すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

桜を特化したいのは…

2021年03月08日 | 
 「桜は好きですか」というアンケートをとれば、日本人ならかなり高評価が出てくることは間違いない。理由は様々だろうけど、多くの人にとって小さい頃からの馴染みがある。大概の学校では敷地内に必ず在るといってよい。開花の時期には地域差があるが、行事や出来事に彩りを添える大きな役割も担ってきた。


 数えてみると、65年間のうち55年を「学校」という場で過ごしてきたことになる。大学はどうだったかおぼろげだが、毎年桜を見上げてきたと思う。しかし同じキャリアを持つ者も少なくない。桜を一つ特化したいと思うのは、単に思い入れに過ぎないだろう。還暦を迎える齢に、こんな文章を書いたこともあった。

さみしいから桜並木を撮る

 その文章にリンクしていた写真ページはもうない「最後の桜」と題した文章もここには載せていない。それらを何かしらの形で残したい気持ちが、こうしたカテゴリーを作らせたのだろう。まったくの素人写真とはいえ、いくつか印象深いショットもある。その一つは10年前に撮った。実に、鮮やかに覚えている。


 M小での運動会前の練習。隣接する中学校のグラウンドで、子どもたちの活動する様子をカメラ片手に見ていた。横にある野球場に保育園の子どもたちが散歩にきていて、年長児は先生と一緒に揃って歩いている。そしてそれより小さい子たちがひと時、桜の大樹の下に腰をおろし微笑みながら、前を見つめていた
と、あったはずのこの写真がどこを探しても見つからない…まさしく整理下手の顛末に。

デビューの不安と期待

2021年03月05日 | 雑記帳
先月末役場から届けられた「介護保険被保険者証」(と一緒にもちろん納入金額の説明、予告文書)を見て、改めて「高齢者デビュー」するのだなと思った。自分史上、身体を鍛える期間はあまりなかったし、気分だけグルメ暮らしを続けてきたので、健康年齢はかなりの高齢になっている点は了解済み。そう言えば…。


 「70代のような胃の中だな」と近所の医師から言われたのは、今から30年前。まあそれで喫煙習慣を止めたので、その進行は食い止められたかもしれない。しかしいわゆる生活習慣病と付き合う投薬生活は長い。今のところは、アルコール禁止を言い渡されていないが、いつか来るのかと不安だらけのデビューである。


 一方精神面では、高齢者としてはランキングの高い位置である別名「ご隠居さん」の境地にはほど遠い。非常勤とはいえ仕事に就いていることもあり、短気を起こしたり、小さな失敗を引きずったりしている。ただ適度なストレスが心をブラッシュアップするような感覚は持てる。これはいい傾向ではありますまいか。


 さて、デビュー記念(笑)として副題を変えた。「桜と絵本と豆乳と」…好きなものを選んで並べた。坪内捻典さんの本に「自分への仕掛け」は限定した方がよいという文言があり共感し、挙げてみた。別にこれから専門家や研究者になるわけではない。しかし選んだ訳はある。少し意識して接する生活で新味を求めたい。

副題を心に仕舞い込む

2021年03月04日 | 雑記帳
 「陥穽から風穴をさがす」という副題はブログ開始時から付けていた。テーマというほど大層なものではない。そうありたいという願いか。私(たち)は今、落とし穴に入っているが、その中で風穴をさがなければならない。それは何故か。取りあえずは「息」をして生きなければならないから。それだけか。


 その風穴から異なる風景を覗き込み、新たな知見を得ながら、あわよくば、風穴を大きくし陥穽から脱したいという気持ちは抱えている。脱したそこがどんな世界になるのか。陥穽にいる以上は部分的にしか見えないわけで、不安要素は絶えずある。出てみた場所は、単にワンランク大きい陥穽だったりして…。


 そう考えると、これは心の持ち方そのものであることは自明だ。従ってこんな副題をつけて、駄文を書き連ねてきたのは、精神のコントロールのためと言っていいかもしれない。昭和後期10年間と平成のほぼ四半世紀は、学校教育と共にあったが、一言括るとで「ダブルバインド」であったと振り返られる。


