すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

教材開発する精神の在り方

2014年07月11日 | 読書
 「2014読了」67冊目 ★★

 『エピソードで語る 教師力の極意』(佐藤幸司 明治図書)


 この夏に町の研修会にお招きするので、それではと思い、一冊購読した。
 もちろん、佐藤幸司先生の名前は知っていたし、道徳教育改革の冊子を継続して購読していた時期もあったので、何度となく論文は読んでいた。
 しかし、単行本は初めてである。

 佐藤先生といえば「道徳教材開発」がトレードマークと言ってもよいだろう。
 その精力的な歩みは、どのような基盤を持ち、何を支えにして高められてきたのか。

 ある意味で、第1章から第5章までに名づけられた言葉、それも単語がそれを表している。

 「志」「同志」「原点」「居場所」「道」


 特に「原点」として掲げた「特殊教育に学ぶ」は、直接的に道徳に触れた内容ではないが、その存在の大きさを感じる。

 そこに表された、三つのキーワード

 手厚さ、細やかさ、温かさ。


 それを形にするために、通信「文殊の知恵」の発行があり、「蝶結び養成マシン」の製作があった。

 第4章「居場所~学級づくりへ」は、その「原点」にある精神を、通常の学級に反映させたと言っても間違いないだろう。
 実践そのものは特に目新しいものではないが、書かれた文体からにじみ出てくるのは、やるべきと自分が信じたことを坦々とこなしてきた教師の姿である。


 そうやって一年ごとに結実させてきた結果で、私達に一番よく見えるのが「道徳教材開発」ということであり、それ以外に佐藤先生が抱えているエリアはおそらくかなり幅広い。

 佐藤実践は、自ら原点と位置付ける「手厚さ」「細やかさ」「温かさ」で分析できる要素をきっと持っているに違いない。

 見えるものだけでなく、精神の在り方まで想像できれば、それは教材開発をしていくための大事な視点となる。


 夏の研修会が一層楽しみになってきた。

神様が守りたくなる子

2014年07月10日 | 雑記帳
 町内の学校から要請があり、4年生の国語の授業参観をする機会があった。「調べたことを報告する文章を書こう」という単元で、事前にちょっと教科書を覗いてみたけれど、扱いにくい内容だと思った。念のため、同じ出版社が出す予定の次年度版を見ると、その単元は「新聞づくり」にシフトしているようだった。


 新教科書では「報告文」は他単元に移動していて、形式も異なる。改善されたようだ。これなら扱えるだろう。さて、今回の学習の報告文のもとになるのはアンケート結果。教科書は「読書」だが「お手伝い」に替え、全校児童から「手伝いの種類」「かかった時間」「やっている時の気持ち」などが訊かれていた。


 そのなかに「やり始めたきっかけ」という項目があった。当然だろうが「家族に言われて」が一番多く、次いで「自分から進んで」でその半数だった。それ以外では「おこづかいがほしくて」という正直者が3名いて、「まねして」という子も2名。そして最後の1名がこう書いた…「神様に守ってもらえるように」


 いいなあと思う。何年生が書いたかは知らないが、その子の手伝いは、例えば、仏壇や神棚にあげる水を換えることかもしれない。そして、一日一回手を合わせる。例えば、玄関掃除かもしれない。一緒に始めたとき「玄関をきれいにしておくと、いい神様がやってくるよ」と祖母に教えられたことを今でも覚えている。


 そんなふうに育つことは人間の芯を鍛える。言葉だけで、神仏が大事だとか、人に迷惑をかけてはいけないと諭されても、それは身体に沁み入りにくい。それに見合った動作とともに繰り返される大事な教えこそが、結晶化されていくように残っていくのではないか。神様が守りたくなる子は、そんな経験をしている。

観察対象としての「先生」

2014年07月09日 | 読書
 「2014読了」66冊目 ★★

 『短歌ください』(穂村 弘 角川文庫)


 雑誌『ダ・ヴィンチ』は年に1,2回しか買わないので,投稿コーナーがあることは知っていたが,あまり記憶にない。
 いずれ,穂村弘選による読者の短歌と選者の評によってまとめられている。


 穂村の『短歌という爆弾』には触発されたが,実際には少々難解なところもあった。その点,これは実にわかりやすく,穂村の考えが伝わってきた。
 一番わかりやすいのは,何度か繰り返されている次の言葉だった。

