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形式に甘えている雰囲気

2015年06月29日 | 雑記帳
 「形式にこだわること、ことばを吟味すること」と題して、『窓』という研究紀要に文章を寄せている。もう20年以上も前のことだ。当時、6年生に対して作文の授業を、市毛勝雄先生などの実践をもとに「作文の型を学ぶ」ことを中心に進めていた。「起・承・束・結」という構成で行数を固定して書いていく形だ。


 自分もその立場になって、20行構成で「授業研究の印象」を書き上げている。なかみは大したことを書いていないが、意は伝わってくるようだ。やはり作文学習の一つの核は形式と言える。その「作文」はここでは引用しないが、書いた後の振り返り的な文章は、内容としてはずいぶん奮っている印象がある。若い。


 学習指導案もまた形式を重視しています。伝える相手に対する要件を設定しているからです。その範囲で思考を練る必要があります。ということは、ことばの吟味が厳しく要求されるべきでしょう。
 「子どもへの支援」という項目があります。そこには「~~よう助言する」などと書き込まれますが、どうしてそれが支援といえるのか、私たちは深く考えているでしょうか。



 「どうしてそれが支援といえるのか」…言いたかったのは、「助言」の「目的」だったろうか。それとも「レベル」のことだったか。見方を変えれば、助言による「わかる」「できる」が、最終的にその子の力になっていく見通しがあったか、とも言える。「ことばの吟味」と簡単に書いたが、そんな生易しいものじゃない。


 「形式にこだわる」と言えば、確かに自分はその性質があり、かなり拘りがある。それはきっと何かの反動だと推測している。勝手気ままに書けるネットのこうした文章にあっても、変な縛りを入れて構成するのだから…。確かに限定された中の思考は楽しい時もあるが、最近どうも形式に甘えている雰囲気が漂う。

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