羽花山人日記

徒然なるままに

黒坂黒太郎50周年記念コンサート

2024-06-30 20:11:21 | 日記

黒坂黒太郎50周年記念コンサート

東京のティアラこうとう大ホールで行われた「黒坂黒太郎(正文)50周年記念 歌とコカリナコンサート」に行ってきた。

黒坂黒太郎さんは前にも紹介したことがあるが、日本コカリナ協会の総帥で、コカリナ演奏の第一人者である。

1949年生まれ。長野県上田市の出身で、早稲田大学在学中にシンガーソングライターとしてアーティストの活動を始めた。

ハンガリー旅行中に夜店で木の笛に会い、その音色に魅せられて日本に持ち帰り、工夫に工夫を重ねて改良し、1995年にコカリナと名付けて発表した。広島の原爆被爆樹から作ったコカリナの演奏で、一躍その名を広めた。

黒坂さんはコカリナ演奏第一人者であると同時に、優れたオルガナイザーとして活躍している。日本コカリナ協会を創設し、指導者を養成し、コカリナ愛好家を組織して日本はもとより、中国、オーストリア、アメリカ、スペインなど世界各地で演奏会を開いている。

機を見るに敏で、長野オリンピックでは小学生のコカリナ隊を開会式に登場させ、国立競技場の改修で伐られた木をもらい受けてコカリナを作り、かつての神宮競技場から戦地に送り出された学徒を偲んだ。東日本大震災など、国内外の災害にはチャリティーコンサートを開いている。信念・実行の人である。

会場に着いてみると入り口は長蛇の列、1200余の客席はほぼ埋まっていた。

第一部は黒坂さんの弾き語りで始まり、50年間の思い出とともに、それぞれの歌に込める思いを語った。そして、パートナーでボーカリストの矢口周美さんがこれに和した。彼女が歌う“You raise me up”はいつ聴いても素晴らしい。

第二部は、160名からならコカリナ大オーケストラによる交響詩『故郷』で始まった。

この交響詩は、岡野貞一作曲の唱歌『故郷』を基底とする三部作で、のどかな村が戦争に脅かされつつ、平和を取り戻すという物語を紡いでいる。

圧倒的なコカリナの響にピアノとパーカッションが効果を副え、なかなかの演奏だった。

例によって黒坂さんのコカリナ超絶技巧の披露があり、最後は「なぜ私が」というモノローグ風の歌曲で締めくくられた。

しみじみとしたいいコンサートだった。

新しく楽器を開発し、それを普及させるという例はあまりないのではないだろうか。黒坂さんの足跡に敬意を表する。まだ75歳。わたしから見れば前途遼遠である。築き上げた黒坂キングダムをさらに強固にし、外に向けてコカリナを広め、日本、そして世界の大衆に定着させることを期待する。

 

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大いなる西部(映画)

2024-06-28 20:08:03 | 日記

大いなる西部(映画)

ビデオに収録したのを観た。

名匠ウィリアム・ワイラーが監督したこの西部劇を最初に観たのは学生時代である。友人のK・Y君が勧めてくれた。

K君とは同じ陸上部に属したので、大学入学後すぐ知り合い、友達になった。竹を割ったような性格で、「ナイス・ガイ」という表現がぴったりだった。4年生の時は主将を務めた。10年以上前に亡くなり、もう会えないのが残念である。

彼は、実のところ強いのだけれどそれを表に出さずにふるまっている男が好きで、『大いなる西部』にはそうした人物が登場するので是非観るようにと勧めてくれた。

その人物を演じたのがグレゴリー・ペックである。わたしの大好きな俳優の一人で、彼が演じた映画で最も有名なのは『ローマの休日』だろうが、わたしは『子鹿物語』と『アラバマ物語』で彼が演じた父親役が一番好きである。