 怖い歌はいい歌


 短歌の爆弾性に通ずるし,もっと広げれば毒薬性という見方もできよう。

 雑誌の性格上,10代,20代が中心の投稿で,40代以上は数えるくらいだが,なんとなく共感できるものが多い。

 特に職業上気になるのは,学校を対象にしたものだ。

 ページの折り目は本当に多く付いたが,教師を対象?とした三つばかり紹介してみる。


 この街の6時のサイレンは半音くるっていると言った先生

 先生は消防車走る昼間でも有無を言わさず指名している

 三階の教室に来たスズメバチ職員室は一階にある



 いずれにしても,お気楽のように見えて,冷徹な観察眼が感じられる。

 どこかに醒めや痛みを感じている「子ども・元子ども」にとって,観察の対象として教師ほど典型的で,見えやすい者はいないのかもしれない。

 自虐的な笑いも浮かんだ短歌集であった。

人生の万華鏡を楽しむ

2014年07月08日 | 雑記帳
 引率していった修学旅行のビデオ編集をようやく完成させた。

 いつもならDVD書き込みのところでトラブルのだが、今回はそれはなかった。
 しかし、ソフトをつかって編集している段階で、画像が動かなくなったりしてやや不安を持ちながらの作業だった。

 出来はあまり良くないが(それは撮影時点の問題も多く)まあこれ以上付き合っても進歩がないだろうと見切り発車的に仕上げた。
 何事も経験、経験と次の機会にチャレンジである。

 さて、その修学旅行の写真などもきちんとフォルダー化してと、改めて見直したら、初めて出向いた「万華鏡美術館」の一枚が目に留まった。

 仙台万華鏡美術館のページはこちら



 万華鏡作家である辻輝子という方の文章を、パチリと写したものである。

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 人生はまさに万華鏡のようですね。

 わずかな角度の違いで局面がすっかり変わってしまうこと。

 もう一度あの場所を呼び戻したいと思っても、二度と再びといっていいくらいに戻ってはこないこと。

 実に人生を象徴するじゃありませんか。

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 ううん、深いですなあ。
 実にその通り。

 近い模様はできるだろうが、厳密には同じ模様は出来ない。
 ちょっとした違いが、全体の印象を大きく左右することがある。

 熟練すれば意図したような模様ができるのかもしれないが、多くの場合は偶然に頼る。
 その結果、まったく予想外の姿を見せることもある。

 とすれば、ここから学べるものはたった一つ。


 どんな模様であっても面白がったり楽しんだりすれば、幸せな時間になる。

星を見上げる自分を

2014年07月07日 | 雑記帳
 今日は読み聞かせ。7月7日だから星ネタと思い、手持ちの紙芝居から『ふたごのほし』という賢治作品を選んでみた。夜に笛をふき星たちを巡らせる役目の双子の星が、ほうき星に騙されて海へ落ちて…という話だが、賢治だけに単なる勧善懲悪ではない。テーマは成長なのか、博愛なのか…星の話はロマンがある。


 事前に、一応七夕の話もおさらいしてみたが、実際にはあまり面白い物語とは言えない。逆に天文学的に七夕を考えたりするサイトがあって興味を惹かれた。実際に「織姫星と彦星が、七夕の夜に近づくのだろうか」という問いがあり、その答え?は、二つの星の距離を教えてくれた。なんと、15光年だそうである。


 光速と同じ速さで進む電波をつかった場合に、織姫と彦星がケータイで会話しようとしても、「もしもし」「あ、織姫ちゃん?」という会話をするとなると30年かかるという話が、わかったようなわからないようなスケールだった。引き裂かれて、それを振り返ったりできる範囲というものは、かなり限られているのだろう。


 七夕と言えば、以前はよく学校でも七夕集会をしていた。今、児童集会は少し尻すぼみ傾向のようだが、願い事を短冊に書いて笹竹に飾ることはシンプルだけれど、年中行事としては体験しておきたい。星を見上げる自分を、だんだんと客観視できることは成長の証しだが、その機会を特別活動とみても不思議はない。

「やさしい刺激をし続ける」法

2014年07月06日 | 読書
 ちょっとした健康オタクである。というより「健康法」オタクと言った方がいいか。だから、その系統の本も結構読んでいる。
 愛読している小西先生のブログ「福禄寿」に、「佐田式健康法」のことが出ていたので興味を持ったので、購入してみた。

「2014読了」65冊目 ★
 『佐田式健康法』(佐田欣夫 たにぐち書店)