 自由と規律、個性と秩序、集中と拡散…様々な仕事の範疇で意味づけがなされ、バランスという名で徐々に縮こまってしまった歴史だ。教室でのルール一つを決めるにも膨大な背景を意識しなければ通用しなくなっていった。そんな中でさがす風穴は、自分が呼吸するだけの大きさでしか有り得なかった。


 それはそうだ。それでも風穴をさがし続ける。例えば五輪開催へ向けて様々な立場で物申す人がいるが、結局自分の呼吸をラクにしたいだけだ。閉じ込められた空間の中で奪い合うように動くのは止めてほしい。この陥穽から脱け出すのは容易ではない。しかし、風穴はできるだけ多くあれば過ごしやすい。

桃の節句に「きれい」であれ

2021年03月03日 | 雑記帳
 先日、最近気がかりなことの一つが解消できた。それはある専門家がかけてくれた言葉一つが大きかった。

 「きれいな○○ですね」

 これは効いた。
 詳しくは書かないが、その一言が頭に残って、しみじみそんな思いに浸っていたら、これは汎用性のある褒め方として超一級ではないかと考え付いた。

 「きれいな娘さんですね」

 「きれいな月ですね」

 「きれいな歩き方ですね」
 
 「きれいな夢ですね」

 人であろうが自然であろうが動きであろうが心の持ち方であろうが…。



きれい【綺麗・奇麗】」は、様々な種類の辞書で似たことが書かれているが、広辞苑では大きく二つに分類されていた。

 ①綺(あや)のように麗しいこと
 ②濁り・汚れをとどめないさま


 ①は個の見方や価値観が入り込む要素がある。それに比べると②の方が客観性が強いと言えるかもしれない。

 「澄んでいる」「いさぎよい」「さっぱり」「すっきり」「整っている」…そうした形容の持つ響きとは、改めていいなあと思う。


 人間にとっての最高の誉め言葉の一つに、これは入るなあ。

 「きれいな生き方ですね」

 いやあ、なかなかできません。
 じたばたじたばたが続くのが、目に見える老後だ。

性格が事件に遭遇させる

2021年03月02日 | 雑記帳
 「人は、その性格に合った事件にしか出会わない(抄)」と付けられた見出しに目がいった。『波』3月号(新潮社)に「城山三郎、渋沢栄一を語る」と題され、著書から渋沢に関する記述が紹介されている。もちろん、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公として取り上げられたからだろう。この文章がすこぶる良かった。


 見出しの一文は「小林秀雄さんがどこかに書いておられた」と記しているので(抄)なのだ。それにしても含蓄ある一言だ。城山は「小林さん流の逆説」と言いながら「人生の真理じゃないか」と賛同する。そして、次のような文章で括っている。「事件が性格を作るんじゃない。性格が事件に遭遇させてしまう。


 「事件」としての範囲の定め方は様々だろう。例えば、多くの人を巻き込む自然災害などの捉え方は難しい。生死を伴う出来事に対してこう言ってしまうのは不遜なことかもしれないが、それでも、困難に対する向き合い方には性格が出ることは確かだ。その意味で平凡な暮らしに起こる「事件」には全く当てはまる。


 ごく一般的な、進路や職業選択、結婚や家族・縁者との付き合い方も一つの「事件」と言える。人はよく「あの時、…だったら」という思考をしがちだが、結局のところその選択における結果は、自分の「性格」によって決定された、導かれたものである。後ろ向きの思考をする性格が「悪い事件」という捉え方になる。


 城山は、渋沢栄一といとこである喜作の例を出して語っている。ドラマの見どころが増えた。さて客観的にはそんな物言いに同調するにしても、では自分はどんな事件に遭遇してきたか。どんな性格だったからか…となると分析は難しい。好奇心は強いが臆病ではある。集まり好きだが頻繁に落ち込む…いかにも半端だ