映画は1870年代のテキサスが舞台で、そこに東部から元船長のジェームズ・マッケイ(グレゴリー・ペック)という男が、婚約者で大牧場主の一人娘パトリシア・テリル(キャロル・ベイカー)と結婚するためにやってくる。紳士然とした東部男に、西部の牧童たちは荒っぽい歓迎をするが、ジェームズはそれを意に介さない。絶対平和主義者で常に丸腰である。

しかし、自己の矜持はひそかに大切にし、しかけられた荒馬を乗りこなし、恋のさや当ては拳による格闘で決着をつける。

テリル家の牧場はヘネシー家の牧場と覇を競っているが、両者とも家畜の水飲み場を欠いている。そして、両者の中間に位置するビッグ・マディー牧場を流れる川を交互に利用させてもらっているが、何とかそこを独占して相手を追い落とそうと、ビッグ・マディー牧場の跡取り娘で教師のジュリ-・マラゴン(ジーン・シモンズ)を篭絡しようとする。

これを無益の争いとみたジェームズはジュリーと話し合い、ビッグ・マディー牧場を買い取り、両方の牧場に利用させる和平案を実現しようと考える。これに反発したパトリシアは、ジェームズとの婚約を解消する。

ところが、テリルによって水飲み場から牛を暴力的に追い払われたことに怒るヘネシーはジュリーを拉致し、牧場の権利を譲渡させようとする。

一方危機感を抱いたテリルは実力で相手を撲滅しようと、牧童頭の制止を振り切り、ヘネシーの拠点に押し寄せるが、防御線を張っていたヘネシー側と打ち合いになる。

ジュリーが拉致されたことを知ったジェームズは丸腰でヘネシー家に赴き、命の危険にさらされながらヘネシーを説得しジュリーを奪還する。

ヘネシーは私怨による争いの愚を認めつつ、その決着をテリルとの決闘で果たそうとテリルを呼び出し、二人は相打ちで倒れる。

争いの決着を見届けたジェームズとジュリーは、馬を並べて、ジェローム・モロス作曲の主題歌をバックに西部の大平原に向かっていく。

原題は“The Big Country”。映画の主人公はやはりテキサスである。

 

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サツマイモの花

2024-06-26 15:30:09 | 日記

サツマイモの花

昨日送られてきた「育種学研究」(日本育種学会和文機関誌)に村松幹夫さんへの追悼文が載っていた。4月26日に亡くなられ、享年95歳だったという。

村松さんは京都大学卒業後、長年岡山大学で教鞭をとられていた。学究という名前がぴったりの方で、定年後も自宅の竹林でタケの種属間雑種の研究をつづけ、学会で発表されていた。

村松さんは植物の開花についても研究され、わたしの専門分野と重なっていたので、学会でお会いしたような時に話をお聞きしたが、その中にサツマイモの開花についての話題があったことを記憶している。

植物は過酷な環境が迫ると花を咲かせ、種子を結んで生き延び、種の永続を図る戦略を持っている。花芽ができるまではできるだけ旺盛な生育をして多くの花と種子をつけるのが有利である。そのためには花芽の形成を始める時期をはからなければならない。その手掛かりは気温と日の長さ(日長)である。(湿度や降水量などの季節的変化も手掛かりとされるが。)

特に、日長の季節変化は年によってずれることがなく、信頼できる指標である。冬に向かって種子を結ぶ植物は日が短くなることが開花のシグナルで短日植物と呼ばれ、逆に夏に向かって開花する植物は長日植物と呼ばれる。

サツマイモは短日植物で、日本では沖縄を例外として花が咲く前に霜が降りるので、サツマイモの開花を見ることができない。以前沖縄に行ったとき、花盛りのサツマイモ畑を見て感激したことを覚えている。

植物の開花反応は日長と気温の交互作用に基づくモデルで説明できるが、サツマイモに関してはこれが一筋縄ではいかない。村松さんはサツマイモの開花反応についての仮説を作り、学会で発表された。以前このことについて意見を交わしたことがあったので、「ちょっと複雑で凝りすぎているでしょうか」と、発表後意見を求められたが、明確な感想は申し上げられなかった。

