すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

さじ加減はいつも…

2020年12月16日 | 雑記帳
 「負荷のさじ加減こそ肝要だ」と昨日書いた。ただの安全パイでは進歩がない。荒れた空模様のなか、読み聞かせのために山間部の小学校に向かった。小規模校なので担当は4年以上全員だ。先週、6年生へ読み聞かせた『ヤクーバとライオン』でもよかったのだが、以前から読んでみたい絵本があり、携えて向かう。


 講談絵本である。落語は紙芝居になっているシリーズを現職時代から何度もやってきた。先月は絵本でも取り上げた。今回はその落語絵本を初めに一冊読み、その並びで講談に「挑戦」してみようと思った。自分自身それほど滑舌がいいわけではないので少し迷ったが、やはり演じてみたい気持ちをぶつけることにした。



 『宮本武蔵 ~山田真龍軒』。剣豪宮本武蔵が鎖鎌の達人と勝負する場面である。子どもたちにとっては難語句もあるし、テンポよくリズミックに、つまりやや早口的に語るので、理解させるというより雰囲気を味わわせるというねらいになるだろうか。練習で読みこんではみたが、自信というほどのレベルではない。


 落語絵本が終わったら口が渇いていることに気づく。まずい。水を頼むわけでもないし…。もう一つページをめくる指が何故か固まっている。寒さか緊張か、はたまたカリウム不足か(笑)。冒頭に噛んでしまい不安だらけだが、なんとか最後までやりきる。「なんと、なんとお時間でございます」という結句にほっとした。


 さて負荷のさじ加減はどうだったか。お世辞だろうが「惹き付けられた」と声をかけてくださった方もいたが、自己採点は50点。それは口と指が万全でなかったから途中で気を取られ、表現としてはワンランク下がっている。挑戦してみた意欲はよしとするが、身体的な面の準備に配慮を欠いた。さじ加減は難しい。

負荷のさじ加減に到る

2020年12月15日 | 読書
 二十四節気の「大雪」から一週間ずれた、本物の大雪がやってきた。昨冬があまりに降らなかったため、多くの人は「今年はそうなるまい」と怖れの感情を抱く。そうそううまくは続かないと思ってしまう日本人の心性を改めて確認したりする。初の除雪作業に身体が慣れず、相応の衰えも感じながら考えていたこと。


 「カミュ論」という内田樹の雑誌連載を読んでいたら(カミュについては全く無知識だが)、目を惹かれた箇所があった。この連載は「日本人はどうしてアルベール・カミュが好きなんだろう」というテーマで続けられている。そのことについて、今回はこんなふうに書く。「『どっちつかずであること』への知的誠実さ


 そして、それを日本語としては馴染みの深い「さじ加減」「按配」という言葉をもち出して説明している。このあたりの展開の妙が、書かれてある内容に疎くてもつい文章を読んでしまうことに通ずるのだろう。そこでは幕末の藩主前田斉泰なる人物の書いた能楽書の中味と結びつけ、「適度」ということについて論じる。

「あらゆる人間の営みにはその分限ということがあり、適度ということがある。その規矩を踏み外すことなく、『いい加減』のところにおのが身を持していれば、人は『天理』に従って、健康に、その分を全うすることができる」


 なるほど、なるほど。それが「」というものだ。と高齢者間近の自分も想う。「度をこす」「度をうしなう」ことへの留意こそ、これからの生きる知恵、コツと言ってよいか。しかし、と思う。「度」とは単純に加齢によって下がる一方なんだろうなあ。仕事、遊び、飲酒等々、そのレベルは確実にダウンしているから。


 アンチエイジングという古びた流行語は「度」に抗することだ。その考えに全面的に賛成するわけではないが、「度」を知りほんのちょっと「度」を越すことでしか「度」は維持できないのではないか、という考えも浮かぶ。そういえば「度」には「人格の大きさ・器量」を指す意味もある。負荷のさじ加減こそ肝要だ。

師走は続くよ日記

2020年12月13日 | 雑記帳
12月7日(月)
 休館日。午前はゆっくり(ではなく気忙しく)孫たちと過ごす。午後、小学校の読み聞かせへ向かう。今日のお相手は6年生。教員現職の時に迎えた最後の新入学年だった。取り上げた本は『ヤクーバとライオン』。読み込んでいるので多少は自信がある絵本だ。「勇気」「信頼」…いつか、思い出してくれるだろうか。


