すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

眠れぬ夜に小説読んで

2020年12月04日 | 読書
 この頃少し余裕がない。そんな自分に気づいたら、小説に読み浸る時間を設けてみたらどうか。眠れない夜(というより途中覚醒の夜更け、目覚めてしまった早朝)、女性作家たちの文章を読む。

『落日』(湊かなえ  角川春樹事務所)

 正直に言えば、秋口に読んだ『未来』の方が面白かったかな、という印象だ。話者を複数仕立てにする得意のパターンで、「第〇章」と「エピソード〇」という形で交互に展開させていく。こちらの読解能力の衰えもあるのか、途中で何だかごちゃごちゃした印象をもった。

 この題名は語のもつイメージ、そして物語の展開に絡む複層的な意味を持っている。それが明らかに結びつく最後の締めくくりはさすがに上手だった。
 これも映像化されるかな、とふと思う。同時に少しマンネリではないかとも。まさか「落日」では…。
 まずは、今年発刊された作品を読んでから判断してみよう(まあ、余計なお世話だが)。


 これは関係ない景色

『チーズと塩と豆と』(角田光代・井上荒野・森絵都・江國香織  集英社文庫)

 続けて手に取ったこのアンソロジー。舞台はヨーロッパの国、食べ物がモチーフの一つとなる点が共通している。そして、なんと四者とも直木賞作家である。ちなみに、湊かなえは4度ノミネートされ、落ち続けている。関係ないか。
 どの作家の小説も一応読んではいる(森が圧倒的に多く、あとはほんの少しだが)。この作品集では角田と森の作品がしっくりと入ってきた。それにしても、異国の人物(言語も違い、思考も違う)をこんなふうに描けるなんて、手練れの作家たちだ。改めて一流作家のキャパシティを感じた。

 これらの作品には、家族、夫婦、恋人、友人等々、食卓につくシーンが当然登場するが、「同じものを食べる」ということの重要性について、今さらながら考える。
 家族が同じものを食べて暮らすという繰り返しは、どれほど大きなものを育てているのだろうか。性格、体格の違いはもちろんあるのだが、それらを乗り越えて同じもので出来上がっている何か…きっと、それは頑丈なものだろう。欧州の食材と味覚を想像しながら読むと楽しい短編集だ。

笑いは最後の砦だ

2020年12月03日 | 読書
 『笑う脳』(茂木健一郎 アスキー新書)から、もう一つ備忘録として記しておきたい。漫画家しりあがり寿との対談で触れられている内容だ。この部分を読んでいて思い起こしたことが二つあった。「怒られている子どもがふっと笑う場面」そして、俳優竹中直人が昔披露した「笑いながら怒る人」のギャグである。


 「笑いが攻撃性の解毒剤」という見方をしていて、そう考えると竹中のあの演技の面白さの訳がストンと落ちた気がした。もちろん、怖い人が微笑みを浮かべながら銃を撃つシーンなどはよくあるが、竹中のそれは明らかに表面上の笑いと、内面の怒り(言語を発して)を対比させ、そのアンバランスさを見せつける。



 何か事をしでかして、教師に呼ばれ叱られるときに、神妙な顔つきが並ぶなかで、笑みをもらす子がいる。若い頃は「ふざけているのか!」と一喝していたが、そのうちに「ああ、これは緊張に耐えられず誤魔化しているんだな」と考えるようになった。対談では「緊張を解くための解放としての笑い」とされている。


 特に「攻撃性=男性性」という点は興味深い。ビートたけしや松本人志など明らかに攻撃性を上手く「脱構築」したお笑い芸人は、結構存在していることに気づく。対象をどこへ向けるか、その点は芸人の意識の差であると同時に国の文化レベルとも言える。そこから連想するのは、最近の政治家の芸人化という問題だ。


 内田樹が「政治家にも今は脊髄反射的な切り返しで『受ける』ことに非常に貪欲になっている。『政治化するお笑い』と『政治のお笑い化』が同時に進行している」と語るのは、震災もコロナもまだの10年前の対談だ。とすればメディアから流れるその有様自体をもっと笑っていい。それこそ力だ。笑いは最後の砦だ。

目の前の人を笑わす幸せ

2020年12月01日 | 読書
 先週、某小学校の低学年の読み聞かせを終えたら、担任の先生が子供たちに向かって「最近、こんなに笑ったの、久しぶりだねえ」と声をかけてくださった。とても嬉しかった。おそらくは閉塞感がじわりじわりと強くなる現場、そして今年の状況のなかで、ほんのひと時でもそういう場を持つことの大事さ。心したい。


『笑う脳』(茂木健一郎  アスキー新書)


 10年以上前の発刊だ。しかし今でも、いや今だからこそ余計に心に沁み込んでくるような一冊だった。著者の本は結構多く読んでいるが、ベスト3には入る面白さだ。6章にわたる本文と、対談(春風亭昇太・しりあがり寿・内田樹・桑原茂一)と閑話休題と名づけたブログ日記で構成されている。読み応えがあった。


 この閑話休題が特に興味深く感じた。終盤でネタ明かしがされるが、それには触れない。その1が「空き地連盟」と題され、ある住宅街で立札を立てて空き地を開放している方を取り上げていた。この発想はよく語られるとはいえ、なかなか実行できない。改めて、何度も、繰り返しこの考えを拡げていけないものか。

「私たちは、人生の中に、『空き地』を必要としている。すべての時間が目的が決まり、管理されたものであってはいけない」


 笑いの効能を説く本はたくさん出ている。だからと言って、何でも笑えばいいものでもない。誰しも認める笑いの一つは、赤ちゃんの笑顔だろうか。それとTVやネットが時々流す下品な笑いとは差があるだろう。一つは笑いの質ということ。そして笑いの距離感だ。問うまでもないがどちらが大切か。今確かめよ。

「遠くにいる顔の見えない誰かより、『いま、ここ』の目の前にいる人が一番大事だと。その人を笑わせることが出来たら、もうそれで幸せだって。」


 コロナ禍によって現在加速中の変化(ネットの原理的限界を軽視したコミュニケーション)が大事なことを萎ませていると、もう一度意識するべきだ。流れは止められないけれど、それに対応した工夫をしないと、人間が「生きた肉体を持った」存在であることが希薄になり、生きる実感を失っていくのではないか。

「一瞬一瞬こそが、命の儚さそのものなんです。だから、この場限りの親密な関係に没入していくことが、今の僕たちには必要なんです」