すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

師走も乱読ですね

2016年12月19日 | 読書
 『賢者は幸福でなく信頼を選ぶ』(村上龍  KKベストセラーズ)

 久々の村上本。どこか醒めた目で語る口調?は独特の味がする。これは3年ほど前の著書であり、内容にもあるようにキューバと関わり深い著者がカストロの死をどう受け止めたか気になった。社会論、生き方論が大半を占めるなか際立ったのが「父の葬儀の夜に」という章。誰しも出発点は親にあることを痛感した。


 『半島へふたたび』(蓮池薫  新潮文庫)

 読みたいと思いつつ、何故か今まで手にしなかった。著者が同年代であることは認識していた。しかし通読して自分と共通点が多かったことに少し驚く。あり得ないが、「失われた二十数年」がもし自分に降りかかっていたら…と想像してしまった。ガイドブックでは決して見えない、かの半島の日常が浮かんでくる。



 『噂の女』(奥田英朗 新潮文庫)

 軽く読むにはもってこいなので、時々著者の小説を読む。ただ今回は読後感があまり良くない。大げさに言うと「地方蔑視」。モノマネタレントが、デフォルメして笑わす手法に近いように感じる。地名から某中部地方の県とわかるが「酒気帯び運転など、地方では当たり前だ」という表現は、同時代感覚として適切か。


 『自分ですぐできる免疫革命』(安保徹 だいわ文庫)

 健康オタクを自称しているので、安保先生の本は何冊か読了している。目新しい情報ではないが、ふむふむと納得してしまう。「医学は人間の自然を十全に生かすためのものであって、人間の自然に逆らってまで長生きさせるものではない」…病気とは一体何か、医療の現状で何か損なわれるか、等々考えさせられる。

つぼをいっぱいにして吉を待つ

2016年12月18日 | 雑記帳
 商品として出しているお菓子のオマケとしておみくじを作ってみた。
 http://spring254.blog.fc2.com/blog-entry-204.html

 その過程で「運勢」について考えようと思い、何気なく「吉」という字を調べたら、結構面白いと思った。



 まず読み方であるが、「キチ」と「キツ」があり、キチの方が一般的とはいえキツの方がそもそもだったのではないかとも考えられる。
 精選日本語大辞典には「キツ」が優先されていた。
 「吉報」「吉方」「吉凶」…など、結構ある。

 意味については「よいこと、めでたいこと」で調べるまでもないと思ったが、新明解と日本語大辞典(講談社)が、面白い記述をしている。

 「さいさきがよい」

 さいさきとは「幸先」である。
 それ自体が「めでたい事のある前ぶれ」という意味を持つ。
 つまり「よい事のある前ぶれがやってきて、それがとてもよい」という、非常にラッキーいっぱいの字なのである。


 「吉」の字源は諸説あるが、いずれにしても「口」は器を表している。
 上の「士」の部分が「まさかり」か「ふた」なのかは定かでない。

 個人的にいいなあと思う解釈が、大漢和辞典にある。

 「つぼをいっぱいにしてふたをした姿を描いた形」

 つまり、中身が充実しているという様子から、よい事へ結びつくのだろう。


 さて、未来を占う運勢で「吉」という字が使われる訳を、今までの解釈をもとに考えられないだろうか。

 今、自分の持っている「つぼ」をいっぱいにすることが、よい事の前ぶれにつながる。
 幸先のいいスタートをきれるための、大きな力となる。

 あと二週間となったこの年を、「吉」という字が示すように中味を充実させれば、新しき年も「吉」となるように廻っていくのである。

登れる山、登れない山

2016年12月17日 | 読書
Volume31

 「世の中には、登れる山と登れない山があることがわからぬのか。」

 久しぶりにB面っぽいキニナルキ。

 これは、かの漫画『美味しんぼ』94集に収録されている「医食同源対決!!」で、私の尊敬する(笑)海原雄山が、究極のメニューの完成を目指すと広言した山岡に対して言い放った言葉である。

 これは、ごく単純に言えば「目標」と「志向」の違いを指していると言っていいかもしれない。

 そこで思い出したのが、NHKBSプレミアムで連続放送され、明日で最終回を迎える『山女日記』だ。



 湊かなえの原作だが、かなり脚色された形で描かれている。
 ドラマ用の副題として「女たちは頂を目指して」がつけられているが、今日のキニナルキと重ね合わせると、こんな問いかけとなろう。