12月8日(火)
先週土曜に19日のイベント練習はしたが、自分の分はまだ手付かずの状態。取り上げる絵本をなんとか決め、PPTの取り込みその後のクイズ構成に取りかかる。さらに親子ゲームの内容もまだ白紙である。昨年やったゲームを一つはそのま ま使うことに決め、もう一つは…と頭を悩ます。これもいい?ストレスか。


12月9日(水)
 昨夜、家でゲーム選びを話したら「釣りゲーム」はどうかと言われ、なるほどと思う。単純だが楽しそうだ。試作品を職員に試してもらう。図書館もクリスマスモードで、展示紹介絵本をそっくり借りていく親御さんもいた。ボランティアの方による読み聞かせも継続中。雪がまだなので、ちょっと雰囲気が薄いが…。


12月10日(木)
 今日は勤務がないので家人と久しぶりに隣市の温泉施設へ。感染対策は厳重だがやはり人出は少ない。新しく開いた蕎麦屋に入る。点数にすると65点ぐらいかな。青少年育成主張作文冊子の巻頭言を書く。3.11後の卒業式で喋った話を思い出しつつ、この一年の子育て環境を考えてみた。子どもたちは何を学んだか。


12月11日(金)
 愛車のバッテリーが劣化し交換で、近くの整備工場へ預ける。午前中、町内小学校2年生の館内見学。面白い問いもあったようだ。自分は「釣りゲーム」製作に励む。来客者には「何してるの?」と奇妙な目で見られる。担任時代を思い出す。友人より地域同人誌を贈呈していただく。「童話」を書いていたことにびっくり。



12月12日(土)
 午前中にイベント用プレゼントを仕入れに某ホームセンターへ。休日からか朝でも駐車場が一杯だ。百均で久しぶりに大人買い(笑)をした。隣の酒販店に寄ってまた無駄遣いをしてしまう。午後から秋田朝日放送の「ふるさとCM大賞」を見る。見事に本町が大賞受賞。関わった一人として嬉しい。明夜は祝勝会がある。



ふゆはふる、ふゆはふえる

2020年12月12日 | 教育ノート
 ちょっと難しそうな?本を読んでいる。意識的にゆっくり読み進めているが、なかなか入ってこない部分も多い。『三位一体モデル』(中沢新一)というその本は、章ごとの見開きに、格言というか箴言というか、偉人や著名な学者の文章が引用されている。第二章は折口信夫の「古代研究(民俗学編1)」からだった。

ふゆは触れることである。
ふゆとふるとは同じ事である。
ふゆは物を附加する事であるが、もとは物を分割する意味である。


 この三行目を読み、教職の時にこの時季になると何度か全校児童の前で「冬」の語の意味を話したことを思い出した。流れとしては、次のようなパターンだ。

◆「冬」と「寒」の漢字を出す
◆下部が似ていて、「ヽヽ」が「こおり」を表していることを話し、上の部分について説明する
◆「ふゆ」という語のでき方について話す(以下のように、★はパワーポイント画面もしくはフリップ)

ところで、★この「フユ」という言い方についてお話します
どうして「フユ」という言い方をするか、なんてふだんは考えないでしょうが
一つの言葉ができるにも、ながい時間がかかるのですよ。

「ふゆ」といういい方は、まず 
この★「ひえる」という言葉がもとになっているという話があります。
この★「ひえる」という言い方が、だんだんに「ひゆる」という言い方にかわってそして、この「ひゆる」がだんだんと「ふゆる」という言い方に変わって…★「ふゆ」となったということです。
それに似た言い方で「ふる」がありますが、この「ふる」がもとになったという話もあります。

実はもう一つ…「ふゆ」いう言い方は
この言葉をもとにしているという話もあります★「ふえる」
いろいろなものがふえていく、量や数がいっぱいになるということですね。
このふえるの「ふえ」が…★この「ふえる」が、だんだんと「ふゆる」という「ふゆ」に変化して、「ふゆる」となったということです。