その後、わたしは、サツマイモの近縁種で、試験管の中で、培養している植物が連続照明下で花をつけ続ける突然変異体の存在を知り、取り寄せて大学院生のS・K子さんにいろいろと実験してもらった。

この植物は試験管から取り出しても花をつけ、アサガオに接ぎ木すると開花を促すなど、面白い現象がわかった。

おそらくこの変異体は、花芽分化を抑制する機構が損なわれていて、環境条件にかかわらず常に花成誘導物質を体内で生産していたのであろう。

サツマイモの開花生理を研究する材料としては面白いものであったが、在職中にもっと突っ込んだ研究ができなかったのが心残りである。

日本ではほとんど見ることができないサツマイモの花を写真に撮った方がいる。以前このブログで紹介した植松國雄さんである。植松さんはその著書『野菜の花写真館』(啓文舎 2021年)の中にサツマイモのきれいな写真を載せられている。

彼はわたしのカミさんの大学クラスメートのパートナーだったので、どこでこの花を見られたか伺おうと思っていたが、残念なことにこの本を上梓してから間もなく亡くなられた。

サツマイモの花についての思い出を書かせてもらった。

村松幹夫さん、植松國雄さんを偲んで、心からご冥福をお祈りする。

 

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堆肥葬

2024-06-24 20:21:48 | 日記

堆  肥  葬

近着の「AERA」に、『葬送に多様性を 渋谷でフェス』と題する記事が載っていた。

この4月に渋谷で、「Dethフェス」というイベントが6日間にわたって開かれ、約2000人が参加したという。この集まりの趣旨は、自分の死の扱い、葬儀を自由に多様化して考えようということだったらしい。

イベントを主催した市川望美さんと小野梨奈さんへのインタビューが記事の内容である。

イベントを開催しようとしたきっかけは、アメリカで行われている「堆肥葬」という葬儀を知ったことにあるという。

わたしは、寡聞にして、「堆肥葬」のことを知らなかったので、ネットで調べてみた。

「堆肥葬(コンポスト葬)」はアメリカのベンチャー企業が開発した葬儀方式で、2019年にワシントン州議会がこれを認める法案を可決し、2023年3月までに6つの州で法律が制定されているという。

遺体はマメ科植物のチップに包まれてプラスチックの容器に入れられ、発酵させられて30日で分子化される。土壌が加えられ、8~10週間で完成する。

遺体に含まれていた金属は取り除かれる。故人が伝染病にかかっていても、発酵温度が50℃くらいになるので、病原体はほぼ死滅する。

1体から約85リットルの土壌ができ、遺族に渡される。希望者は保護林の土壌に混入することができる。

費用は5500ドルで、ほかの葬儀方法に比べて高くはない。

環境問題に関心のあるヨーロッパからも引き合いがああるという。

「堆肥葬」の売りは、環境にやさしく遺体が自然に還るということである。

確かに、火葬に比べれば遺体処理に伴って放出する二酸化炭素量は少なくなるだろう。しかし、「堆肥葬」のための器具制作やもろもろの準備に伴って放出される二酸化炭素を考慮するとどのくらい少なくなるのだろうか。アメリカやヨーロッパに多い土葬に比べれば、「堆肥葬」の方が二酸化炭素の放出量は多くなるのではないか。

遺体が自然に還るということであれば、有機物の燃焼産物は大気中に放出され、海や樹木葬に撒かれた遺灰は食物連鎖などを通しての生態系の循環に組み込まれる。堆肥にしなくても遺体は自然に還っていく。