 こういった個人の唱えるものはなんとなく胡散臭く思われたり、結局商売に結び付けようという魂胆があると考えられたりしている。
 しかしそんなことを確かめてどうにもなるわけではなく、要は自分に合うかどうか、なのだと思う。
 実践してよければ取り入れればいいだけの話である。と言いながら、実際にやってみるのは1割程度か(笑)。

 この健康法は、「指のコチョコチョ」「お腹グルグル」に象徴されるいわば刺激法の一種が中心になっている。
 特徴的なのは、軽く、やさしく、という点である。
 「やさしい刺激がよい刺激」ことが繰り返されている。

 これは、なかなか今までなかったなあと思う。
 「指もみ」も結構長続きしてやってみたが、それは強い刺激であり、そのことで健康になるような実感を得ていたように思えるのである。

 弱い、いわばなでるような刺激で効果があるのかなあ、と素直に思う。
 しかし、例えば「指のコチョコチョ」は1本10分という、結構な時間をかけて行われるものである。
 このぐらい続けてみると、少しずつ快感めいたものになってくるから不思議だ。


 そんなことを考えていたら、毎日の仕事にも共通点があるのではないかと思えてきた。

 つまり「やさしい刺激」をずっと続けることが、効果が上がるのではないかという仮説だ。

 「強い刺激を連続して行う」「ふだんはあまり刺激せずに、時々強い刺激を行う」と比較してみたときに、それはどんな流れを形づくるだろうか。

 具体的な刺激の「なかみ」によって違うのかもしれない。
 例えばある教科の特定の内容(国語の漢字習得など)をイメージみたときは、どうだろう。

 実際場面を思い浮かべれば「やさしい刺激をし続ける」がおそらく一番効果的だ。そして、一番難しい。
 まさしくそれは「法」である。
 人は、ある意味で「法」によって、人間になっていく。

 「やさしい刺激をし続ける」という法は、ずいぶんと汎用性があると思う。

山の畑,町の空地

2014年07月05日 | 雑記帳
 ボランティア委員会の子どもたちが,高齢者との触れあいの一環として農園活動をするというので一緒に出かけてみた。短時間ながら意義のある活動だったと思う。そこは,幼い頃の記憶が残る場所のすぐ近くにあった。実家ではわずかながら山間地に畑を持っていた。小学生当時に手伝いとして何度か足を運んだ。


 じゃがいも畑だったように記憶している。そして桐の木を何本か植えていた。自分の家ばかりでなく,他の家も同様にあり,広大とは言えないがある程度畑が広がっていた。今,そこへつながる道にはチェーンが回されて道止めされている。入口に井戸の跡らしきものが残っていた。何度ここで口を潤したことだろう。


 そこから町内にもどったら,妙に懐かしい光景を目にした。空き地で中学生が数人ボール遊びをしている。期末テスト期間なのだろうか。それにしてもこういった場面を何年も見ていなかったなあ,と思う。数十年前からだんだんと空き地が少なくなり,遊び自体もだんだん囲われてきた背景があったからだろう。


 そして今,また空き地が目立つようになり,そこへ子どもたちがもどってきた…と言いたいところだが,空き地には管理する看板が立ち,子どもの数は本当に少なくなりどこか忙しげな日常を送っているようで,空き地の子どもは皆無となった。件の中学生たちの行動もたまたまであり,もしかしたら明日叱られるか。


 山の畑も空き地のことも,過疎化の象徴なのかもしれない。しかし逆に都市化してきた結果であるようにも感じる。糸井重里は「都市化は,分業化であり,部品化である」と言った。空間としては確かに存在するが,そこに価値があるのか,見いだせるのか…自ら作り出せなければ,過疎の町の都市化は進行していく。

落ち込み対策語録

2014年07月04日 | 雑記帳
 先週、ある件が妙にひっかかり、心を暗くした時間があった。解決できることなのに、踏み出せない性格をくよくよする、よくあるパターンだ。脱け出すきっかけは「そんなことに悩んでいる暇はないのだ」という俯瞰的な位置へのスライドだった。気分転換もいいが、思考の幅を広げる方が自分にはベターのようだ。


 この頃落ち込む時がなかったので、上の経験は貴重だった。落ち込まないのはやや諦めが生じているからなので、自分もまだまだだという意識があるからこそ、些細な点を気にしたのか…呑気すぎるかな。たまたま机の引き出しにあった小冊子「みんなであつめた心に残る言葉」から、落ち込み対策を拾ってみよう。