どれが正しいかはわかりませんが、さっきの「ひえる」から変わったと考えるより、「ふえる」から変わったと考えたほうが、面白いなあと先生は思っています。言い方に変わってきたんだ、と考える人たちもいます。
「ふえる」という言葉を、自分に置き換えてみると、それは★「ふやす」ということですね。冬は春、夏、秋に比べて少し外で活動することは減るかもしれませんが、その分、校内でじっくりと取り組み、いろいろなことができる季節でもあります。
本をいっぱい読んでほしいし、漢字やことばを調べて知識もふやしてほしいと思います。また縄跳びの技をたくさんマスターすることもいいでしょう。
それから、友達といろいろな活動をすることを通して、協力する心もふやしてほしいと思います。


 と、まあかなりコジツケっぽいが、二学期のまとめに向かう子どもたちへの励ましとしては、ふさわしいと言っていいだろう。

 ところが大人としては、折口信夫の文章を読むと、少し考えざるを得ない。
 文章はこう続く。

ふるはまな(外来魂)を人体に附加する事で、
冬になると総てのものをきり替へるので、
魂にも、外から来る勢力ある魂を附加するのである。


 冬に「ふる」となれば、雪しか考えられない地域に住み続けている。
 それも「まな」となり得るかと問えば、その厳しさが与えてくれる「魂」はあるだろうと…前向きに考えたい。

発酵か腐敗か、この読書は…

2020年12月11日 | 読書
 雪が降らないせいか、ぴりつとしないところもある。
 まあそのうちと…のんびりしながら読書、これらは軽いものとして…

『鬼刑事 米田耕作』(矢島正雄  文春文庫)

 脚本家、漫画原作者としての矢島正雄には注目していて、書店で見つけると手にとってしまう。小説は以前も読んだが、今一つかなあと思いつつ寝床読書にはいいと購読した。「刑事モノ」は、名作漫画『人間交差点』シリーズでも多い内容だし、女性刑事の活躍する『PS~羅生門』も好きな作品だ。これはどうかと…。

 かつて名刑事だった男が今は資料室的な部署にいて、実は現警視総監とも盟友で、そして現代風の若手刑事を相棒にしながら…というような、ドラマではありがちな設定だ。いや、こういったパターンはもしかしたら矢島が作り出したのかもしれない。内容は普通だがTVドラマなら見るだろうな…調べたら、BS再放送枠でやっていて…
 https://www.bsfuji.tv/yonedakousaku/pub/index.html
 少しイメージの違う配役にがっかりというオチでした。


『あつあつを召し上がれ』(小川糸  新潮文庫)

 この作家もドラマ原作のイメージが強い。代表作で映画になった『食堂かたつむり』は見ていないが、NHKで放送した『つるかめ助産院』『ツバキ文具店』はとてもいいドラマだった。脚本や演出もあろうが、醸し出す雰囲気が柔らかく、落ち着いた気持ちで視聴できた。そういう印象を持ちながらこの短編集を読む。

 題名も示すように7編全て「」の場面が取り上げられ、その描写が上手だ。当たり前だが登場人物の心の機微と重なっている。くだらないグルメ番組より、こうした物語のドラマ化の方が「食」の素晴らしさを感じ取ることができるのではないか。7編の設定はそれぞれ読みどころがあり、振れ幅も大きいので楽しめた。

 認知症になった祖母が登場する冒頭の作品で、何気なく語られたことがある。齢をとっていく意味の比喩としては最上級だなあと感心した。

「腐敗することと発酵することは、似ているけど違うんだよ」
「バーバは今この瞬間も、甘く発酵し続けているのだ」

「つながる」は心でしか…

2020年12月10日 | 雑記帳
 昨日、引用した若松英輔のインタビューで、なるほどと考えさせられた記述があった。感染症流行のなかで、人との関係性が問われていることは確かで、その際に使われる語についての言及があった。それは「さわる」と「ふれる」。そして「まじわる」と「つながる」だ。いずれも、物理的には遠ざけられる行為だ。


 「さわる」と「ふれる」の語感の違いを「『さわる』は直接的に接触するイメージですが、『ふれる』には非接触的な語感」と説明し、「ふれる」に「『さわる』ことができないものを感じとろうとするニュアンス」があるとした。新たな時代は「相手にふれる関係を目指していくべき」と語る。思い出した比較があった。



 以前、「つきあい」と「ふれあい」について考えたことがあった。端的に言えば、表面上か内面も含めてか、ということだ。いずれにしても「ふれる」は内面性に踏み込んだ表現である。より深く手を伸ばさなければいけない。そこで、もう一つの「まじわる」と「つながる」に関わる気がする。これらもイメージが違う。