葬儀の方式が多様化することは悪いことでないにしても、「堆肥葬」に込められた「思想」は、かなり主観的でムード的に思われる。

わたしは死後世界の存在を信じない。葬儀というのは、死者のためというより、残された者のために行われると考えている。

因習にとらわれない葬送をと自分のことを考えるのは、残された人を縛る一種のわがままということもできる。

わたしは両親の遺骨を安置する墓を作り、そこにわたしを含め何人かの遺骨を入れるスペースを用意している。多分わたしの躯を扱うであろうカミさんや子供には、火葬にした遺骨はそこに入れることができることは話している。

しかしそうするかどうかを決めるのは、残された者たちである。死者のわたしにとっては、どう扱われようと感知できないことである。

そういった覚悟を土台に自身の葬儀を考えるべきではないだろうか。

なお、「堆肥葬」に関しては、主として下記のウェブサイトの記事を参照にした。

遺体を堆肥にして、大地に還る 米国発コンポスト葬は日本で定着するか(鵜飼秀徳) - エキスパート - Yahoo!ニュース

人間を土に還す。シアトルで始まる、世界初の「堆肥葬」 | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD

 

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「さん」と「くん」

2024-06-22 20:29:23 | 日記

「さん」と「くん」

今日の朝日新聞「耕論」欄に、『「さん」「くん」隠れた意味』と題して3人の方のコメントが載っていた。わたしたちが日ごろ使っている呼称についてである。

まず、弁護士の土井浩明さんは、刑務官が受刑者の名前を呼び捨てにするのではなく、「さん」付で呼ぶよう法務省が運用を改めたことを紹介し、それが受刑者の人権尊重につながり、刑務所での扱いが「懲らしめ」から「立ち直り」に向かうことを期待している。

はじめて知ったことだが、この改正が最近のことなら、遅きに失しているというべきだろう。

哲学者の三木那由他さんは大学院時代にトランジション(性的移行)し、それに伴い友人が「くん」から「さん」と呼ぶようになり嬉しかったが、同時に「くん」と呼ばれていたのには親しみが込められていることに気付いたという。小学校ではジェンダー平等の一環として、だれででも「さん」付けで呼ぶようにしているが、その習慣が身につくこと自体は意味があると認めつつ、三木さんはそれが平等のための一工夫に過ぎないと指摘する。

言語学者の大島デイヴィッド義和さんは、ジェンダー中立の「さん」付けが増えていくだろうが、それがマニュアル的に使われるようになると本来の敬意をこめてという意味が失われるのではないかという。そして、「くん」、「さん」、「ちゃん」など呼称の多様性には隠された面白さがあるという。

自分のことを考えてみる。

農村地帯の方言の中で育ったわたしには、「くん」というのは都会の言葉で友達の呼称に使うことは考えもしなかった。しかし、東京から集団疎開の子供が来て、「くん」付けで呼ばれると、馬鹿にされてはという気持ちがあったのか、相手も「くん」付けで呼んだように記憶している。

教員だった時代は、男子学生は「くん」を、女子学生は「さん」をつけて呼んでいた。深く考えたわけではなく、自然とそうなったのだが、女子学生を「くん」と呼ぶと親しくなりすぎるような潜在意識が働いていたのかもしれない。ジェンダーの裏返しといえばいえるだろう。

男子学生は「くん」付けだったが、外から学位論文の審査を頼まれたような時には、相手を「さん」付けで呼んでいた。してみると「くん」には上から目線的な意味があったのだろう。

ブログでは、人名に「さん」をつけて書いていること多いが、例えば夏目漱石とか森鴎外のような歴史的な人物には呼称をつけない。しかし、同世代の著名人はなんとなく呼び捨てにできない。北島三郎さんであり、大江健三郎さんである。外国人は呼び捨てにしている。マリリン・モンローさんと書くことはない。

理由はと訊かれると答えようがなく、身についているとしか考えようがない。確かに呼称にはジェンダー的要素はあるだろうが、自分としては差しさわりがない限り、自然体で行きたい。

