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「つながる」は心でしか…

2020年12月10日 | 雑記帳
 昨日、引用した若松英輔のインタビューで、なるほどと考えさせられた記述があった。感染症流行のなかで、人との関係性が問われていることは確かで、その際に使われる語についての言及があった。それは「さわる」と「ふれる」。そして「まじわる」と「つながる」だ。いずれも、物理的には遠ざけられる行為だ。


 「さわる」と「ふれる」の語感の違いを「『さわる』は直接的に接触するイメージですが、『ふれる』には非接触的な語感」と説明し、「ふれる」に「『さわる』ことができないものを感じとろうとするニュアンス」があるとした。新たな時代は「相手にふれる関係を目指していくべき」と語る。思い出した比較があった。



 以前、「つきあい」と「ふれあい」について考えたことがあった。端的に言えば、表面上か内面も含めてか、ということだ。いずれにしても「ふれる」は内面性に踏み込んだ表現である。より深く手を伸ばさなければいけない。そこで、もう一つの「まじわる」と「つながる」に関わる気がする。これらもイメージが違う。


 「まじわる」は直接的、「つながる」はもっと広範囲と言っていいだろう。実際に「まじわる」ことが控えられている状況のなかで、内的な「ふれる」もよりハードルが高くなっている。「つながる」ためにはどうしても言語に頼るが、以前なら直接やり取りできた場が、メールやリモートに替わってきている困難を想う。


 何度か繰り返し書いているが、そこに「身体性」が希薄という自覚をどれだけ持ちえているかだ。伝達手段としての活用は逆戻りはできないとしても、肉声や直筆を使う場を衰退させないように、そのための空間や時間をどう確保していくか…より意識したい。「つながる」は心でしか感じ得ない。心は体の中にある。