 「落ち込んだ時は好きな人の名前を3回唱える」

 これは若者向けでしょうね。


 「辛い、苦しい は感動の序章」

 これも前向きで、実に若々しい。


 「不遇の時を見事に生きよ」

 こんなふうに言えたら尊敬します。お坊さんの説話のようです。


 「笑っちゃえば、何でも笑い事になるから不思議だよねぇ」

 具体的な行動による打開策はあった方がいい。使える。


 「反省は、太く短く」

 いい。ドンとしまい込む様子が見えるようだ。

プールが開く苦い思い出

2014年07月03日 | 雑記帳
 学校のプールにようやく歓声が上がった。ずいぶんと前にプール清掃はしたのだが,水質検査がなかなか出来ず,今までお預けだったので子どもたちは待ち遠しかったろう。昨日の全校集会では「マグロの身が赤いわけ」を話して,水泳で体を鍛えることにつなげた。今年も元気いっぱいにたくさん泳いでほしい。


 水泳の学習には,多少の思い入れがある。運動が苦手な自分がある程度できたのが水泳だった。しかし初めて勤めた山間部の学校にはプールがなく,隣校に出向いての指導だったので,その3年間は記憶にない。2校目に移った頃,民間教育団体の実践を知るなかで「ドル平泳法」と出会った。長い付きあいとなった。


 泳ぐとは何か,ということを考えさせられた。苦しくなったから息つぎをするのではなく,呼吸しながら進むという考え方は当時の自分には新鮮だった。いわゆる近代泳法とは違い,長く泳いでいると,水と一体化しているような感覚を味わうこともできた。そうした感覚を,子どもたちにも教えたいと強く思った。


 その思いを技能として伝える術は,はっきり言ってまだまだだった。だから実践した4つの学年全てで,全員25メートル達成ができたわけではなかった。大半は50メートル以上にはなり,泳げる子は3年生の時点でも何百メートルを越すのだが,最後の一人,二人が叶わないままにシーズンを終えてしまうのだった。


 病気だったり,体調を崩したりという理由はあったろう。他の子が次々と泳力を伸ばすなかで,遅れている子が意欲を持ち続ける配慮を出来なかった。自分で子どもにかかわろうとする気持ちが強すぎて,もっと他の子の力を借りるといった発想まで思い至らなかったのだ。今ならもう少しマシにできるかもしれない。


 当時,山間部の学校で水温が上がらぬうちでも「入りたい」という要望に応えて始めてみたり…今となってはかなり無茶なことをした。その結果,寒冷蕁麻疹が起きる身体になったというオマケつきで,しばらく前から全くプールには入れない。結局は苦い思い出なのだ。それを懐かしめるのは,一種の諦めか。

その結び方を覆っているもの

2014年07月02日 | 雑記帳
 昨日、本県大館市の教育長である高橋善之氏の講演を拝聴した。「未来ゆきの乗車券」と題したそのお話は骨太であり、困難ではあるけれども何とか現状を打破したいという気概の感じられるものだった。概要の一部はこの文章によくまとめられていると思う。秋田県人なら多くが抱いている危機感がそこにある。


 進められているプロジェクトは、子どもたちの活動の広がりを地域住民が支え、その動きを地域活性化につなげていく構図のようである。着実な歩みを見せている。これは、かなり意図的に進められた結果であり、表面的な活発さだけのものとは一線を画している。その点を「未来戦略」と言い切るビジョンも力強い。


 氏の実行力に敬服しつつ、どうしても拭いきれない思いがある。本県やそれぞれの市町村が「生き残る」ための大きな資産は、「学力日本一」の子どもたちであるという論は、確かにその通りだろうが、誤解を生みやすい表現でもある。平均値としての「学力」が高いことを「地域」や「将来像」とどう結びつけるのか。


 それにしても25年度全国学力の本県偏差値「83.73」に驚く。言われるように下位層の値が高いのだと思う。特に活用Bがいいとすれば、その可能性の一つに良いフォロワ―づくりといった点を見いだせるかもしれない。つまりは周囲とコミュニケーションがとれ、実行力もあり、リーダーと共に歩めるという資質だ。


 そういう学びを形づくるに必要なのは、まずは楽しさだろう。教科書中心の座学だけでは叶わないが、関連させる具体的な体験や活動の適切な選択さえあれば、結びつかないものでもない。ただ一方で、一定水準の「学力」を目指すために、画一化の道を歩んでいる現状を思うと、どうも萎んでいきそうな気もする。