最後に、嫌な思い出を一つ。現役時代に役目上地域の賀詞交歓会に出席することになった。臨席の国会議員があいさつに立ち、その中で政府や党の重鎮の名前を何人も挙げ、ことさらのように「くん」付けで話していた。その時の「くん」という呼称への嫌悪感は今でも時折思い出す。

 

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球音近し

2024-06-20 19:46:30 | 日記

球音近し

夏の甲子園、全国高校野球大会茨城県予選の組み合わせが決まった。

合同チームもまじえて、参加は95校88チーム。7月6日から熱戦の火ぶたが切られる。

わが県南地区からは。常総学院、土浦日大、霞ケ浦高校の3強に、竜ケ崎一高を加えて4チームがシードされている。県北からの強豪明秀日立がその前に立ちはだかる。県央から、学生野球の父とされる飛田穂州の出身校、文武両道の水戸一高がシードされているのが目を引く。

ひるがえって、全国紙面に各県予選の予想記事を眺めるに、長野県の下馬評にわが母校の名前がない。残念至極。

ともあれ、高校球児のはつらつとした活躍ぶりを、完全冷房の特等席で観戦するのを楽しみにしている。

 

政治資金規正法

改正政治資金規正法が成立した。抜け穴だらけとの批判がたくさん寄せられている。

わたしには、そもそもこんな法律が必要だということが情けなく感じられる。

「清廉潔白にして理想高い」政治家といわないまでも、議員たるものせめて自分で自分を律することができないのだろうか。国会での議論の中心が金の使い方をめぐってでは政治以前である。小学生がホームルームで小遣いの使い方を話し合っているような気がする。

昨日の朝日新聞「声」欄に、15歳から25歳の若者5人の投票率低迷についての意見が載せられていた。ちなみに、その欄の前書きによれば、議員選挙の投票率で、日本は194国・地域中135位だそうである。

投書者の一人の方は、選挙権を得て2回行使したが、白票を投じたという。若者は政治を前に悶えている。

何とかならないか。憂鬱である。

 

アジサイ 梅雨入り近し

O夫人撮影

 

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湘南七四会

2024-06-18 16:28:48 | 日記

湘南七四会

高校の同期生の間ではいろいろな集まりがある。同じ部活動をやった仲間、同郷者の集まり、現住所が近くの者同士の集まり、等々。

わたしは音楽部OBの「希楽会」という集まりに入れてもらっていた。

大部分の集まりが、寄る年波が原因で閉会に至っているが、「町田会」と「湘南七四会」というご近所同士の集まりは続いている。

その一つの「湘南七四会」に昨日参加させてもらった。

茨城県は同期生6名が在住で(現在は3名)、ご近所づきあいの集まりを持つにはちょっと薄く、一度そういう会に出てみたいと思っていたところ、幹事のK・Tさんからご案内をいただき、喜んで出かけることにした。

会場のある大船駅は最寄りの荒川沖駅からは非常に行きやすい。常磐線が上野東京ラインに乗り入れているので、新橋か東京で東海道線に乗り換えるだけで済む。

昨日はグリーン席を張り込んだが、このグリーン券は一定の距離を超えると1枚でどこまでも通用する。例えば、東京で乗り換えようが新橋で乗り換えようが、荒川沖で買ったグリーン券で熱海まで利用できる。

乗車時間は2時間前後、ちょっとした旅行気分も味わえる。昨日は東京駅で起きた人身事故で50分ほど到着が遅れて迷惑をかけたが、その分車中の読書を楽しめた。

気の置けない飲み屋風の店で、出席者はわたしを含めて7名。7、8名が常連らしい。正確なところは聞けなかったが、歴史はかなり古いとのこと、何人かの物故会員の話も出た。

共通の友人のうわさ話、思い出、最近の世相と、四方山話に花が咲き、時間の経過がはやかった。大病を患いながら、それを克服した友人の顔を見ることができて嬉しかった。

同郷・同期でなければ味わえない雰囲気に身を置き、ゆったりした気分で帰路についた。

途中東京駅での乗り換えを利用して、駅中の「駅弁屋」で夕食用の弁当を調達し、カミさんへの土産とした。

 

