『51歳からの読書術』(永江 朗 六耀社)
「51歳の読書には51年の人生がフィルターの役割を果たす」が、本書で語られるテーマだ。いやあ、そんなことは意識しなかったけれど、51歳から数えて来春で10年が経つ自分だ。冊数だけなら1000冊は超えているはずだが、何を、どう読んできたかと問われれば、全く狭い範囲に留まっていることが一つの結論だ。
筆者のことは、雑誌『ダ・カーポ』を愛読していた頃から知っていた。そういえば、書評そのものより執筆している分野の広さを覚えている。それは圧倒的な読書量と手を拡げる範囲に支えられていたと、今更ながらに思う。もっとも、それを仕事にしているのだから当然か。いや、やはり凄まじいまでの読み手である。
その「術」は、例えば文庫や新書、ハードカバーまでカッターで「分冊化」して持ち歩くこと、「歯磨き読書」と称して、時間固定とその所作を詳しく解説していることによく象徴されている。とにかくどんな分野の本にもとりあえず手を出す。「読んでみなければ、わからない」が心底にあることは、すべてに通ずる。
読書は自由なものだ。しかし現実は、夥しい量の情報を目にして、どこかの誰かに誘導されるように、本を手にしている場合も多い。それはどこか「食事」との共通点もありそうな気がする。個人的な好き嫌いはあるが、流行りに乗ったり、味に慣らされたり…。自分に必要な「栄養」は何か、もう少し吟味すべきだ。
この本から刺激を受けたいくつか…一つは「テーマ読書」。著者で追うか、主題で追うか…。もう一つは「図書館の活用」。先月、何十年ぶりかで本を借りてきたので、いいきっかけができた。さらに「事典、辞典類の読破」。結構揃っているので歯応えがありそうだ。今年のうちにフィルターを磨き、すっきり読みたい。
「51歳の読書には51年の人生がフィルターの役割を果たす」が、本書で語られるテーマだ。いやあ、そんなことは意識しなかったけれど、51歳から数えて来春で10年が経つ自分だ。冊数だけなら1000冊は超えているはずだが、何を、どう読んできたかと問われれば、全く狭い範囲に留まっていることが一つの結論だ。
筆者のことは、雑誌『ダ・カーポ』を愛読していた頃から知っていた。そういえば、書評そのものより執筆している分野の広さを覚えている。それは圧倒的な読書量と手を拡げる範囲に支えられていたと、今更ながらに思う。もっとも、それを仕事にしているのだから当然か。いや、やはり凄まじいまでの読み手である。
その「術」は、例えば文庫や新書、ハードカバーまでカッターで「分冊化」して持ち歩くこと、「歯磨き読書」と称して、時間固定とその所作を詳しく解説していることによく象徴されている。とにかくどんな分野の本にもとりあえず手を出す。「読んでみなければ、わからない」が心底にあることは、すべてに通ずる。
読書は自由なものだ。しかし現実は、夥しい量の情報を目にして、どこかの誰かに誘導されるように、本を手にしている場合も多い。それはどこか「食事」との共通点もありそうな気がする。個人的な好き嫌いはあるが、流行りに乗ったり、味に慣らされたり…。自分に必要な「栄養」は何か、もう少し吟味すべきだ。
この本から刺激を受けたいくつか…一つは「テーマ読書」。著者で追うか、主題で追うか…。もう一つは「図書館の活用」。先月、何十年ぶりかで本を借りてきたので、いいきっかけができた。さらに「事典、辞典類の読破」。結構揃っているので歯応えがありそうだ。今年のうちにフィルターを磨き、すっきり読みたい。