すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

当たり前にある衝撃

2016年12月08日 | 読書
 『風邪はひかぬにこしたことはない』(林 望  ちくま文庫)

 こんな当たり前のことが一冊の本になるのだから、そしてそんな本を手に取る者がいるのだから、つくづく読書は奥が深い?著者は「リンボウ先生」として知られる文筆家であるが、書いた本はほとんど読んだことがない。しかし「風邪」のことだけでこれだけ語れるのだから、やはり尊敬に値する創造性だと思う。



 章立ては五つ。「私の『風邪』遍歴」「風邪の予防」「もしひいてしまったら」「風邪と社会的責任」「気力と風邪」。なるほど、これは一つの対象について掘り下げる(いや「書き倒す」かなあ)には、筋のある構成だと思った。つまり、経験から始め、一般論と独自論を展開し、社会や個の精神との関わりを述べていく。


 風邪に罹りやすかった著者が、どのように苦労し、どのように対策を立て、どのように行動しているかが、前半で語られる。これは実際かなり笑える。「人の集まるパーティーに出てもマスクを外さない」「エレベーターに乗るとしても息をじっと止めている」「自分の半径2メートル以内には人を入れない」…どうです!


 もちろん予防や対策はそれだけでなく、鼻うがいの仕方やマスクの選び方、食べ物のこと、医者にかかるときのことなど、経験を踏まえながら自論を展開している。社会との関わりの箇所では、風邪が登場する曲の歌詞やドラマ展開などイチャモンをつけたり…。一つの視点で物事を切り取る典型が、実に面白かった。


 「風邪は哲学か…?」という「あとがきにかえて」の文章は、衝撃!の一文から始まる。 「よくよく考えてみると、『ひく』という動詞を使う病気は、風邪しかない。」確かに確かにその通り。今まで気づかなかった。これだけでも一冊読んだ価値がある。そして「風邪」と「ひく」の関係こそが、この著の肝だと知った。
 
 つづく(笑)

今年のうちにフィルター磨き

2016年12月07日 | 読書
『51歳からの読書術』(永江 朗 六耀社)

 「51歳の読書には51年の人生がフィルターの役割を果たす」が、本書で語られるテーマだ。いやあ、そんなことは意識しなかったけれど、51歳から数えて来春で10年が経つ自分だ。冊数だけなら1000冊は超えているはずだが、何を、どう読んできたかと問われれば、全く狭い範囲に留まっていることが一つの結論だ。



 筆者のことは、雑誌『ダ・カーポ』を愛読していた頃から知っていた。そういえば、書評そのものより執筆している分野の広さを覚えている。それは圧倒的な読書量と手を拡げる範囲に支えられていたと、今更ながらに思う。もっとも、それを仕事にしているのだから当然か。いや、やはり凄まじいまでの読み手である。


 その「術」は、例えば文庫や新書、ハードカバーまでカッターで「分冊化」して持ち歩くこと、「歯磨き読書」と称して、時間固定とその所作を詳しく解説していることによく象徴されている。とにかくどんな分野の本にもとりあえず手を出す。「読んでみなければ、わからない」が心底にあることは、すべてに通ずる。


 読書は自由なものだ。しかし現実は、夥しい量の情報を目にして、どこかの誰かに誘導されるように、本を手にしている場合も多い。それはどこか「食事」との共通点もありそうな気がする。個人的な好き嫌いはあるが、流行りに乗ったり、味に慣らされたり…。自分に必要な「栄養」は何か、もう少し吟味すべきだ。


 この本から刺激を受けたいくつか…一つは「テーマ読書」。著者で追うか、主題で追うか…。もう一つは「図書館の活用」。先月、何十年ぶりかで本を借りてきたので、いいきっかけができた。さらに「事典、辞典類の読破」。結構揃っているので歯応えがありそうだ。今年のうちにフィルターを磨き、すっきり読みたい。

あまのじゃくの価値観

2016年12月06日 | 読書
Volume29

 「私のスタイルの説明は単純である。自分より偉い人や強い人の意見はいったんはすべて否定していくのだ。もし、こうした人たちが自分と同じ考えを持っていたとしても、おとなしくしているのは気に入らないから、自分の考えを真逆に変えてしまう」