 「頂」って何ですか。

 ドラマは、それぞれ何かを背負った者たちが登山を共にするなかで、ある時は苦悶し、ある時は激励され、次第に何かに気づく設定となっている。
 それは「登れる山」の頂を目指しつつ、「登れない山」道を歩く自分を強く意識することと言っていいだろう。

 深い精神性を孕む物事を目指す者にとって、完成や解決という頂は、実は歩いても歩いてもたどり着くことができない。

 それは、自らの心にイメージし、前進するエネルギーに昇華させるために、いつまでも遠くに臨む峰にある。

『海賊と呼ばれた男』観ました

2016年12月16日 | 雑記帳

 土曜日に封切られた『海賊と呼ばれた男』を早速観に行った。小説は一昨年夏に文庫の上下巻を読み、評判通りの力作であったと、このブログに感想を残している。映画化の期待はあったが、『永遠のゼロ』より時間的スパンが長いので、どう構成するんだろうという懸念があった。クリアしていたと思うが不満も残った。

 すぷりんぐぶろぐ「ソコから始める人の強さ」2014.7.23
 http://blog.goo.ne.jp/spring25-4/e/d2655c1eb886cfd7215eaed7578a9212

  「海賊と呼ばれた男」映画公式サイト
http://kaizoku-movie.jp/

 国岡商店の初期、終戦直後、そして日章丸…当然主要なエピソードは並べられていたが、やはり最低5時間ぐらい必要ではなかったか。原作を読んでいる者からすると、どうしてもダイジェスト版のような気がしてならない。終末への布石が少し不足だ。もちろん興行として成立、成功させるための結果だとわかりつつ…。



 『永遠のゼロ』に続く主演の岡田准一の存在感はさすがだった。穿った見方をすればワンマン店主の一代記であり、それを丸ごととらえて国岡鐵造に入り込んでいた。改めて、映画館のスクリーンの尺にふさわしい俳優はいるものだと感じる。岡田以外、渋い脇役が多く出演していたが、染谷将太にその可能性を見た。


 太平洋戦争の原因の一つが「石油禁輸」であることは周知であり、その結果の象徴的場面から始まる構成だった。外交とは一面でエネルギー資源確保の交渉で、政治の駆引きを踏まえつつ、ぎりぎりの胆力を発揮した者の生き様が描かれた映画である。ニュースの表舞台に出なくとも、そんな志の人がいると信じたい。


肯定感の低さの肯定

2016年12月15日 | 雑記帳
 山崎樹範という俳優をご存じだろうか。ドラマでよく顔を出す。最近では、NHKの『あさイチ』にも出ていて認知度も上がっているようだ。忘れられないのは、10年以上前の『Drコトー診療所』で、三上という若い医師を演じた時だ。人間の弱さや狡さ、そして正直さがよく表れていて、とても印象深く覚えている。



 目立つとは言えないこの俳優を、ライターの武田砂鉄がネットマガジンで論じていた。題して「私たちの大好きな山崎樹範」。その内容は、いわばどうにも前進できていない、情けなく、他人に振り回されがちに見える姿への共感であった。自分が抱いていた印象と重なり合ったので興味深く読み、その理由に納得した。


 それは俳優論や演技論ではなく、一つの社会論、教育論に思えた。武田は教育のキーワードとされている「自己肯定感」を取り上げ、教育再生実行会議が進めている「「子供たちの自己肯定感が低い現状を改善するための環境づくりについて」をテーマとした議論について、疑問を投げかけ、こんなふうに書いている。

 「そもそも自分って肯定しなければいけないのだろうか。他者の価値観にとらわれてはいけないのだろうか。」

 教育再生実行会議が昨年発表した第7次提言「求められる人材像」は、教師に対して「全ての子供の可能性を信じ、その潜在的な能力を引き出す営みを通じて、子供の心に火を点し、高い志とともに自己肯定感を醸成していくことが重要です」と求めている。その文言や方向性について、正直にかつ分析的にこう述べる。

 「なんか怖い。そういう要請を察知しすぎると、当事者は、志の高い自分を無理やりにでもPRするようになるのではないか。」

 一脇役俳優のメディアを通した姿、醸し出す雰囲気について、少なくない人が共感しているという事実に潜む現実を、見事に掬っているようだ。そこには毎年のように話題となる、某有名企業の過労死等やバッシングの問題などに見事につながる気がする。自己肯定感を一律にとらえる動きは警戒しなければならない。