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パーカッションM

2024-06-16 20:36:58 | 日記

パーカッションM

昔のパーカッション仲間から、コンサートの招待を受け、取手まで出かけてきた。

このグループ、「パーカッションM」という名前で、Mは指導者継田(ママタ)先生の頭文字からちょうだいしている。

時間のやりくりがつかなくなって7年ほど前に退団したが、5年間くらい在籍したろうか。

継田先生は、東京音大を主席で卒業したパーカッショニストで、ご自分が作曲し、アレンジした曲の演奏を指導しながら、パーカッションの基本的な技術を指導してくれた。

竹で作った手製の打楽器で演奏するなど、その前の師匠のラテンパーカッショニストの渡邊先生とは一味違った感じで楽しかった。

会場で継田先生やグループのメンバーと再会し、久しぶりにパーカッションの道具に触らせてもらった。

今日の出し物は、ジャンベ、カホン、トライアングル、タンバリンの先頭文字を並べた『じゃんかほとらたん』、皮つきと皮なしタンバリンによる『タンバリン協奏曲』、女性メンバーがユーモラスな身振りをまじえてするボディーパーカッションの『ママリズム』、にぎやかなボンゴの掛け合いの『ボンゴボンゴ』の4曲で、会場を沸かせていた。

今日は、オカリナ、ハンドベル、琴・フルート・ピアノアンサンブルの3グループとのセッションで、好きな音楽を楽しむ人たちの中に身を置いて、自分も楽しんだ半日だった。

 

小さな公園

わたしの住むマンションに隣接して40坪ほどの小さな公園がある。町の所有だが、管理がマンション管理組合に委託されていて、住人有志が月に1回、除草と清掃をしている。畑をやめたので、この4月からわたしもその仲間に入れてもらっている。途端に平均年齢が上がったらしい。今朝も一汗流した。

好きな花を適当なところに植えていいことになっているので、図らずも「多様性」が実現している。

 

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トラウマ2題

2024-06-15 19:55:08 | 日記

トラウマ2題

テレビでゴルフ初心者のニュースキャスターがレッスンを受けている画面を観て、50年ほど前のことを思い出した。

ゴールデンウイークで帰省していた時、義兄と義弟からゴルフに誘われた。連休中のゴルフ場は一組3人以上でないと受け付けてくれないので、道具から何からすべて用意するからとにかく頭数に入ってくれということだった。

テレビで観て、ゴルフとはどういう競技かということはある程度知っていたが、クラブやボールに触ったことは全くなかった。とりあえず簡単な説明を受け、ゴルフ場に向かった。

順番が来て、見よう見まねでクラブを振り上げた。野球やソフトボールでは走ってくる球にバットを当てているのだから、止まっているボールを打つことは難しくないと、クラブを振り下ろしたところ見事な空振りである。後ろを見ると、順番待ちのゴルファーが列を作っている。焦りに焦って、ようやくクラブヘッドがボールに当たったと思ったら、ボールは3メートルほど転がっただけ。

キャディーは専修大学ゴルフ部のキャプテンで、見かねて5番アイアンというのをわたしに渡し、これでチョン打ちして前に進めていってくださいとのアドバイス。

池があるとチョンチョンとその周りをまわり、ロストボールを三つほど作って、ようやく最後にたどり着いた。

以来ゴルフは鬼門である。

もう一つのトラウマは社交ダンスである。

大学に入学したとき、プレーボーイの友人がダンスのレッスンに誘ってくれた。ダンス部が主催する講習会で、男性と女性の集団がホールで向かい合い、集団見合いよろしく壇上の講師の動きに合わせて、スロー・スロー・クイックと足を運ぶというレッスンだった。