 元マイクロソフト社の社長である成毛真の文章。
 この方も、ビルゲイツも、そして私も(笑)同世代である。

 いわゆる「あまのじゃく」は、日本人の多くから嫌われる性格である。
 ゆえに「なかなか大変なのである」とも吐露している。
 しかし、「わざと」相手の意見を否定するためには、発想力も必要だし、勇気も必要になる。
 そこを乗り越えていく耐性はついていくことだろう。

 そして何より「1割ぐらいは面白がってくれるものなのだ」と考え、味方を増やしていく戦略にしているところが凄い。
 やはりそのこと自体を面白いと感ずる、楽天的、楽観的性格が必要だろう。

 多数派と少数派に二分されていくような世の中にしてはいけないと思う。
 「あまのじゃく」が重層的に増えていくような、思考や表現の訓練がもっとされていい。



 ちなみに「あまのじゃく」は漢字で「天邪鬼」と書く。
 それは仏像では、仁王や四天王の足下に踏みつけられている小悪魔を指す。

 京都の東寺で、それを目にしてきた。
 現実社会では、そんなふうにしてはいけませんぞ。


師走に「芝浜」聴けば

2016年12月05日 | 雑記帳
 「師走に『芝浜』」は、落語をちょっと知っている者なら誰でも憧れる。それをあの立川談春が、秋田でやるのだから、大ホールはやむを得ないのだろうか。談春を聴き始めて8年目、今までどれも小、中ホールだったので、まずその点がとても気になった。他の噺家の大ホール高座でも、集中できなかった経験が多い。


 いい席が取れれば良かったのだが、前から13番目のサイドとなるとかなり微妙だ。案の定、やはり視線はとらえにくいし、妙に前方の客の反応が気に障る。そう考えると、寄席の300席規模というのは、ひどく妥当なのだと思う。噺家に限らず座布団の上で演じ、全体を支配できる空間には、限界があるのではないか。



 とまあ愚痴はさておき、談春の「芝浜」がどうだったか、である。そんなに多くの噺家を聴いたわけではないが、秀逸であったことには間違いないだろう。翌日にEテレ「日本の話芸」で「芝浜」をあるベテラン噺家が演じていたが、比較にならなかった。時間的なこともあるが、表現のあまりの差に改めて驚いた。


 声や表情、仕草…どれをとっても屈指の落語家なのだから間違いない。さらに一時間以上の長さで演じるのだから、かなり談春なりの解釈も入っていたと思う。短ければ30分で結ばれるこの噺の、どこを膨らませているかというと、女房の部分が大きい。亭主を起こす時間を間違えたことを気にする女房は初めて見た。


 確かめたくて、談志のDVDも少し見たが、やはりそうだった。嘘をつく決心をする部分なども含め、女房を色濃くしながら、夫婦の情の通い合いを深く聴かせようと意図したか。近くで聴いたらもっと…と言っても詮無いことをまた思う。芸能としての完成度は高かった。「談志を越えた芝浜」かどうかは判らない。

なんか、こお、いい物語

2016年12月04日 | 読書
 『つむじ風食堂の夜』(吉田篤弘 ちくま文庫)


 「なんか、こぉ」と連続テレビ小説のヒロインの口癖を真似したくなる。言葉にうまくできないが、とてもいい物語だ。一つには設定だろう。ブーム?になっているドラマ『深夜食堂』もそうだが、馴染みの店に人が集まる設定は、キャラクターを安定させる仕組みがあるのではないか。基点があると動きやすいのだ。



 心惹かれる表現が多い。いくつか拾ってみよう。「人は上るときにだけ階段の数を数える。おりるときに数えるという人に会ったことがない。」アパートの屋根裏のような7階に住む主人公はその急な階段と格闘するように暮らしている。もちろん、昇降については慣れているが、たいてい「問題」が持ち帰られるからだ。


 「本当にオノレを見極めたかったら、世界の側に立って、外側からオノレを見ることです。ね?そうして、わたしたちはしだいに若いときのとげとげとした輪郭を失ってゆくんです」主人公に絡む「帽子屋」の語りは、常に刺激的だ。物語が動く要素を作る「二重空間移動装置」という万歩計(笑)を登場させるのだから。


 「二重空間移動装置」は、「ここ」に関する会話によって結着した気がする。帽子屋は語る。「宇宙がどうであっても、やっぱりわたしはちっぽけなここがいいんです。他でもないここです。」ありきたりの表現だが意味は深い。「ここ」を自分で規定することによって、宇宙は果てなく感じられるし、つむじ風も起こる。