書名だけを読書する

2016年12月14日 | 読書
 国語科の読解で、題名から中味を想像するという活動があった。興味づけを図るねらいも考えられるし、最終的に主題に迫るための布石という方向づけもできよう。しかし個人としての読書で意識してそんなことはしない。多くの人も同じだろう。しかし今回こんな魅力的な題名に出会った。少し考えてみたくなった。

 『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』(森博嗣 新潮新書)




 なんとダイレクトな書名だろうか。そしてまた漠然とした問いであろうか。書名だけですでに問いが浮かび上がる。「いろいろな問題」とはいかなる問題を指すのか。特定できないからこそ、いろいろな問題か。人生とは何か、宇宙とは…から、今日の夕ご飯をどうするか、焼きガキは何故あんなに美味しいのか…まで。


 「どう考えていけば良いのか」という述語部分は、解釈が複数ある。「どう考えれば、問題解決ができるのか」と「どう考えれば、良い生き方ができるのか」。一見前者に見えるが、後者もあり得る。そうでなければ「人間」という主語はわざわざつけない。そこから始めたのは思考だけでなく行動も含むのではないか。


 この書名を筆者自身がつけたのか、編集サイドが選んだか、読む前なので定かでない。しかしこの書名づけは成功だ。少なくとも私はすでにハマってしまった。そして、書き散らしながら三つばかりの仮説を得る。「まず、自分の頭で考えてみよ」「想定する範囲を広げてみよ」「当たり前には使われない表現に着目せよ」

「選」を選べない国の私たち

2016年12月13日 | 雑記帳
 昨日発表された恒例の「今年の漢字」、なんとなく「また『金』かあ」と思った人も多いのではないか。報道にもあるように、「金」は三度目。前回の2012年のときは、学校での漢字の取組みに絡め雑感を書いた記憶がある。解字的な事柄を調べていたら、結構意外なこともわかり、こんなふうに文章をまとめていた。

------「漢字の国、金の国」2012.12.13より抜粋―――

 それにしても「金」である。
 オリンピックや天文現象などがその理由として挙げられている。確かに「金」はイメージとしてこれほど輝かしいものはない字だが、字源としては「大漢和辞典」(学研)によると、「『今』(おさえたふた)+『土』+『砂金』(きんのつぶがちらばっている)」といった意味からできているらしい。

 輝かしいものが何かに押さえられているとしたら、閉塞感充満のこの国の現在にこれ以上ふさわしい字はない。
 そういえば、かの半島の国も、その字のつく人に押さえられている状態ではないか…などと変なことにも気づく。

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 (これは昨日買った「金のなる木」です。)


 改めて読んで状況はちっとも変わらないことに気づく。こんな調子だと4年ごとに「」になりそうだ。ちなみに2位は「」3位は「」4位は「」と続く。あれっ…「変」や「震」はかつて1位を取ったときがあるが、「選」という字はないはずだ。調べてみたらその通り。「選」は1位に選ばれない字なのである。


 「選」に投票した理由は、話題となった複数の「選挙」のことがほとんどだ。いわば常連的に取り上げられる漢字の一つなのかもしれない。しかしトップを取れる漢字かというと、そうでもない。つまり、選択する機会は常に豊富にあるが、それが最終的に印象強く残らない…どこか、この国や国民性を象徴している。


 「選」は、「巽」の部分が「二人並んでいる姿」、部首の「辵(しんにょう)」が「止まっては、また行く」を表し、二人揃っていくという意味に通じている。従って「揃えてみて良し悪しをより分ける」ことになる。選択の連続によって毎日は成り立つが、私たちは本当に選ぶための手順を踏み、自分で考えているのか。

窮屈さに覆われないために

2016年12月12日 | 読書
Volume30

 「社員全員が必死に働いている状態では、どこかでトラブルが起きたときに『渋滞』が起こり、すべて止まってしまう。生産性を上げるには適切な『車間距離』が欠かせません」


 コンサルティング会社の社長である岩澤俊典氏は、「渋滞学」で著名な西成活裕氏と同級生であり、西成氏の研究を「学問と現実を結びつけました」と大きく評価している。

 岩澤氏が語る言葉は、企業などの会社組織でなくとも職場全般に当てはまるように思う。
 また、もしかしたら地域や個々の家庭にも適用できる場面があるのかもしれない。



 「一体感を持って」「チームとして」ということは容易い。
 また否定することではない。
 しかし、その内実を余裕のある目でとらえ、想定の幅を広げた認識を持っていないと、窮屈さで覆われていく。