クイック、ワルツ、タンゴを日替わりで教えるそうで、その日はタンゴだった。友人のいうところでは、三つのステップで一番難しいのがタンゴだという。だから、これを習得すれば後は楽ちんということだった。

集団見合いレッスンの後は、自由にダンスを楽しむ時間があって、友人はこの時間を活用すれば上達が早いからトライせよという。

レコードから流れる曲がタンゴかどうか友人に確認し、勇を鼓して壁際に立っている女子学生にダンスを申し込んだ。

ホール中央まで彼女をいざない、組手までは間違いなかったが、わたしが右足を前に出そうとすると彼女は左足を前に出して、慌てて引っこめると彼女も引っこめる。

まわりはタンゴのリズムに乗って男女が流れるように動いているのに、わたしたちはじたばたしているだけである。

すみません初めてだものでと謝ると、彼女もわたしも初めてでと、お互いにすみませんと頭を下げてさよならした。

以来、社交ダンスも鬼門である。

 

小さな公園の花

 

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子供の戦時教育

2024-06-13 20:31:26 | 日記

子供の戦時教育

昨日の朝日新聞13面、オピニオンフォーラムに『戦争プロパガンダと子ども』と題する、学習院大学名誉教授斉藤利彦さんへのインタビュー記事が載っていた。

斉藤さんは、第二次大戦中の日本における学校教育が、いかに子供たちを戦争協力に導いたかを解き明かしている。

わたしはその時代に少年時代を過ごした。そして、1953年生まれの斉藤さんは、その時代を近代教育史の専門家として研究されている。

以前に、戦時中の「疎開」が大学の日本史入試問題で出されたという話を聞いた時、自分が間近で見たことが歴史の教科書の中で扱われていることに一種の感慨を覚えた。

自分が経験した戦時中の教育は、歴史的な課題として研究対象になっているのだ。とすれば、その時代を過ごしたわたしたちは歴史の生き証人ということになる。

このページには、1931年生まれの児童読み物作家山中恒さんの経験談が載っている。まさに生き証人の証言である。この話を読んで、わたし自身の経験も書いてみたくなった。

わたしは、1942年(昭和17年)に国民学校に入学し、4年生の時に終戦を迎えた。

1、2年生の時は男女同クラスで、やさしい女の先生で軍国主義的な的な教育を受けたようには記憶していない。3年生になると男女が別クラスとなり、旧制中学卒業の代用教員の先生が担任になった。大変人情味の厚い熱血先生で、正邪をただす体罰は時々加えられたが、戦時教育的な授業を受けた記憶がない。

つまり、教室で先生の口からは軍国主義的な言辞を聞いた記憶がないのである。にもかかわらず、わたしはれっきとした軍国少年であった。

ではなぜそうなったのか。世の風潮の中で軍国思想は自然と身についていたのではないだろうか。

だから、天皇の「御真影」と教育勅語がしまってある「奉安殿」の前を通るときはお辞儀をし、「天長節」や「紀元節」のような時に白手袋の校長先生が桐の箱から教育勅語を取り出して読むのをかしこまって聞き、皇居の方向に最敬礼するのは当然のこととして受け入れていた。

もちろん教科書の中には戦意高揚を目的とした物語や訓話が書かれていた。しかし、それは当たり前のことであってことさらに取り上げる必要はなかったような気がする。

思想統制、言論統制で軍国思想に塗り込められた社会の中で、真っ新な子供の心は、「皇尊(すめらみこと)をいただく神国日本の聖戦」こそ自分たちの使命であるという考えに満たされていたと思う。

学校教育はそれを整え、組織化する役割を担っていたといえよう。

信じられないようなことが現実に起こっていたのである。それは起こしたから起きたのだ。二度と起こしてはならない。

 

クチナシ

散歩の途中に生垣から匂ってきた。

渡哲也が歌った『くちなしの花』を思わず口ずさんでいた

 

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