 「まじわる」は直接的、「つながる」はもっと広範囲と言っていいだろう。実際に「まじわる」ことが控えられている状況のなかで、内的な「ふれる」もよりハードルが高くなっている。「つながる」ためにはどうしても言語に頼るが、以前なら直接やり取りできた場が、メールやリモートに替わってきている困難を想う。


 何度か繰り返し書いているが、そこに「身体性」が希薄という自覚をどれだけ持ちえているかだ。伝達手段としての活用は逆戻りはできないとしても、肉声や直筆を使う場を衰退させないように、そのための空間や時間をどう確保していくか…より意識したい。「つながる」は心でしか感じ得ない。心は体の中にある。

本と書物はちがう

2020年12月09日 | 読書
 図書館から借りて読んだ本を、自分で買い求めて手元に置いておきたくなるときがある。昨年から数冊そんな本に巡りあった。その一冊が『本を読めなくなった人のための読書論』だ。しかし、実は書棚に収めてからまだその本に手は伸びていない。もちろん、それでいい。そこに何か安心感が漂っている気がする。


 その著者である若松英輔のインタビューをある冊子で読み、自分が書いた意味が、そっくりと語られているようで嬉しかった。デジタル書籍の隆盛のなかで紙の媒体の意義を問われ、「本」と「書物」との違いを、書店に積まれている「」、書かれた内容が物になった「書物」と意味づけをした後に、こんなふうに語った。

「物になるとは、命を吹き込むこと。『本』は、私たちに読まれることによって『書物』になります。」

そして、デジタル書籍にその痕跡が残しにくい点や、データの便利さが役立ちはするが結局消え去っていくことを挙げながら、「物の価値」をこう記している。

「書物は私たちの部屋にあり続け、思わぬときに自分を励ましてくれたりする。それが物の力です。」

 
 本棚に並ぶ書物の背表紙を見れば、その人がどんな人か、どんな生き方をしてきたか想像がつくという言い方は、まんざら嘘ではない。もちろん、余程の読書家でない限り、すべてを理解した、味わったということではないだろう。ただ、その本の世界に入り抜けてきた経験が、心身に何かしらの影響は与えている。


 そう思うと、ずいぶんと本を処分したけれど今の自分に必要な「書物」だけが残っているということになる。仕事との関係性は弱くなったが、教育書もまだわずかに残っている。それはきっと、どこか自分を作りあげた、精神的な糧の存在を認めているからだ。年末に少し整理できれば、めくり直してもいいだろう。

目覚めないには訳がある

2020年12月08日 | 読書
 矢口高雄のコミック『新・おらが村』全4巻を読んでいるときに、併行しながらこの新書を開いていた。コミックの描いた時期つまり平成初期からの30年を、この保守派の論客がどう批評するのか。そういう興味ともつながった。そして「平成」の評価はこの副題に表れている。「日本人はなぜ目覚めなかったのか


『平成批評』(福田和也  角川新書)


 問いとして立てられたこの一文に対する結び、つまりこの本の結論はどこなのか。読み進めながら考えることはその点だ。それは「おらが村」が依然として生まれ変われないことにも通ずるはずだ。幕末から明治維新にかけてこの国が対峙した「近代」と、生き延びるための「西欧化」が流れを作り出したのは自明だ。


 そのうえで著者が強調しているのは、「戦後の日本の価値観が『生命の尊重』にある」ことだ。何よりも先んずるのは「生命」であり、そう教えられ、そう生きて、そう教えてきた。ただ、一片の揺らぎなく思えるかと言えば、そうではない。「『生命の尊重』を超える価値観」の存在は、絶えずちらつき、まとわりつく。


 その存在が国家や政治に結びつくことを怖れるし、詭弁として使われやすい点も承知している。著者が「共同体」としての未来を志向していると書きつつ、結局国家としての「日本」に収斂していく傾向で結ぶこともすとんと落ちない。ただ「教育」のあり方に大きな問題があり、根本には常にその問題ありと認める。


 「目覚めない」つまり今の、芯がない社会状況が出来上がった要因は次の文章が物語る。「大きな価値観を親が信じていて、その価値と拮抗する形で、子供をかけがえなく思うからこそ、子供は自分の価値を感じることができた、信じることができた」。これは「命より大事なもの」を見せた、語った大人にしかできない。