 個々の生き生きした姿が失われていくということは、不測の事態に向かうとき、結束できない要素が増えていくことではないか。

 ある集団や組織の評価とは、全員が集う場の自由度の高さにあるような気がする。
 くっついている部分もあっていいが、ばらつきが適度にあるほうがいい。

『鬼平』幕引きに放言

2016年12月11日 | 雑記帳
 時代劇チャンネルを視聴するほどのファンではないが、「鬼平犯科帳」は続けてみていた。連続ドラマ終了後のスペシャルも欠かさず観たと思う。周知のように今月初めの2夜連続がファイナル。某所で手に取った週刊誌を覗いていたら、撮影終了時、吉右衛門に殺陣師の方が駆け寄ってきて涙を見せたという記事があった。



 平成元年に始まり150作目で閉じるという。やむを得ないのではないか。今回のスペシャルは殺陣のシーンが何度かあったが、やはり年齢を感じさせた。吉右衛門は何度か歌舞伎座の舞台で見て、その存在感の凄さは承知している。テレビで見せる鬼平も変わりなく見えるが、やはり細かいところが目に付くのも画面だ。


 この「鬼平犯科帳」のドラマは、吉右衛門の実父である松本白鷗(当時は松本幸四郎)が主演した番組も見た記憶がある。それを息子が引き継いだのだから、どうせなら何年か後に、昨日発表された十代目松本幸四郎に引き継いでもらいたいものだ。彼の甘いマスクは不向きと思う方もいるだろうが、血は大事にしたい。


 配役を変える妙味もでるかもしれない。そういえば最終作となった「雲竜剣」も二度目のはずである。今回、伯道役は田中泯だった。これもなかなか渋かったが、前回はあの露口茂だった。「太陽にほえろ」のあのヤマサンが好演した。名作だったという印象が残る。池波作品の良さを生かすには、やはりキャストだ。


 そう思うと、亡くなった江戸屋猫八、高橋悦史を含め、綿引勝彦、梶芽衣子など実にはまり役だ。いや、徐々にはまっていったのか。多くのファンに支えられてキャラクターが出来たいい典型だ。木村忠吾役の尾美としのりなどは、誰が代役できるかというほど馴染んだ。寂しいが、新シリーズ化に思いを馳せたい。

「風邪の神」は、かく教える

2016年12月09日 | 雑記帳
 小学校の教科書に、川崎洋の書いた「とる」という詩が載っている。「はっけよい すもうとる/こんにちは ぼうしとる」と始まる言葉遊び的なもので、「とる」という動詞の多義性をうまく表している。発展として子供たちに作らせる例として「ひく」がよく使われる。「ひく」も実にたくさんの意味を持つ語である。



 広辞苑では大項目が12あり、最初の「糸、紐などのはしを手で取りだして自分の方へ寄せる」という項目が、「手前の方へたぐって近づける」「抜き取る。抜き出す」等さらに細かく12に分かれる。その最後に「ひきこむ。風邪にかかる」が載る。いずれにしろ風邪を「ひく」の意味は「自分の方へ寄せる」の範疇にある。


 他の辞典においても「自分の体内に取り入れる。引き込む」(明鏡国語辞典)「吸い込む。風邪にかかる」(日本国語大辞典)と記される。本来感染する病気であれば「ひく」を使ってもおかしくないのに、何ゆえ「風邪」のみに使われるのか、インフルエンザであっても「ひく」は使われない。これは実に興味深い問題だ。


 かの文庫本の著者は、こう記す。「昔の人は、何か『風邪の神』のようなものが乗り移ってきてしまう現象だと思っていた」。あまりに一般的で、あまりに親しみやすい?この病気は、自分が招き入れたという感覚なのだろうか。そういえば以前読んだ本に、整体師として著名な野口晴哉の書いた『風邪の効用』もあった。


 よく「風邪そのものを治す薬はない」という。解熱や咳止めなど、部分的な個別症状は改善できても、全体を治癒させることはできない。要するに、風邪は治すのではなく「退く」のを待つしかない。つまり「引く」ことがないよう自らの身体を見つめよ、もし引いたらその訳を考えよ、という実に有難い病気なのだ。