三浦英之
『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』
集英社 2022年
読み終わって心にずっしりとくる内容だった。
著者は朝日新聞記者であると同時にルポライターであり,その著書はいくつかの賞を獲得している。
2016年3月,著者が朝日新聞アフリカ支局に派遣されていた時,ツイッターにとどいた一通のメールから話は始まる。
「1970年代にコンゴで鉱山開発をしていた日本企業に,1000人以上の日本人男性が赴任し,そこで生まれた子供を日本人の医師が毒殺していたことを,朝日新聞は報道しているか。」というのが要旨その内容だった。
そして,そのメールに導かれて,ネット上の国際ニュースチャンネル「フランス24」が,現地のルポルタージュの動画をまじえて,日本人医師による嬰児殺しを2000年からアップしているのを著者は知る。(なお,2016年にBBCからほぼ同じ内容のニュースがアップされる。)
その内容に疑問を持った著者は,自らの手でその真偽を明らかにしようと調査を開始する。そして,コンゴのルブンバシ市に飛び,現地の日本人組織「日本カタンガ協会」会長の田辺好美,および現地修道院のシスター佐野浩子の協力を得て,日本人を父親とする子供たちやその母親に接触して話を聞く。さらに,企業関係者にもインタビューして,フランス24で報じられていることの真偽を確かめようとする。
個々の話はそれぞれ興味深いが,判明したことを以下のようにまとめる。
1969年,日本鉱業は現地と合弁会社を作ってコンゴで銅鉱山の開発を進め,79年に閉山し,83年にコンゴから撤退している。
この間に赴任した日本人男性と,コンゴ人女性との間に200人にも上るという子供が生まれている。子供の名前には,父親の姓が使われたり,「ケイコ」「タカシ」のような日本名がつけられたりしている。風貌は明らかにコンゴ人とは異なり,それが原因で子供の多くはいじめに遭った。
父親になった男性は,コンゴ人女性(13~18歳)と多くの場合「結婚」し,中には家を作って「家庭」を持っていたこともあった。子供やその母親の「父親」への印象は,おおむね好意的であり,子供たちは懐かしがり,今でも会いたがっている。
父親たちは,帰国後しばらくは洋服などを送ってくれたが,1980年代コンゴで内戦が生じたころを最後に途絶えている。コンゴから出した手紙には返事がないし,父親の日本の住所も一部を除いて不明である。
コンゴに残された母子の生活は困難を極め,多くの子どもは就学もおぼつかない状態に置かれ,亡くなった子供もかなりいる。
2006年に,子供たちは「日本人の父親とコンゴ人の母親から生まれ置き去りにされた子供たちの会」を約50人で結成し,日本大使館に,「自分たちを日本人として認めて欲しい,」「父親を捜して欲しい。」の嘆願をしたが,本国政府の意向としてプライベートなことには関われないという大使館からの返事で,手掛かりを失っている。
日本人医療関係者による嬰児殺害については,そのような噂は存在するが確証はなく,当時病院で働いていた現地人看護師7人は,いずれもその噂をきっぱりと否定している。
こうした調査を踏まえ,新聞社からの処分も覚悟して,著者は自分のツイッターにその内容を公表し,大きな反響を得る。そして,日本にいる関係者への接触を試みる。
日本鉱業の後継企業およびその関係者からは,そのような子供の存在は承知していないという返事以上のものは得られない。
しかし,ツイッターの記事を読んだ当時コンゴに滞在した関係者から連絡があり,日本人男性従業員がコンゴ人女性との間に子を生したという事実を証言する。しかし,父親に当たる男性については,それを知ることの有益性に疑義を持ち,明言を避ける。子供たちが持っていた父親についての手掛かりも,具体的な結果には結びつかない。
著者は,当時コンゴ現地の病院に勤務していた医師3名とも面接し,「嬰児殺し」についてはあり得ないこととの証言を得る。
八方ふさがりのような話の中で,明るさを感じさせることがいくつか書かれている。
三好氏は,フランス24およびBBCの現地取材の手法に疑点があり,捏造の可能性があることを見出して,BBCに「日本人医師による嬰児殺し」のニュースを消去させた。また,日本鉱業の後継企業からは,コンゴに残された日本人を父親とする子供について,公式には認められないが,人道的見地から何らかの措置を講じたいという返事を得ている。
また,佐野シスターと三好氏は,日本から寄せられた基金によって,修道院の敷地に学校を建設し,コンゴに残された子供(と言ってももう中年である)や孫たちが学ぶことを推進している。
著者は日本からコンゴに戻って,「子どもの会」(先述)のリーダーのムルンダに,彼が持っていた父親の住所は日本鉱業の家族住宅があったところで,当時父親は日本人の家族と一緒に暮らしていて,いまは亡くなっている可能性が大きいことを伝える。
ムルンダは大粒の涙をこぼした後,「ぼくは日本人で日本に家族がいる。日本語を勉強して,いつかその家族と会いたい。」という。
「太陽の子」とは,置き去りにされた子どもたちが,自分たちにつけた名前である。
わたしはこの本を読みながら,戦時中に中国や東南アジアで,あるいは駐留軍と日本女性の間で,「置き去りにされた」子供たちがいて,いまも問題を抱えているのではと考えていた。
著者は,戦争にともなうものだけでなく,日本の経済発展のための海外の活動においても,こうした問題が生じていることを,この本の副題にある「置き去りにした」の主語を「日本」にして,強調したかったのではないだろうか。
わたしたちは,少なくとも,そのことを記憶に留めておくべきだろう。
STOP WAR!