父さんの家に世話になることになったと聞いた。

歳が1つ上で,体格がよく,しかも運動神経が優れていたので,たちまち花形になった。同じ組で,なんとなくウマが合ってよく話をした。

3年生の時に,正捕手で主将の彼から,野球部のマネージャーを頼まれ,帰り道が同じ方向なので,練習の後ほぼ毎日一緒に帰った。

勉強も良くできた。叔父さんに内緒で彼は,高校の夜間部を受け,合格した。しかし,叔父さんからは許してもらえず,東京に就職することになった。

卒業式の翌々日,彼は近くの私鉄の駅から,行李一つ持って東京へ旅立った。彼を駅に送った帰路,わたしは涙をこらえることができず,家に帰って自分の部屋で声をあげて泣いた。

大学に合格して東京に出て,彼の働いているところに電話した。彼は大変喜んで,遊びに来いと誘ってくれた。大井町駅近くの大きな中華料理屋だった。彼は,親方に,大学に入った友達だ,とわたしを紹介した。親方は,蟹玉をご馳走してくれた。こんなにうまいものは食べたことがないと思った。

その後も,頻繁ではないが,時々電話で話したり,会ったりした。大学がどんなところか見たいというので,研究室に来てもらって,構内を案内したこともある。

40歳前後のころ,彼は小田急線の沿線に店をもった。お祝いをもって遊びに行った。立派な中華料理店で,2階が私宅になっていた。奥さんとお子さんたちにも紹介してもらった。近くに大学があって,教職員や学生で結構にぎわっているとのことで,本当に良かったと,嬉しかった。

その後,時々電話で話すことはあったが,会うことはなかった。55歳ころ,中学同級会の幹事から,K・W君に出した案内状が,受取人不明で戻ってきたとの連絡が入った。早速彼に電話をしたが,全く通じなかった。その後,3・4回かけた電話は,すべて不通だった。

以来,彼の消息はわからない。K・W 君はどうしているだろうと,時々考える。

 

中秋の名月

9月21日,ベランダからスマホで撮影。

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