 政治や教育だけでなく文学、芸能などに触れながら(だから、読み物としては面白かった)「日本を自分の好きな国にする」ことを結びとしている。しかし、目覚めを促すにはさらに難しい時代だ。価値観の多様化だけが叫ばれ、個々の質には触れず、ディスタンスを保っていればできるのか。さあ、どう目覚めるか。

いつになれば「新」なのか

2020年12月06日 | 雑記帳
 矢口高雄と言えば『釣りキチ三平』と、もちろん知っていたが、釣りに全然興味のない自分には、その他の漫画の方に馴染みがある。特に矢口自身が「№1に好きな作品」という『おらが村』『ふるさと』は書籍整理の際も手放さなかった。図書館展示に合わせて何冊か寄贈を決め、今『新・おらが村』を読み直してみた。

 《展示、開始しました》

 『新・おらが村』は、雑誌『地上』(家の光協会出版)に昭和63年1月から連載が始まり、平成4年4月まで続いているようだ。コミックにして4巻揃っている。昭和が終わり、平成になったあの頃、自分は山間部農村にずっと勤務していたわけで、リアルタイムでこんな事が起こっていたと思い返すばかりだった。



 後継者不足、嫁ききん、村おこし、自然環境破壊そして有害鳥獣駆除…当時抱えていた問題は、それから30年経った今も同じように存在していること、進行が止まらず別の形で顕在化していることと様々だ。いずれにしても都会と地方とのギャップは、日本社会が歩んできた構造的な問題と重なると、しみじみ思う。


 フィリピンからの花嫁を迎えることも展開の一つの柱だった。当時は全国各地で話題になった。自分が住むこの町でも数多くあり目立っていた。全体を括る傾向は軽々しく口に出せないが、その後アジア諸国との関係性に関して理解が進んだのかどうか。技能実習制度問題を見る限り、改善されていないように思える。


 農薬散布用無人ヘリの登場で、この物語は締め括られる。それは農業全体の行方を考えた時にある意味象徴的なことだ。この話の中に他にも将来のヒントになるべきエピソード(食・住・地域)があり、それが今どう推移しているか、いい尺度になるのかもしれない。題名の「新」には、作者の願いが込められていた

師走始まったよ日記

2020年12月05日 | 雑記帳
12月1日(火)
 いよいよ最終月。先々週あたりから、仕事量に身体が追い付かない感じもするがネジを巻き直さなくては…。19日のイベントのチラシが届いたので袋入れ、午後からこども園を廻って配布のお願いをする。峠には除雪した跡が残っている。今月は読み聞かせも多く、準備することが山積みだ。体調管理を万全にしたい。



12月2日(水)
 昨日打ち込んだ「今月の言の葉」の原稿を印刷し、掲示する。「冬を迎えに」という積極的な字句を選んでみた。どうしても受動的になる季節だし、まして今年はことさらだ。イベントに使うPPTを一本仕上げる。その後今週末の青少年育成町民大会の挨拶を考える。短縮パターンなのでその点を意識して文章を練る。


12月3日(木)
 孫が来ない朝の内にサークル会員に渡すおたよりの印刷を仕上げる。勤務のない日だが、実は絵本ライブの予定期日だったので、図書館ブログにその件を記してアップ。数日前から見つからない写真データがあり悩んでいた。古いPCを起動させたり、接続コードを探したり…、夕方、SDカードを発見して一件落着。


12月4日(金)
 朝、来週の読み聞かせの下読み開始。図書館へ行ってからはイベント関係の連絡印刷。自分が担当する「絵本クイズ」の選書に手間取り、午後までかかる。館内は今年を振り返る話題本の展示、そしてクリスマスツリーといよいよ歳末モードへ。帰宅してから賀状用写真を撮ろうと孫を写すが、思うようにならず失敗。


12月5日(土)
 朝、町民大会原稿チェック。大会は8時半過ぎからリハ込みで2時間かからず終了した。発表内容は良かったが少しボリューム感に欠けた。やむを得ない。午後からはイベント練習。会場を使って読み合わせや画面とのタイミングを合わせる。図書館ブログのアクセスが好調、「読者」が増えたのが、何より嬉しい。